第131話:魔王の涙と、終わらぬ睨み合い
血と泥に塗れた宇佐山城の防衛戦は、文字通り地獄の様相を呈していた。
三万という圧倒的な数を頼りに、浅井・朝倉の兵は蟻の群れのように城門と土塁へ殺到してくる。
だが、それを迎え撃つ城の守備兵たちの士気は、主君を失った絶望で崩れ去るどころか、凄絶なまでの怒りと忠義によって限界を超えていた。
「殿の無念を晴らせ! 刺し違えてでも城を死守せよ!」
「三左衛門様が命を賭して守り抜いたこの城、一歩たりとも踏み入らせるな!」
家老の各務元正が、血だるまになりながらも陣頭で太刀を振るい、声を枯らして兵を鼓舞する。
森軍の兵たちは己の命と引き換えにするような決死の刺突で、土塁をよじ登ってくる敵を次々と堀へ突き落としていく。
その凄まじい執念に当てられ、俺たち木堀尾組もまた、死に物狂いで防衛線に加わっていた。
「押し返せ! ここを抜かれたら全員死ぬぞ!」
俺は恐怖と疲労で裏返りそうになる声を張り上げ、槍を力任せに薙ぎ払う。
十五キロにも及ぶ尋常ならざる重さが、群がってくる敵の盾ごと肉体を叩き割り、数人をまとめて泥水へと弾き飛ばした。
「兄上! 左の土塁は我らが持ち堪えます!」
氏光が血飛沫を浴びた顔で叫び、槍を振るって敵の波を食い止める。
但馬も夜叉のように顔を歪め、防柵の隙間から正確に敵を突き崩していた。三太夫は陣形が乱れた敵の懐へ飛び込んで刃を振るい、勘兵衛の冷静な指示によって弓隊が矢を放ち、土塁の下で立ち往生する敵を次々と射抜いていく。
森軍の決死の抵抗と、俺たちの必死の防戦が噛み合い、局地的に敵の波が押し返されていく。
だが、多勢に無勢であることに変わりはない。
城を囲む三万の怒声は地鳴りのように響き続け、休む間もなく波状攻撃が押し寄せる。俺の全身の筋肉はとうに限界を超え、握力は消え失せていた。
槍の柄は敵の返り血と己の脂汗で滑り、足元の泥は無数の死体でぬかるんでいる。
(もう駄目だ……腕が千切れる……。可成様、あんたこんな地獄の最前線で戦ってたのかよ……!)
極度の疲労で膝がガクンと折れかけ、視界が真っ赤に点滅した、その時だった。
「茂助様! 南の街道より、大軍の砂煙です!」
物見櫓から、捨吉の叫び声が響いた。
また敵の増援か。そう思って絶望しかけた矢先、各務元正が血まみれの顔をほころばせ、刀を天に突き上げた。
「見よ! あの馬印! お館様の本隊にござる!」
南の街道を土煙と共に埋め尽くしたのは、織田の軍旗だった。
摂津で本願寺と泥沼の戦いを繰り広げていたはずの信長が、宇佐山の危機を知るや否や、全軍に強行軍を命じて京を抜け、この死地へと駆けつけてきたのだ。
「お館様のお出ましだ! 押し返せェッ!」
城兵たちの歓声が爆発する。
背後から織田の数万の本隊が迫っていると知った浅井・朝倉の三万の大軍は、瞬く間に恐慌状態に陥った。彼らは宇佐山城の包囲を解き、蜘蛛の子を散らすように北西の山中へと退却を始めた。
「……敵軍、比叡山へと逃げ込んでいきます」
勘兵衛が、敵の逃走経路を見据えて言った。
「比叡山? ……もしかして、延暦寺って寺か?」
「はい。神聖なる仏の山であり、古来より誰も手出しできぬ不可侵の領域。浅井・朝倉はあの山を盾にして、我らをやり過ごすつもりのようです」
「……冗談だろ。そんな山に逃げ込まれたら、こっちから攻撃できねえじゃないか」
俺は血だらけの槍を突き立てて、重い溜息をついた。
これではいつ終わるとも知れない泥沼の睨み合いが続くことになる。
敵の退却が確実になると、張り詰めていた糸が切れたように、森軍の兵たちはその場に崩れ落ちた。
各務元正も刀を杖にして、無言のまま男泣きに泣いている。俺も槍を投げ出し、泥の中にへたり込んだ。
その直後。
開け放たれた城門から、一騎の馬が静かに入ってきた。
僅かな供回りを連れ、強行軍の砂埃にまみれ、鬼気迫る表情をした信長だった。本陣からそのまま飛んできたのか、その甲冑はひどく汚れ、息も荒い。
信長は馬から飛び降りると、立ち上がった各務元正に向かって、低く、かすれた声で問うた。
「……三左は。三左衛門は、どこだ」
各務元正が、再び泣き崩れながら、城の奥の広間へと震える指を向けた。
静まり返った広間にはむしろが敷かれ、その上に可成の骸が横たわっていた。
全身に無数の刃を浴び、無惨に切り裂かれたその体は、彼がどれほど絶望的な数の敵を相手に、一歩も引かずに立ち塞がったかを雄弁に物語っていた。
信長は、ゆっくりと骸のそばに歩み寄り、泥だらけの膝をついた。
俺は部屋の隅で、ただ息を潜めてその背中を見つめていた。
天下を恐怖で支配し、魔王とまで呼ばれる男。家臣の死など、盤上の駒を失った程度にしか感じないのではないか。そう思っていた。
だが、信長の広い背中は、小刻みに震えていた。
「……大たわけが」
絞り出すような、ひどく掠れた声だった。
信長が、可成の冷たくなった血まみれの手を、両手でしっかりと握りしめる。
「俺より先に死ぬ奴があるか……。尾張での小競り合いから、ずっと俺の側にいて、俺の槍となって戦い抜いてきたお前が……。こんな所で、ひとりで逝く奴があるか……ッ」
ポタリ、と。
床板に、黒い染みが落ちた。
信長の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。声を出さず、ただ奥歯を噛み締め、己の半身を失ったかのように、信長は友の骸の前で静かに、そして激しく泣いていた。
俺は、その光景に激しい衝撃を受けていた。
この男は、血も涙もない魔王なんかじゃない。己に従う者たちに深い情愛を抱き、その死に誰よりも心を痛める、一人の血の通った人間だったのだ。
果てしない戦いの道を進むため、冷酷な魔王の仮面を被り、その裏で数え切れないほどの仲間の死を、この背中に背負い続けてきたのだ。
(……この人は、背負ってるんだ。俺たち全部の命を)
ふと、可成が俺の屋敷で言っていた言葉が蘇る。
『お前のように広い視野を持つ男の顔を見せておきたくてな』
可成は、俺が織田家を支える一つの歯車になることを期待してくれていた。前線で血を流す者たちに代わり、背後を支える力になることを。
俺は、血のべっとりとこびりついた槍の柄を、ミシミシと鳴るほど強く握りしめた。
怖い。戦は怖いし、死ぬのはもっと嫌だ。
けれど、この泥まみれの世を終わらせるため、友の死に涙を流しながらも、血塗られた道を進み続けるこの男の背中を、俺は最後まで見届けなければならない。
「……俺だって、やれるとこまで、やってやりますよ」
俺は誰にも聞こえない声で呟き、静かに泣き続ける信長の背中と、恩人である可成の骸に向かって、深く、深く頭を下げた。
好きな人物が逝ってしまいました。
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