第130話:森可成死す。恩義への疾走
森三左衛門可成死す。
その凶報が俺の耳に届く、わずか数日前のことである。
北近江の最前線、横山城という泥沼の死地にいた俺の元に、将軍・足利義昭から名指しによる強い招集状が届いた。
「公方様直々の呼び出しとあらば仕方ねえ。茂助、京へ向かえ」
藤吉郎は、終わらない土木作業と小競り合いで疲労の色が濃い顔を上げ、俺にそう命じた。
「え? 小谷城の浅井軍と睨み合っているこの最前線を離れてもいいんですか……?」
「公方様の不興を買えば、摂津で本願寺に釘付けになっているお館様がさらに政治的に追い込まれる。それに、お前なら京で公方様の機嫌を上手く取れるだろう。頼んだぞ」
そうして主君の命を受けた俺は、一時的に地獄の横山城を抜け出し、京の二条城へと入っていた。
久しぶりに嗅ぐ都の香りは、横山城の血生臭い泥の臭いとは違い、どこか浮世離れした静謐さを纏っていた。
「おお、茂助! よくぞ参った! 息災であったか!」
二条城の奥の間に通されるなり、義昭は俺の手を取らんばかりの勢いで立ち上がった。
将軍という雲の上の存在でありながら、俺というただの武将に向けるその目は、まるで唯一の友人に縋るような無防備な親愛に満ちている。
「義昭様も、お変わりなく……と言いたいところですけど、顔色が悪いですね」
「……うむ。信長が摂津で泥沼の戦いになり、身動きが取れなくなっておるからな。余の膝元であるこの京も、いつ火の粉が降りかかるかわからぬ」
義昭が神経質そうに扇子を弄った、その時だった。
「急報にございます!!」
廊下を激しい足音が叩き、血相を変えた幕臣が転がり込むようにして平伏した。
「越前の朝倉、北近江の浅井……両軍合わせておよそ三万の大軍が、琵琶湖西岸を南下! 宇佐山城へ迫るとの報にございます!」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
浅井・朝倉が、信長の本隊がいない隙を突き、京の喉首である宇佐山を狙って動き出したのだ。
「宇佐山だと!? 誰が守っておるのだ!」
「織田家重臣、森三左衛門可成殿にございます! ですが、城の兵数はわずか千足らず……!」
可成様。
その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に、戦国ジャージに身を包み、揚げたてのかき揚げを美味そうに頬張っていたあの人の笑顔が鮮明に蘇った。
常に最前線で気を張り詰め、血の気の多い息子・勝蔵の行く末を案じていた、不器用で義理堅いあの「攻めの三左」。
『もし俺に万が一のことがあれば……あの勝蔵たちのこと、少しでいい、気にかけてやってくれ』
初夏に鮎を焼いた日、冗談だと笑い飛ばしたあの不吉な言葉が、呪詛のように耳の奥で響く。
「も、茂助! どこへ行く! 余の側にいろ! この二条城から一歩も離れるな!」
義昭が悲鳴のような声を上げ、俺の袖を強く掴んだ。
京の防衛力に不安を抱く義昭は、俺をどうしても手元に置いておきたいのだ。
俺だって、死ぬのは嫌だ。三万もの大軍が押し寄せる宇佐山なんて、正気の沙汰じゃない。
だが。
(……あんな縁起でもないこと言ったまま、死なせてたまるかよ!)
俺の作ったジャージの着心地を喜び、鮎の焼き加減を褒めてくれたあの恩人を、見捨てられるわけがなかった。
「……申し訳ありません、義昭様」
俺が静かに、しかし断固として義昭の手を振りほどこうとすると、将軍の顔が恐怖と、そしてどす黒い怨念に歪んだ。
「茂助……! お前も余を見捨てるというのか! 信長のように!」
「え……?」
「あやつは余を天下の飾りとしか見ておらぬ! 己の戦に夢中で、この都も余の命も放り出して摂津に釘付けになっておるではないか! 茂助、お前までこの余を捨てて死地へ赴くというのか!」
義昭の悲痛な叫びには、信長に対する抜き差しならぬ不信感と亀裂が、はっきりと露わになっていた。
天下人たる将軍が、なりふり構わず俺という一介の武将に縋り付く。俺の胸は酷く痛んだが、それでも足は止められなかった。
「……見捨てるわけじゃありません。ただ、俺にはどうしても行かなきゃならない場所があるんです。……あの不器用な人に、まだかき揚げも鮎も、食べさせ足りないんですよ」
俺は一度だけ深く頭を下げると、制止する幕臣たちを突き飛ばすようにして走り出した。
「待て! 茂助ェッ!」
背後から響く義昭の悲鳴を振り切り、俺は二条城の門を飛び出した。
「茂助様! 準備できてます!」
城門の前では、捨吉が愛馬『軽トラ』の手綱を握って待っていた。
「行くぞ! 目指すは宇佐山だ! 遅れるんじゃねえぞ!」
俺は巨躯を揺らし、槍を肩に担ぎ直すと、三万という絶望が待つ比叡山の麓へと馬を飛ばした。
普段はてんで走らない駄馬の『軽トラ』が、この時ばかりは街道を猛烈な勢いで疾走する。
***
宇佐山の城が見えてきた頃には、すでに辺りには黒煙が立ち込め、朝倉・浅井の先陣が蟻のように山へと群がり始めていた。
「敵の先陣が城を囲むように展開してます! 完全に道が塞がれるまで、あと一刻もありません!」
「立ち止まるな! 包囲が完成する前に間を抜けるぞ!」
俺たちは馬の腹を蹴り、敵の陣形が完全に繋がる直前の、わずかな隙間を間一髪で駆け抜けた。背後で敵兵の怒声が響く中、血と泥に塗れた宇佐山城の城門へと滑り込む。
「開けろ! 堀尾茂助だ! 加勢に参った!!」
重い城門が閉じられると同時、俺は馬から飛び降りた。
城内は、すでに阿鼻叫喚の地獄だった。傷ついた兵たちがうめき声を上げ、血の臭いがむせ返るように充満している。
「可成様はどこだ!?」
俺が声を張り上げると、前線で采配を振るっていた血まみれの武将が、幽鬼のような顔でこちらへ歩み寄ってきた。
「……貴殿は、木下組の堀尾殿か」
「あんたは?」
「某は森可成が家老、各務元正にござる。……よくぞ、この死地へ駆けつけてくださった」
各務と名乗ったその男は、血の滲むような声で言った。
「各務殿! 可成様はどこだ!? 怪我でもしたのか!?」
俺が詰め寄ると、各務元正はギリッと奥歯を噛み締め、両目から血の涙を零した。
「……遅かった。殿は、先ほど坂本の町にて、討ち死になされた」
「……え?」
俺の思考が、白く塗りつぶされた。
三万の敵を宇佐山に釘付けにするため、あの人はわずかな手勢で城を討って出て、文字通り肉の壁となって京への道を塞ぎ、多勢に無勢のなか、壮絶に果てたという。
「……なんだよ、それ」
俺は手に持っていた槍の柄を、ミシミシと音が鳴るほど強く握りしめた。
間に合わなかった。あの不器用で温かい武将は、己の命を代償にして織田の危機を救い、すでにこの世を去っていたのだ。
「茂助様! 敵が城壁に取り憑き始めました! 完全に囲まれています!」
捨吉の悲鳴のような報告が響く。外からは、三万の大軍の雄叫びが地鳴りのように城を揺らしている。
俺は、熱くなりかけた目元を泥だらけの籠手で強引に拭った。
「……各務殿。可成様が命を懸けて守り抜いたこの城、俺たちが引き継ぐ。三万だろうが十万だろうが、この宇佐山から先へは一歩も通さねえ」
悲しみに暮れる暇すらない。絶望を飲み込む余裕すら与えられない。
指揮権なんてそんなものは知らない。
俺は、恩人の血が染み付いた宇佐山の泥の上に立ち、鉛色の空の下で吠えた。
「堀尾組、前へ! 盾を並べろ! 死に物狂いで城を持たせろ!!」
猛将・森可成が遺した、宇佐山の落日。
その絶望的な防衛戦の幕が、今、無情にも上がったのだ。
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