第129話:終わらない死地と、完成する包囲網
横山城の空は、今日もどんよりとした鉛色だった。
姉川の血戦から月日が流れ、季節はすでに晩夏を迎えていた。だが、俺たちの戦いは終わるどころか、より凄惨な泥沼へと足を踏み入れていた。
「そこの土塁、もっと高く積め! 逆木の先端はしっかり削っておけよ!」
俺は泥にまみれ、すり減った鍬を杖代わりにしながら、声を張り上げて防衛工事の指示を出していた。
横山城。ここからわずか一里半(約六キロ)の距離には、浅井長政の本拠地である小谷城が巨大な山城として聳え立っている。文字通り、敵の喉元に突きつけられた刃であり、四方を敵に囲まれた絶対的な死地だった。
信長の本隊が岐阜へさっさと帰還した後、横山城代に命じられた藤吉郎と俺たち木下組は、この最前線に取り残された。
浅井の猛攻に備え、昼夜を問わず城の改修を行わなければならない。崩れかけた石垣を直し、堀を深く掘り下げ、新たな土塁を盛る。俺はもはや織田の鬼神でもなんでもなく、ただの疲れ果てた人足頭になっていた。
「茂助様、お疲れ様です。冷たい井戸水です」
遊撃と見張りの任に就いている捨吉が、竹筒を差し出してくれた。俺は泥だらけの手でそれを受け取り、一気に喉に流し込む。
「……助かる。外の様子はどうだ」
「相変わらずです。街道沿いに浅井の雑兵どもがうろついてますね」
捨吉が言いかけたその時、カンカンカンッ! と、耳をつんざくような半鐘の音が城内に響き渡った。
「敵襲ーッ!! 北の街道より、浅井の兵、およそ二百!」
物見の兵が声を枯らして叫ぶ。
姉川で大敗したとはいえ、小谷城にはまだ万を超える浅井の軍勢が残っている。彼らは毎日のように、こうして小規模な部隊を差し向けては、我々の防衛工事を妨害し、疲弊させるための小競り合いを仕掛けてくるのだ。
「ヒャハッ! また来やがったか! 退屈しねぇぜぇ! 一番槍は俺だぜぇ!」
土塁を築いていた三太夫が、鍬を放り捨てて己の刀を抜き放ち、狂ったように笑いながら駆け出していく。
「兄上! ここは我らにお任せを! 藤吉郎様を江北三郡の主となすため、我ら堀尾組の武を存分に見せつける時ですぞ!」
「城の防衛、抜かりなく務めさせていただきます。吉晴殿は本陣にて采配を」
氏光と但馬も泥だらけの顔を輝かせ、手勢を率いて北の門へと向かっていった。
江北三郡という途方もない恩賞の約束に、皆の士気は異常なまでに高い。だが、戦いが起きれば、それだけ兵糧も矢弾も消費し、負傷者も出る。
「茂助様。本日の兵糧の消費と、弓矢の補充に必要な目録です」
背後から、両手で抱えきれないほどの帳面を持った勘兵衛が現れた。
「岐阜からの兵糧の補給は、敵の妨害もあって遅れがちです。ですが、昨日茂助様が指示された通りに伏兵を配置し、敵の輸送妨害部隊を討ち取ったことで、数日分の糧食は確保できました。あの僅かな地形の乱れから敵の動きを読み切るとは、見事な神算鬼謀にございます」
勘兵衛が、心底から感服したように深く頭を下げる。
俺は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。そんな指示をした記憶は全くないのだが、勝手に勘違いされ、実務の負担がさらに重くなっていく。
横山城に残されてからというもの、俺の日常は睡眠不足と終わりの見えない土木作業、そして血を吐くような兵站管理の連続だった。
そんなギリギリの均衡が保たれていた、九月の初旬。
凄惨な日常を完全に破壊する、最悪の凶報が横山城にもたらされた。
「……茂助殿。あまり良くない知らせが届きました」
木下組の軍師である竹中半兵衛が、普段の涼やかな表情を完全に消し去り、血の気の引いた顔で本陣の天幕へと入ってきた。その後ろには、藤吉郎も真っ青な顔をして続いている。
「半兵衛? どうしたんだ、そんな顔をして」
「……畿内で、恐ろしい事態が起きました。石山本願寺が、突如として挙兵し、お館様に牙を剥いたのです」
「本願寺……? 寺か?」
俺は思わず聞き返した。
「寺って、あの坊主たちがいる寺のことだよな? なんで坊主が武器を持ってお館様に牙を剥くんだ? 経を読んで仏を拝むのが仕事じゃないのか?」
俺の生きてきた常識からすれば、寺の坊主たちが武装して軍隊を組織するなど意味がわからなかった。
素朴すぎる疑問だ。だが、俺のその間の抜けた問いを聞いた半兵衛は、ひどく沈痛な面持ちで深く頷いた。
「……ええ。本来あってはならぬ矛盾ですが、今の日ノ本ではそれが現実。お館様の本隊は、数万の狂信的な門徒兵によって、摂津の泥沼の戦いに引きずり込まれております」
「さすが茂助、本願寺の偽善をただの一言で喝破しおったわ……!」
藤吉郎までが、俺の言葉を破戒僧への痛烈な皮肉だと勝手に解釈して歯ぎしりしている。
違う。俺は本当に「なんで坊さんが戦争してんの?」と驚いただけだ。
「問題は、この機を浅井・朝倉が逃すはずがないということです。……奴ら、必ず動きます」
半兵衛が本陣の地図を指差した。その指先が、琵琶湖の周辺を鋭くなぞる。
「もし奴らが直接京を狙うのであれば、琵琶湖の西岸を一気に南下し、森可成様が守る宇佐山城を攻め落とそうとするでしょう。ですが……」
半兵衛の指が、俺たちの今いる場所――横山城で止まった。
「京と美濃の連絡を完全に断ち、お館様を孤立無援に追い込むつもりなら、間違いなくこの横山城を狙ってきます。小谷の浅井軍、そして越前より南下してきた朝倉軍が合流すれば、その数最大で三万。ここが文字通り、天下の命運を分ける防波堤となるのです」
三万。
対する俺たちの手勢は、わずか数千。しかも、信長の本隊は畿内で釘付けにされ、美濃からの援軍も、ここを抜かれれば永久に来ない。
四方八方が、敵。
四国の三好、畿内の一向一揆、越前の朝倉、北近江の浅井。織田家を四方から完全にすり潰そうとする、巨大な『信長包囲網』が完成しようとしていた。そして、その網の結び目のような最前線に、俺たちは置き去りにされたのだ。
「……は? せっかく大戦に勝利したのに冗談だろ」
俺は、手から扇子が滑り落ちた音すら聞こえないほど、深い絶望の底へと突き落とされた。
逃げ道はない。援軍も来ない。岐阜の暖かい布団どころか、明日の命すら保証されない絶対の死地。
「もう……許してくれぇぇぇぇぇッ!!」
俺の血を吐くような絶叫が、鉛色の空に覆われた絶望の城に、空しく響き渡った。
(第五章 完)
これにて第五章金ヶ崎の退き口と姉川の戦い編完結となります。
いつも通り幕間を1話投下して、第六章の投下を開始します。
最近多忙につき感想返しが出来ておりません。大変申し訳ないです。
本編はもう少し書き溜め分があるので、予約投稿で引き続き毎日投稿を行っていきます。




