第128話:全力の自己否定と、終わらない最前線
遠藤直経の暗殺未遂という凶事が去った後、本陣は再び戦勝の熱狂と歓喜に包まれた。
朝倉・浅井の連合軍は完全に散り散りとなり、姉川の原野は織田・徳川連合軍の絶対的な勝利を告げる勝鬨で揺れていた。
俺は泥だらけの甲冑を引きずり、信長の座る床几の前で平伏していた。
俺の背後には、藤吉郎をはじめとする木下組の面々、そして俺の部下である勘兵衛、氏光、但馬、三太夫、捨吉たちが付き従うように控えている。
「面を上げよ、茂助」
信長の低く、よく通る声が本陣に響いた。
俺が痛む首をゆっくりと上げると、鋭い鷹のような信長の双眸が、泥と血に塗れた俺の顔を真っ直ぐに射抜いていた。
「此度の姉川の戦い。磯野の猛攻を真っ向から凌ぎ、右翼の徳川陣が崩れかけた際も瞬時に加勢に入った。さらには真柄十郎左衛門の暴威を自ら盾となって封じ込め、右翼の崩壊を見事に食い止めた」
信長の言葉に、周囲を取り囲む織田家の重臣たちから、どよめきと感嘆の溜息が漏れる。
「そして何より、我が首元まで迫っていた浅井の忠臣・遠藤直経。百の馬廻が誰一人気づかぬ中でただ一人その変装を見抜き、身を挺して我が命を救った。金ヶ崎からこの姉川に至るまで、貴様の働き、真に見事の一言に尽きる。これぞまさに、織田の鬼神よ!」
織田の鬼神。
魔王と恐れられる男の口から放たれたその過分すぎる激賞に、本陣が水を打ったように静まり返り、次いで割れんばかりの歓声が巻き起こった。
「ようやった! ようやったぞ茂助ェ!」
真っ先に声を上げたのは藤吉郎だった。顔を真っ赤にしてボロボロと涙を流し、自分のことのように歓喜して俺の肩をバンバンと叩く。
「ヒャハッ! 聞いたかよ! うちの若は織田一の鬼神だぜぇ!」
三太夫が拳を天に突き上げて吼える。
「兄上! 誇らしゅうございますぞ! 我ら堀尾組の武名、もはや天下に轟いたも同然!」
氏光が血まみれの顔をくしゃくしゃにして笑い、但馬も「吉晴殿の背中をお守りできたこと、生涯の誉れにございます」と生真面目に深く頭を下げた。
勘兵衛も畏敬の念すら込めた冷徹な目で俺を見つめ、その後ろでは捨吉が「若についてきて本当に良かったです」と目を輝かせている。
だが、俺の全身からは冷や汗が滝のように噴き出していた。
(冗談じゃない! ここでこんな途方もない手柄を押し付けられたら、俺は一生最前線の捨て石にされる!)
地位も名誉も出世もいらない。これ以上、死地に送られるのだけは絶対に御免だった。俺は戦国の空気を読まず、泥だらけの地面に額を擦りつけながら必死に叫んだ。
「お、恐れながら申し上げます! 浅井の突撃を受け止めたのも、真柄を討ち取ったのも私ではないです! その遠藤という漢を討ち取ったのも、半兵衛殿の弟君さんです! 私は本当に、何もやってません! ただ限界を迎えて転んだだけで……!」
俺のなりふり構わぬ必死の否定に、本陣の喧騒がピタリと止まった。
武将にとって、手柄は己の命より重い。それを総大将の御前で自ら手放し、他者の功績だと声高に主張するなど、あり得ない振る舞いだった。
だが、信長の目は冷たくなるどころか、奇妙な熱を帯びて俺を見下ろしていた。
「……己の絶大な武功を誇るどころか、徳川の将や若武者にすべてを譲るか。貴様が望む望まぬはどうでもよい。此度は流石に断れぬぞ、茂助」
「いえ! 私は今後も藤吉郎様の下でひっそりとやりたいのです! 地位も名誉もいりません、お金なら欲しいです! そして……何より、早く岐阜に帰りたいのです!!」
俺はボロボロと涙を流しながら訴えた。
毎日いつ死ぬかわからない恐怖から解放され、安全な岐阜の屋敷で美味い飯を食い、暖かい布団で眠りたい。ただそれだけを願う、心からの悲痛な叫びだった。
しかし、その言葉を聞いた信長は、喉の奥を鳴らして笑い始めた。
「くはははは! 本当に欲がない奴よのぉ!」
信長は愉悦を隠そうともせず、愉快げに膝を叩いた。周囲の武将たちも、俺の涙を「これほどの武功を立てながら、主君への忠義と帰郷だけを願う無欲な涙」と完全に勘違いし、感涙にむせび泣き始めている。
「であれば、茂助を使いこなす猿に褒美をやろう。藤吉郎!」
「は、ははぁッ!!」
「浅井を滅ぼした後に、江北三郡を貴様にくれてやる。近江の豊かな地を、存分に治めるがよい」
「……江北三郡を、木下に?」
歓喜に沸いていた将兵たちの空気が一変し、驚愕の沈黙が場を支配した。
信長が口にした「江北三郡」という言葉の重み。それは浅井家の領地のほぼ全域であり、織田家の中でも破格の恩賞だった。
「お、お館様。恐れながら申し上げます」
静まり返った本陣で、織田家筆頭家老の柴田勝家が深く眉をひそめて進み出た。その顔に露骨な怒りはないが、歴戦の重臣としての厳しい戸惑いが滲んでいた。
「江北三郡といえば、一国の主にも等しき広大な領地。それを新参の木下に約束されるとは……流石に身分に合わぬ、過分な恩賞かと存じまするが」
丹羽長秀や佐久間信盛といった他の重臣たちも、無言のまま勝家の言葉に同調するように頷いている。これまでの貢献度を考えれば、当然の疑問だった。
「過分だと? ……抜かすな、権六」
信長は床几から身を乗り出し、宿老たちを鋭い眼光で射抜いた。
「無論、此度の戦働き、貴様らにも相応の褒賞は考えておる。……にしてもだ。貴様らは忘れたか」
信長の声が、一段と低く重みを増す。
「此度の姉川だけではない。上洛以来、京都の治安を維持し、本圀寺にて三好の軍勢を退けたのは誰だ。わずか数日で二条城を築き上げ、南伊勢の攻略においても縦横無尽に駆け回ったのは誰だ」
上洛、京都奉行、本圀寺の死闘、二条城築城、南伊勢。
具体的に並べ立てられた実績の数々に、勝家らも言葉を失った。どれもが織田家の根幹を支える重要な転換点であり、そこには常に木下組の姿があったのだ。
「これまでの功績、そして此度の鬼神の如き働き。これらを積み重ねてなお、報いを与えぬという法があるか。身分や来歴はどうあれ、結果を出した者に最大級の報いを与える。それが織田の流儀よ。あの鬼神を自陣に抱え、使いこなす猿には、それだけの価値があるということだ」
勝家たちの視線が一斉に俺へと注がれた。「この大男が、それほどの価値を持つ武将なのか」と、俺の底を測りかねているような、重く複雑な値踏みの視線だった。
(……やめてくれ。そんな目で見ないでくれ。俺は本当にただ転んだだけなんだ……!)
「ははぁっ! もったいなきお言葉、この藤吉郎、命に代えてもご期待に応えてみせまする!」
藤吉郎は重臣たちの重圧を浴びながらも、泥に額を擦りつけて歓喜の声を上げた。
だが、信長の冷たい声が、本陣の空気を再び引き締めた。
「ただし、藤吉郎。その領地を手にするため、貴様はこの横山城にて、浅井の監視を続けい」
信長が指差した先には、俺たちが今まさに落としたばかりの拠点、横山城があった。
「本隊はこれより岐阜へ引き上げる。木下組はこの横山城を最前線の拠点とし、小谷城へ向けて一歩も引くな。浅井の息根を止めるまで、そこを動くことは許さぬ」
「……え?」
俺の喉から、間の抜けた声が漏れた。
横山城。ここからわずか数里先には、浅井長政の本拠・小谷城が聳え立っている。文字通りの最前線だ。信長の本隊が岐阜へ引き上げた後も、俺たちは敵の鼻先に残され、四面楚歌の状態で睨み合いを続けろということか。
「やったぞ茂助! 江北三郡だぞ! これで俺たちは歴史に名を刻むぞ!」
本陣から信長や重臣たちが立ち去っていく中、藤吉郎が俺の肩を抱き、目を血走らせて笑っている。
俺は何も答えられなかった。
岐阜の、我が家の暖かい布団には帰れない。明日からも浅井との終わりの見えない小競り合いと、過酷な城の防衛という地獄が続くのだ。
(帰れないのかよォォォォォッ!?)
俺の絶望の悲鳴は誰にも届かず、遠く岐阜へ向かって引き上げの準備を始める織田の本隊を、俺はただ真っ白な灰になったような心で見送ることしかできなかった。
「……やっぱり、俺には日輪の加護がついてるみてえだな。……天下人……か」
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




