第126話:泥濘の共闘、決着
姉川の冷たい泥に這いつくばる俺たちを、真柄十郎左衛門の赤い瞳が見下ろしていた。
無数の傷を負いながらも、その巨漢が放つ圧倒的な死の気配は微塵も揺らいでいない。太郎太刀がゆっくりと上段に振り上げられ、泥水に塗れた刃が鈍い光を放った。
逃げ出したい。今すぐこの場から背を向けて、岐阜の屋敷まで全力で走り去りたい。だが、後ろには俺の命運を握る五百の部下たちがいる。
俺はもう一人ではない。
俺は泥を掴んで、震える膝に無理やり力を込めて立ち上がった。麻痺した右腕が動かなくとも、左腕と肩で極太の特注槍を抱え込む。
「……冗談じゃねえ。こんな泥沼で、死んでたまるかよ……」
恐怖をごまかすように掠れた声で呟いた時だった。
「三河武士の意地、此処で見せるぞォォッ!!」
真柄の右側面から、泥水を蹴立てて猛然と飛び込んできた三つの影があった。匂坂と名乗った徳川の将たちだ。彼らの放った十文字槍が真柄の腕を打ち、太郎太刀の軌道を逸らそうとする。
だが、ズズズ、と大地を揺らすような音が響き、真柄の巨体は徳川の将たちへの反撃を一瞥もせずに無視した。
真柄は、ただ一点。俺を、そして俺の構える特注槍を完全に粉砕すべく、太郎太刀を再び大上段に構え直したのだ。
その赤い双眸が、射抜くように俺を見据える。
圧倒的な殺意の只中で、地鳴りのような真柄の声が、戦場の喧騒を縫って俺の耳に届いた。
「……俺の死に場所は此処と定めた。姉川の泥に沈むか……だが!!」
随分と潔いというか、全てを悟りきったような独り言だった。
その真意を量る暇など、一瞬たりとも与えられない。真柄の全身の筋肉が異様に隆起し、俺を叩き潰すための純粋な暴力が振り下ろされる。
「若ァッ!!」
三太夫が叫び、真柄の死角へ回り込んで注意を逸らそうとするが、真柄の気迫に弾き飛ばされる。氏光と但馬が俺を庇おうと動くよりも早く、巨大な刃が目前に迫った。
逃げ場はない。俺は死に物狂いで極太の特注槍を斜めに構え、真柄の狂気じみた振り下ろしを真っ向から受け止めた。
ガァァァァァンッ!!
鉄が拉滅するような凄まじい衝撃が俺の両腕を、肩を、背骨を貫く。だが、桔梗の怨念めいた愛情が込められた特注槍は、悲鳴を上げながらも太郎太刀の刃をその身に深く食い込ませ、芯の直前でピタリと停止させた。
「……何?」
至近距離で、真柄が驚愕に目を見開いた。渾身の力で振り下ろした必殺の一撃が、刃を止めるように焼きが入れられた特注の木材によって、完全に防がれたのだ。
「この俺の太郎太刀が、木片ごと両断できぬだと……?」
真柄の顔に、明確な焦りと怒りが浮かぶ。
「運命を断ち切れぬというのかッ! ええい、忌々しいッ!!」
真柄が怒号を上げ、刃が進まないのなら力ずくでへし折るとばかりに、さらに全体重を乗せて力任せに押し込んでくる。
奴の最後の膂力は圧倒的だった。刃は進まずとも、その凄まじい加重と圧力に樫の柄そのものが耐えきれず、ついには限界を迎えた。
バキィィンッという絶望的な破砕音と共に、俺の槍は中央から二つに折れ、飛び散る木片が顔を掠めていく。俺は折れた柄を両手に握りしめたまま、すさまじい衝撃で泥の中へと叩きつけられた。
だが、真柄が俺の特注槍の想定外の硬さに驚き、力任せに圧し折ろうとしたその数秒間は、致命的すぎる隙を生み出していた。
「匂坂式部なり! 真柄十郎左衛門、覚悟!!」
匂坂と名乗った男と、彼に付き従っていた二人の武将が、泥水を蹴立てて跳躍した。
三本の刃が、体勢を崩して無防備となった真柄の首筋、脇腹、胴を同時に貫く。真柄の首筋から十文字槍が深々と突き刺さり、左右から太刀が胴を斬り裂いた。
「ぐ、ふぅ……ッ」
真柄の口から大量の血が溢れ出し、太郎太刀が手から滑り落ちる。ドスッという重い音を立てて、五尺の凶刃が姉川の泥の中へと没した。
「……ここまで、か。運命、とは……」
真柄十郎左衛門は、膝から泥へと崩れ落ちながら、静かに天を仰いだ。
そして、事切れる直前。その血走った赤い瞳が、泥に這いつくばる俺だけをじっと見つめ、三日月のように唇を歪めて嗤った。
「だが、貴様は……。まあよい、せいぜい足掻け。どうせあの魔王も、最後は業火に焼かれて果てる定めに違いない……」
業火に焼かれる。織田信長は地獄に落ちろという、敗者のありふれた呪詛だ。
だが、誰にも聞こえないようなその掠れた声には、単なる負け惜しみとは思えない、ひどく確信めいた不気味な響きがあった。
「越前の誇り、此処にあり……! 養父上……」
巨体がゆっくりと傾き、巨大な樹木が倒れるようにして姉川の血の泥濘の中へと沈んでいった。戦場を震え上がらせた朝倉軍の象徴は、織田と徳川の決死の共闘の前に、ついに完全に沈黙した。
「……終わっ、た」
俺はボロボロになった樫の巨槍の残骸を泥の上に突き立て、それを杖にするようにして身を支え、荒い息を吐き出した。
両腕は痙攣し、全身が焼け付くように痛む。俺は、真柄が最期に残した不吉な呪詛の言葉を、無理やり戦場の泥の中へと飲み込んだ。考えている余裕など、今の俺には微塵もなかったからだ。
「朝倉の猛将・真柄十郎左衛門! 我ら徳川軍と織田軍が討ち取ったぞォォォッ!!」
匂坂式部が、真柄の首級を高く掲げて勝ち鬨を上げた。通常であれば己の手柄だけを主張するところを、俺たちの盾としての働きを認めて共に名乗りを上げてくれたのだ。
その瞬間、右翼の戦場に割れんばかりの歓声が響き渡り、朝倉軍の残党は完全に戦意を喪失して蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。
「若! すげぇぜぇ若! あのバケモノを止めやがったぜぇ!」
三太夫が泥を跳ね上げて駆け寄り、俺の背中をバンバンと叩く。
「兄上! やりましたな! 我ら堀尾組の力、天下に轟きましたぞ!」
氏光が血まみれの顔をくしゃくしゃにして笑う。
「吉晴殿。ご無事で何よりです。貴殿の盾としての働き、誠に見事な戦いぶりにございました」
但馬が太刀を鞘に収め、生真面目な顔で深く一礼した。勘兵衛も静かに安堵の息を漏らしてこちらへ歩み寄ってくる。
「……ああ、みんな、無事でよかった」
俺は引き攣りそうになる頬を必死に緩め、泥だらけの顔で力なく笑い返した。
右翼での激突を制したことで、織田軍の中央も浅井軍を完全に押し返し始めていた。泥と血に塗れた姉川の激闘は、ついに織田・徳川連合軍の決定的な大勝利という形で、その凄惨な幕を下ろそうとしていた。
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