第125話:結集する堀尾組と、圧倒的な絶望
磯野員昌の猛攻をどうにか凌いだ直後、右翼の戦場から立ち上る絶望的な怒号が、姉川の原野を震わせた。
「右翼の徳川陣が崩れかけている! 木下組は直ちに右へ回り、朝倉の猛攻を食い止めろ!」
馬上の藤吉郎が血相を変えて指示を飛ばす。
俺の右腕は磯野の突進を受け止めた衝撃で痺れ切り、特注槍が肩に重く食い込んでいた。だが、ここで徳川が崩れれば織田軍は側面から包囲されて全滅する。
俺は痛む腕に無理やり力を込め、陣形を右へと向けさせた。
「茂助様。朝倉軍の鉾先となっているのは、やはりあの男。真柄十郎左衛門にございます」
並走する勘兵衛が、周囲の悲鳴に惑わされることなく冷徹に戦況を告げた。
金ヶ崎からの撤退戦で、俺たちの命を刈り取りにきた化け物。その名を聞いて、三太夫が血走った目をギラつかせた。
「若! あのデカブツ、徳川の連中を面白いようにひねり潰してやがるぜぇ! 今度はこっちが貸しを作る番だぜぇ!」
「兄上! 金ヶ崎の因縁、此処で晴らしましょうぞ! 我らも全力でお供いたします!」
氏光がハツラツとした声を上げ、但馬も無言で太刀を握り直し、深く頷いた。
俺たちは血の泥沼と化した右翼の最前線へと躍り出た。
そこは、文字通りの惨劇の地だった。
強固な槍衾で知られる三河武士たちが分断され、泥の中を後退している。その中心で、五尺を超える太郎太刀を大風車のように振り回し、暴れ狂う巨漢・真柄十郎左衛門がいた。
「どうした三河武士! 貴様らの意地はその程度か!」
真柄の哄笑が響く。その足元には、泥にまみれながらも必死に食い下がっている三人の武将がいた。鎧の損傷は激しく、もはや防戦一方だ。
真柄の暴力的な膂力の前には、彼らの連携も紙細工のように弾き飛ばされていた。その中の一人が真柄の蹴りを受けて泥に転がり、太郎太刀がその首を刈り取ろうと大上段に振り上げられた。
(金ヶ崎の借りは、ここで返す!)
「そこをどけェッ!!」
俺は麻痺した右腕の激痛を気合でねじ伏せ、徳川の将と真柄の間へと強引に割り込んだ。
振り下ろされる死神の刃に対し、俺は下段から極太の特注槍をカチ上げるように、全力で振り抜いた。
ガァァァァァンッ!!
鉄が爆発したかのような凄まじい衝撃音が響き、俺の両腕の感覚が完全に吹き飛んだ。足元の泥がクレーターのように弾け飛ぶ。
だが、俺の渾身のフルスイングは、分厚い樫の柄で太郎太刀の刃を真横へと大きく弾き飛ばしていた。
「なにっ!?」
「くっ! ……助太刀痛み入る! 我は徳川家家臣、匂坂式部――」
泥に伏していた男が、呆然としながらも己の姓名を名乗ろうとした。
「自己紹介してる場合じゃねえ! 早く態勢を立て直せ!!」
俺が血を吐くような声で叫ぶと、真柄は大きく弾かれた太刀を軽々と元の軌道に戻し、猛禽のような瞳で俺を捉えた。
「ほう……。ただ防ぐのではなく、この俺の太刀を弾き返したか。その顔、見忘れるはずもない。金ヶ崎で泥にまみれて、姑息に命を拾った鼠だな」
真柄の瞳に、明確な怒りと狂暴な歓喜が灯る。
「少しは骨のある抵抗を見せるようになったか。……だが、思い上がるなよ、鼠がぁッ!!」
真柄が泥を蹴り飛ばして踏み込み、太郎太刀が暴風のような連続攻撃となって俺に襲いかかる。
ガキンッ! ガァンッ!!
重すぎる刃を必死に槍で弾き返すたび、凄まじい圧力が俺の全身を泥の中へ押し込んでいく。骨が軋み、肺から空気が絞り出される。
あの金ヶ崎から、俺だってただ震えて遊んでいたわけじゃない。血反吐を吐くような戦場を越え、必死に武将として生き残る術を磨き、夜も眠れずに槍を振ってきた。
だが、それでも。
(……だめだ、俺一人じゃ、こいつは倒せねぇ……!)
腕力、体格、武芸、殺意。そのすべてにおいて、目の前の男は俺とは次元が違った。個人の力では絶対に勝てない、圧倒的な暴力の権化。
「俺だって……ただ遊んで戦場をやり過ごしてきたわけじゃねえッ!!」
俺は血の滲むような絶叫を上げ、真柄を真っ向から睨み返した。
「だけど……俺一人じゃ、お前は倒せない! ……だがな、俺は一人じゃないんだよッ!!」
「……何?」
真柄が眉をひそめた瞬間、俺の背後から三つの影が同時に飛び出した。
「ヒャハッ! 若の言う通りだぜぇ! テメェの相手は俺たち堀尾組だぁ!!」
三太夫が野犬のような身のこなしで真柄の死角へと跳躍し、その太い脚の甲冑の隙間に刀を突き立てた。
「兄上の槍に気を取られすぎですぞ!!」
氏光が正面から泥を蹴り、真柄の喉元を狙って鋭い突きを放つ。真柄は咄嗟に首を逸らすが、その動きを但馬が見逃さなかった。
「……逃がしはしません」
但馬が重い足取りで真柄の退路を塞ぎ、その太刀で真柄の脇腹を激しく斬りつけた。
そして、最後尾からは勘兵衛の放った矢が、鋭い風切り音と共に飛来した。
日々の帳簿整理で鍛え上げられた、一切のブレもない冷徹な目測。放たれた矢は、真柄が俺に太刀を押し込もうとした一瞬の死角を突き、その兜の錣に強烈な勢いで突き刺さった。
「チッ……!」
真柄の顔がわずかに歪み、太郎太刀の軌道が僅かにブレる。その一瞬の隙を逃さず、俺は全体重をかけて極太の槍を捻り上げ、太郎太刀の圧力を横へと弾き逸らした。
三方向からの近接攻撃、俺の槍による大太刀の封殺、そして勘兵衛の的確な援護射撃。
これが、俺がここまで生き延びるために育て上げてきた『堀尾組』という一つの刃だ。
泥を跳ね上げ、四人がかりで真柄の巨体を翻弄する。三太夫の刃が腕を掠め、但馬の太刀が腰を打つ。俺は巨槍を支え、一歩も引かずに真柄の正面を塞ぎ続けた。
だが。
真柄十郎左衛門という男は、俺たちの想像を遥かに超える化け物だった。
「……面白い」
泥まみれの傷を受けながら、真柄は痛がるどころか、地獄の底から響くような酷薄な笑い声を上げた。
「羽虫が群れたところで、巨竜を倒せるとでも思ったかァッ!!」
真柄の全身の筋肉が異常に隆起したかと思うと、俺の極太の槍に絡ませていた太郎太刀を、俺の体ごと強引に上空へと跳ね上げた。
「ぐおっ!?」
百キロ近い俺の巨体が、軽石のように宙に浮く。
真柄はそのままの勢いで太刀の柄尻を振るい、脇腹を突こうとした但馬を泥の中へ弾き飛ばした。さらに、脚に切りかかっていた三太夫を蹴り飛ばし、喉元を狙った氏光の刀を素手で掴んでへし折る。
たった数秒。
俺たち堀尾組の渾身の連携攻撃は、真柄の人間離れした膂力と暴力の前に、いとも容易く粉砕されたのだ。
これこそが暴力。圧倒的な暴力。
今まで出会ってきた好敵手たちが、可愛く思えるほどの圧倒的な暴力。
「がはっ……!」
「若ァッ……クソッ、なんてバケモノだぜぇ……」
泥の中に叩きつけられた俺たちは、呻き声を上げながら顔を上げた。
そこに立っていたのは、無数の小さな傷から血を流しながらも、一切の揺らぎを見せずに太郎太刀を構え直す、圧倒的な死神の姿だった。
「誰から死ぬ。選ばせてやろう」
真柄の赤い瞳が、泥に伏す俺たちを見下ろしている。
すべてを出し尽くしても届かない、絶対的な絶望の壁が、そこには聳え立っていた。




