第124話:不動の巨槍、崩れぬ円陣
姉川の濁流を真っ赤に染め上げ、磯野員昌率いる浅井の精鋭たちが、俺の構える特注槍へと真正面から激突した。
ドォォォンッ、という、肉と木材がぶつかり合う重苦しい衝撃が、馬上の俺の全身を突き抜ける。
あまりの圧力に、愛馬『軽トラ』の蹄が泥の中に数センチほどめり込んだ。
だが、このずんぐりむっくりした愛馬は、主人の絶望をよそに、大地に根を張ったかのように力強く踏み止まっている。
「ぐ、おぉぉっ……! 腕が……腕の骨が砕ける……!!」
俺は必死に歯を食いしばり、桔梗から渡されたあの極太の樫の柄を、文字通り死に物狂いで抱え込んでいた。
通常の槍であれば、磯野の騎馬の猛烈な突進を受けた瞬間に、中央からバキリとへし折れていただろう。だが、この特注槍はしなりもしない。
芯まで焼きを入れられ、大人の腕ほどもある異常な太さを持つそれは、もはや武器というよりは動かない城壁そのものだった。
衝突した浅井の騎馬が、槍の先端で弾け飛び、左右の半月陣の縁へと転がっていく。そこへ、竹中半兵衛が配置した木下組の槍衾が、容赦なく敵を突き伏せていく。
「若! 耐えてくれぇ! ここを抜かれりゃおしまいだ! 若が動かねぇ限り、俺らも一歩も退かねぇぜぇ!!」
背後から三太夫の怒号が聞こえる。
泥を跳ね上げ、敵の返り血を浴びながら、三太夫は獲物を狙う野犬のような身のこなしで、陣形の隙間を必死に埋めている。
(俺はもう重すぎて動けないだけなんだよ! 助けてくれ、右肩の感覚がもうまったくないんだ!!)
叫びたい。今すぐこの重たい丸太を投げ捨てて、後方の安全な場所まで全力疾走したい。
だが、俺が少しでも槍の角度を変えれば、この絶妙な均衡で敵を弾いている陣形の『芯』が消失し、木下組全体が浅井の猛攻に飲み込まれてしまう予感がしている。
俺は恐怖と激痛で白目を剥きそうになりながらも、ただ一点、正面で槍を振るう磯野員昌を険しい顔で睨みつけ続けていた。
「兄上! 左から回り込もうとする敵は、俺が防ぎます! 安心なされ、兄上の背中は俺たちが守り抜いてみせますぞ!!」
氏光が、返り血で顔を真っ赤に染めながら、ハツラツとした声を張り上げた。
あいつは俺の巨槍に弾かれて勢いを失った敵兵に、迷いなくその槍を突き立てている。その姿は、俺への純粋な信頼に満ち溢れており、それがまた俺の退路を完膚なきまでに断ち切っていた。
浅井の先鋒、磯野員昌の攻撃は苛烈を極めていた。織田軍の第一段、第二段を次々と食い破り、今まさに木下組、そして俺の目前まで迫っている。
磯野は、幾人もの兵を跳ね飛ばしながら、再び俺へと馬を向けた。その瞳に、驚愕の色が浮かぶ。
「……何だ、その異形の大槍は! 貴様、織田の将か!? 我らの突進を真正面から受け止めるとは……。名を名乗れ! この磯野の猛進を阻む剛の者、その名を知っておきたい!」
(いや、名乗る余裕なんて一ミリもないんだってば!!)
俺は必死に右腕の筋肉を総動員し、特注槍の石突を太ももに押し当てて固定した。
声を出す余裕すらなく、ただ必死の形相で磯野を睨みつける。それが、磯野の目には「名乗るまでもない、ただ討ち果たすのみ」という傲岸不遜な態度に写ったらしい。
「ふん、名乗る気はないか。ならばその奇妙な大槍ごと、この磯野が根元から叩き折ってくれるわ!!」
磯野が咆哮し、その十文字槍を力任せに振り下ろす。
俺は反射的に極太の柄を盾にするようにして受け止めた。ガキィィィンッ、と金属と木材が激しくぶつかり合う凄まじい音が鼓膜を震わせ、衝撃で俺の視界に火花が散る。
だが、折れない。
桔梗の愛情という名の呪いが込められたこの槍は、猛将の全力の一撃を受けてもなお、鈍い光を放って耐え抜いている。
「吉晴殿! 呼吸を整えてくだされ! 敵の波は、確実に貴殿の槍で砕かれておりますぞ!!」
但馬が、生真面目な顔を汗と泥で汚しながら、俺の傍らで必死に盾を構えている。
「但馬……っ、俺はもう、指が動かない……!」
「左様でございましょう。その重きを一人で支え、戦場の濁流をせき止める……。並の人間であれば、とっくに心が折れております。だが、吉晴殿のその粘りこそが、我ら堀尾組、ひいては木下組全員の希望にございます。どうか、あと少しだけ……!」
但馬の言葉に呼応するように、背後の兵たちが地を這うような鬨の声を上げた。
木下組全体が、半兵衛の指示した半月の陣を維持したまま、じわじわと敵の勢いを吸い取っていく。直線的な突撃を行っていた磯野の軍勢は、この確かな『芯』を持つ巨大な陣形に翻弄され、徐々にその機動力を奪われ始めていた。
「茂助様、潮目が変わります」
不意に、勘兵衛の静かな、しかし確信に満ちた声が耳に届いた。
勘兵衛は、混乱を極める戦場の中にあって、ただ一人、冷徹に全体を見据えていた。
「磯野の勢い、ついに限界を迎えました。我ら木下組の粘りに、浅井の本隊からも焦りが見え始めております。……今、半兵衛殿より合図が。騎馬隊を放ちます」
勘兵衛の言葉が終わるか終わらないかのうちに、陣形の後方から藤吉郎の号令が飛んだ。
陣の隙間から、これまで温存されていた木下の騎馬隊が一気に飛び出し、消耗した磯野隊の側面に食らいついた。
左右から挟み撃ちにされる形となった浅井勢に、ようやく決定的な動揺が走る。
「……耐えきった……のか?」
俺は、感覚のなくなった右腕を震わせながら、目の前の浅井の軍勢がわずかに後退していくのを感じた。
あれほど狂暴だった磯野の突撃が、俺の特注槍に阻まれ、ついにその限界を迎えたのだ。
だが、俺が安堵の吐息を漏らす暇はなかった。
突然、右翼の徳川軍の方角から、地鳴りのような怒号と、それまでとは次元の違う不吉な音が響いてきた。
キィィィィィンッ。
金属と金属がぶつかり合う音ではない。もっと重く、もっと巨大な何かが、戦場のすべてを破壊しながら突き進んでくる音だ。
「……なんだ、あの音は」
俺は、痛む腕を忘れて、霧が完全に晴れた右翼の戦場を注視した。
徳川軍五千が守っていたはずの陣が、まるで紙細工のように無残に跳ね飛ばされているのが見える。
そこには、朝倉軍一万の中から躍り出た、一人の巨影があった。
身の丈を超えるほど巨大な『太郎太刀』を、まるで柳の枝でも振るうかのように軽々と振り回し、徳川の精鋭たちを馬ごと真っ二つに斬り裂きながら進んでくる男。
「……真柄、十郎左衛門……!!」
俺の口から、絶望的な呟きが漏れた。
もう見たくもなかった、あの死神。
朝倉軍の誇る究極の暴力が、徳川の陣に食いつき、今、この姉川の戦場全体を死の色に塗り替えようとしていた。
磯野を退けた直後の、極限状態の俺たちの元へ。
金ヶ崎で俺の心を一度は叩き折った、あの圧倒的な絶望が再び近づいてくる。
俺は泥だらけの川岸で、震える手で重すぎる槍を握り直し、ただ迫り来る巨大な影を、恐怖に歪んだ顔で見つめることしかできなかった。




