表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
127/183

第123話:姉川の激流、半兵衛の円陣

 姉川の静寂を切り裂く法螺貝の音が、霧に包まれた川面に低く、重々しく響き渡った。


「放てェッ!!」

 前方、坂井政尚や池田恒興が率いる織田軍第一段の陣から、凄まじい鉄砲の斉射音が轟いた。


 パァンッ、パパァンッと乾いた音が重なり、白煙が朝靄と混ざり合う。戦場は一瞬にして視界を奪われるほどの混沌に包まれた。


 俺が率いる堀尾組五百人は、木下組の一翼として、その後方の三段目から四段目にあたる中詰なかづめに控えていた。大地を震わせる数万の足音を聞きながら、俺は冷たい脂汗を流していた。


「始まった……。本当に始まっちまったよ……」

 俺は、愛馬『軽トラ』の背で、妻の桔梗から持たされた例の特注槍を必死に保持していた。


 あまりの重さに、ただ担いでいるだけで右肩の筋肉が悲鳴を上げ、指先の感覚が消失し始めている。

 だが、今この手を放して槍を泥の中に落としたら、後ろに控える五百人の兵たちに示しがつかない。俺は歯を食いしばり、彫像のように固まって前方を見据えていた。


 川向こうからは、浅井軍一万の地鳴りのようなときの声が聞こえてくる。


 霧の向こうから、凄まじい勢いで影が姉川の濁流へと飛び込んでくるのが見えた。浅井軍の先鋒、磯野員昌いそのかずまさの軍勢だ。


「兄上! 見てください! 第一段の坂井様の陣に、浅井の先鋒が突っ込みましたぞ! 川を物ともせぬ凄まじい勢いにございます!」

 隣に並ぶ氏光が、顔を高揚させながら叫んだ。


 その瞳には、死への恐怖など微塵もなく、ただ目の前の戦いへの純粋な情熱だけが燃えている。


「あ、ああ……そうだな。……おい氏光、あんまり前に行くなよ。俺たちの仕事はあくまで木下組の中詰として、後ろで控えることなんだからな」

 俺は震える声を必死に抑えて返した。

 だが、事態は俺の切実な願いを、無残にも踏みにじっていった。


「……吉晴殿。……戦況が思わしくございません」

 但馬が、生真面目な顔をさらに険しくして報告を入れた。


「第一段の坂井勢、浅井の猛攻を支えきれず、後退を始めております。続いて第二段の池田勢も、磯野の突撃をまともに受けておりますぞ。敵の勢い、尋常ではございません! このままでは、我ら木下組の陣もまともに衝撃を受けましょう」


「嘘だろ!? あの坂井や池田が押し負けてるのか!?」

 俺は耳を疑った。織田軍の中でも猛将と名高い武将たちが、浅井の先鋒一隊に力負けしているというのか。


 前方の霧の中から、崩れかけた前列の兵たちが、泥にまみれてこちら側へと押し戻されてくるのが見えた。その背後からは、血の匂いを纏った浅井軍の雄叫びが、津波のように迫ってきている。

 

「若! 前の連中が逃げてきやがった! このままじゃ、木下組の陣までまとめて踏み潰されるぜ!!」

 三太夫が、獲物を狙う野犬のような目を剥いて叫んだ。


「三太夫、落ち着け!……いいか、一歩も動かないぞ! 俺達は敵を迎え撃つ!」


(三太夫! この槍が重すぎて、今すぐ馬を反転させて逃げることが物理的に不可能なんだ!!)

 俺は心の中で絶叫した。


 この巨槍を抱えながら、ぬかるんだ土の上で『軽トラ』を急旋回させようものなら、その瞬間にバランスを崩して落馬する。落馬すれば、この数万の軍勢が踏み荒らす泥の中に沈み、二度と起き上がることはできない。


 逃げたくても、動けない。その絶望的な状況が、皮肉にも周囲からは『微動だにせず敵を待ち構える不動の将』に見せていた。

 その混乱の中、木下組の本陣で藤吉郎の傍らにいた、あの男が動いた。


「藤吉郎様、今こそ陣形を替えるべきにございます。このまま直線的な横陣で受けては、磯野の猛進を止めることは叶いませぬ」

 落ち着いた、しかし戦場全体を冷徹に見透かすような声。竹中半兵衛だ。


「半兵衛! どうすればいい、この勢いをどう止める!」

半月はんげつの陣にございます。我ら木下組全体を、半円の陣形へと組み替え、真正面から来る突進の勢いを左右へと受け流すのです。ですが、そのためには陣形の頂点……最も敵の圧力がかかる最前線の要に、いかなる衝撃にも揺るがない強固な支柱が必要となりますが……」

 半兵衛の視線が、霧の向こうで巨槍を構えて微動だにしない俺を捉えた。


「おぉ、茂助か! 茂助! 聞こえるか! 陣を替えるぞ! お前を頂点にして半月の陣を組む!!」

 藤吉郎の怒声が、伝令を通じて俺の元へ届く。


 堀尾組だけではない。木下組に属する数千の兵たちが、半兵衛の鮮やかな指揮のもと、波が引くように一斉に動き始めた。


「茂助様、半兵衛殿の献策にございます」

 勘兵衛が、嵐の中でも凪いでいる海のような、落ち着いた声で告げた。


「半月の陣を組み、騎馬隊を柔軟に動かして敵の側面を叩く。茂助様、貴方はその陣形の最先端……まさに敵と真っ正面からぶつかる『くさび』となって、突撃の衝撃をその身で受け止めてください。……今の貴方なら、それが可能です」


「……陣の最先端!? 一番最初に狙われる場所じゃないか!」

 俺が叫ぶ間もなく、堀尾組、そして木下組の他隊が、俺を頂点とした大きな半円を描くように後方へと展開し始めた。


 俺の左右の壁が後退したことで、俺の部隊だけが完全に敵陣に向かって出っ張った形になってしまった。

 逃げようにも、周囲は味方の槍衾やりぶすまで完全に塞がれている。そして何より、この特注槍が重すぎて、『軽トラ』を動かして陣の奥へ引っ込むことなど物理的に不可能だった。


「吉晴殿。……なんと見事な迎撃の構え。あえて独り最前線に残り、その剛槍を突き立てて敵を迎え撃つお姿……。これぞ半兵衛殿が求めた不動の芯にございますな!」

 但馬が感極まった声を上げた。


「違うんだ但馬! 俺はただ重くて動けないだけなんだよ!」

 だが、俺の叫びは怒号にかき消された。


 霧の向こうから、織田の三段目までもを突破した磯野員昌が、真っ赤に染まった兜を揺らして突っ込んでくる。磯野の猛威が、ついに俺たちの目の前まで迫っていた。


「織田の陣をここまで食い破ったが……何だ、あの奇妙な陣形は! 陣の先端にいるのは……あの巨漢が肝か!」

 磯野の先鋒が、巨大な津波となって俺たちの陣へと衝突した。


 本来なら、その勢いで俺たちの列も真っ二つに分断されるはずだった。だが、半兵衛が指示した半月の陣は、敵の直線的な突進を分厚い壁で受け止め、左右の曲面へと滑らせて威力を分散させていく。


 そして、その陣形の真正面、敵の最も激しい圧力が突き刺さる頂点に、俺がいた。


「ぐ、おぉぉっ……!!」

 俺は必死に腕の筋肉を総動員し、特注槍を真っ直ぐに突き出した。


 突撃してきた敵の騎馬が、俺の持つ極太の樫の柄に激突する。通常の槍なら一瞬でへし折れている衝撃だ。だが、桔梗が芯まで焼きを入れさせたというこの丸太槍は、ビクともしない。

 むしろ、衝突した敵の馬の方が、あまりの堅牢さに弾け飛ぶように転倒した。


「若! 若の槍が敵を跳ね返したぜぇ!! 野郎ども、若を支えろ! 一人も通すんじゃねぇぜぇ!!」

 三太夫が叫び、堀尾組、そして隣接する木下組の兵たちが、必死に俺の後方と左右を固める。


 一人、また一人と浅井の兵が俺の極太の槍先で止まり、半月の陣の縁に沿って左右へ流されていく。そこを、半兵衛が手配した機動力のある木下の騎馬隊が、陣の隙間から飛び出しては側面を突く。


 俺は脂汗で前が見えなくなりながら、ただ無我夢中で槍の柄を握りしめていた。

 木下組全体が、一つの巨大な生き物のように連動しているのを感じる。半兵衛の冴え渡る頭脳、藤吉郎の号令、そして部下たちの奮闘。


 俺は、その精緻な防衛機構の中で、ただ最も重くて動けない最強の防波堤としての役割を、強制的に完遂させられていた。


「おのれ! この磯野の猛進を、そのような陣で防ぐというのか!!」

 磯野員昌が咆哮し、愛馬を蹴立ててさらに肉薄してくる。

 俺は泥だらけの川岸で、異常に重い特注槍を歯を食いしばって支え続け、目の前で荒れ狂う暴力の嵐にひたすら耐え忍んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
円の中心に居る描写と円の周縁に居る描写が入り雑じってませんか
さすが茂助、不動の守りw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ