第122話:決戦の地・姉川へ
横山城への陰湿な嫌がらせ包囲が、最悪の形で功を奏してしまった。
勘兵衛から「浅井・朝倉の本軍が、小谷の山を下りてこちらへ向かっている」と知らされた直後、俺が率いる堀尾組五百人の陣は、ひっくり返した蜂の巣のような騒ぎになった。
「包囲を解け! 一部の留守居部隊を除いて、ただちに撤収だ!」
藤吉郎の怒声が響き渡る。
俺が早く帰りたいために三太夫たちに命じた嫌がらせが、浅井長政を激怒させ、お館様の狙い通りに敵を野戦へと引きずり出してしまったのだ。
血を流さずに終わるはずだった俺の目論見は、自業自得という形で見事に粉砕された。
「おい、ぐずぐずするな! 杭を抜け、荷をまとめろ! 敵はもう目と鼻の先だぞ!」
俺は必死に声を張り上げ、堀尾組の兵たちを急かした。
せっかく作った頑丈な土塁も、汗水垂らして立てた馬防柵も、すべては捨て置いて移動しなければならない。自分たちの努力が徒労に終わる虚しさを感じる余裕すらなく、俺は愛馬『軽トラ』に跨り、例の特注の重い槍を担ぎ直した。
軍は横山城の包囲を解き、南へわずかに下がった『姉川』という川の岸辺へと移動した。お館様はこの川を盾にして、押し寄せる浅井・朝倉の連合軍を迎え撃つ構えだ。
***
姉川の北岸には浅井・朝倉の一万八千。南岸には俺たち織田軍三万、そして援軍として駆けつけた徳川家康様の軍勢五千。
川面には白い霧が深く立ち込め、湿った空気が甲冑の隙間から肌にべったりとまとわりつく。
俺たち堀尾組五百人は、木下組の一部として、川岸の最前列から少し下がった、二段目から四段目あたりの中詰に配置されていた。
前方の最前線には、池田勝三郎や坂井政尚といった、織田家の中でも歴戦の猛将たちが率いる精鋭部隊が、川の濁流を睨んで隙なく布陣している。
(よかった……最前線じゃない。あんな激流のなかで真っ先に突き殺されるなんて御免だ。この位置なら、前の連中が頑張っている間に、いざとなったら逃げ出す算段も立てられる……)
俺は少しだけ安堵したが、それでも周囲の数万の兵が発する殺気には、胃が裏返るような心地がした。
「兄上! 霧の向こうに、浅井の旗印が見え始めましたぞ! いよいよ、大戦の始まりにございますな!」
氏光が、馬を寄せてハツラツとした声を上げた。その瞳には一点の曇りもなく、これから始まる決戦への高揚感に満ち溢れている。
「旗印なんて見なくていいよ、氏光。お前、絶対に先走るなよ。何があっても俺のそばを離れるな」
「ははっ、承知しております! 兄上がその特注槍を振るう時は、私も全力で続きますからな! 一歩も退かぬ兄上の背中、しかと目に焼き付けさせていただきます!」
氏光は槍を握り直し、俺の右肩にある異常なほど太い樫の柄を眩しそうに見つめた。あいつの純粋すぎる期待が、今はただ痛い。
そこへ、但馬が物見から戻り、重々しい口調で報告を入れた。
「吉晴殿。……敵の布陣が判明いたしました。浅井の精鋭が我ら織田軍の正面に、朝倉軍一万が右翼の徳川軍の正面に陣取っております」
「徳川軍の正面に、朝倉……?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏を一つの強烈な恐怖がよぎった。
朝倉軍。それは、金ヶ崎の退き口で俺を泥まみれにし、あの巨大な太郎太刀で俺の槍を粉々に粉砕した、あの規格外のバケモノ……真柄十郎左衛門がいる軍勢だ。
(待てよ。……浅井が織田の正面で、朝倉はあっちの徳川軍の正面にいるのか? ということは、あの真柄の野郎も、今は徳川軍の方にいるってことか?)
俺は思わず、戦場のはるか右翼、家康様率いる徳川軍が布陣している方向を見やった。
朝霧に煙っていて細かな顔までは見えないが、あちらの岸には朝倉軍がどっしりと山のように構えているのがわかる。
(……よかった。本当によかった……! あの化け物真柄は、徳川側かよ。あんなのと真っ正面からぶつかるなんて、徳川の兵たちは災難だな。気の毒だが、こっちにさえ来なければ俺の命は守られる……!)
俺は心の底から安堵のため息を漏らした。真柄さえいなければ、この重厚な特注槍が再びへし折られる心配もない。俺は今、人生で初めて徳川家康という男に感謝していた。そのままあっち側で、本多忠勝あたりと仲良くやり合っていてほしい。
「若。……ヘヘッ、何だか知らねぇが、若が悪い顔で笑ってやがるぜぇ」
三太夫が、馬の横を歩きながら不敵に笑った。
「笑ってなんかねえよ、三太夫。ただ、少しだけ希望が見えただけだ」
「へぇ、そいつは心強いぜぇ! なら、若のあの丸太みてぇな槍で、目の前の浅井の連中を片っ端から泥の中に叩き沈めてやろうじゃねぇですかぁ!」
「いや、無茶はしない。俺たち堀尾組はあくまで後方の支えだ。前の連中が崩れないように踏ん張るだけだぞ」
「ハハッ! 若は相変わらず慎重だぜぇ! だが、いざとなったら俺たちが若の盾になってやるぜぇ!」
三太夫はガハガハと笑いながら後ろの兵たちに「おいお前ら! 若の背中から目を離すんじゃねぇぜぇ!」と気合を入れ始めた。
だが、俺の隣でじっと戦況を見つめていた勘兵衛が、落ち着いた声で俺の淡い希望に冷水を浴びせた。
「茂助様。……朝倉側が徳川軍に向いたとはいえ、我らの正面にいる浅井軍も油断はなりませぬ」
「……どういうことだ?」
「先鋒の磯野員昌という男。この者、あの真柄に負けず劣らずの剛の者にございます。その猛進、一、二段目が食い破られれば、戦場は一気に混迷を極めましょう」
勘兵衛の言葉に、俺の背筋がスッと冷たくなった。
そうだった。真柄がいないからといって、ここが安全なわけではない。浅井軍もまた、横山を包囲された怒りで沸騰している。しかもその先鋒が真柄クラスの剛の者だなんて、まったく聞いてないぞ。
「……とにかく、俺たちはここで耐える。いいな。一歩も動かずに、この重い槍を突っ張って耐えるんだ」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
不意に風が吹き抜け、右翼の徳川軍の陣から凄まじい怒号と、金属が激しくぶつかり合う音が響いてきたような気がした。あちら側では、すでに化け物同士の殺し合いが始まろうとしているのだろう。
「茂助様。……始まります」
勘兵衛の静かな宣告と共に、夜明け前の静寂が、無数の法螺貝と太鼓の音によって凄まじい勢いで引き裂かれた。
朝靄の向こうから、浅井軍の地鳴りのような鬨の声が、巨大な波となって姉川の濁流へと雪崩れ込んでくる。
頼む、徳川軍。あの真柄をこっちへ一歩も寄越すな。
そして頼むから、勝三郎様、坂井様。その磯野とかいう猛将を、最前線で絶対に食い止めてくれ。
俺はただ、泥だらけの川岸で、異常に重い特注槍の柄を震える手で握りしめながら、他力本願の祈りを神仏に捧げ続けるしかなかった。
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