第120話:進撃の小谷道と、猛将の期待
空はどんよりとした鉛色に染まり、初夏のねっとりとした湿った風が、美濃から近江へと続く山道を撫でていた。
美濃の国境を焼かれたお館様の怒りは凄まじく、織田軍の全軍に休養の暇など与えられなかった。俺たちは、裏切り者・浅井長政を討つべく、再び北近江へと足を踏み入れていた。
だが、今回の行軍は、俺にとってこれまでとはプレッシャーの桁が違っていた。
(……五百人。五百人かよ。どう考えても多すぎるだろ……!)
延々と続く軍列のなか、俺、堀尾茂助は吐きそうな気分で愛馬『軽トラ』の背に揺られていた。
先の朝倉戦での退き口で殿軍を支えたという勘違い武功の結果、今回の遠征において、俺は木下組に属する五百もの兵を預かることになってしまった。
ほんの数年前、桶狭間の戦いで足軽として逃げ回っていただけの俺が、今や五百人の男たちの命を背負わされている。
俺の背後には、泥だらけの草鞋を履き、鈍く光る槍を構えた五百人の荒くれ者たちが整然と並び、先頭を行く俺の背中をじっと見つめて歩いている。
ザクッ、ザクッ、という五百人分の重い足音が、そのまま俺の背中にのしかかってくる。彼らの視線と命の重さが、物理的なプレッシャーとなって俺の胃をキリキリと締め付けた。
(一人が転んで列が乱れたらどうするんだ? 誰か一人でも『腹が痛い』と言い出したら、五百人全員の足を止めるのか? 行軍中に喧嘩が起きたら俺が仲裁に入るのか? ……無理だろ! 俺は血の気の多い武装したおっさん達をまとめ上げる器なんかじゃないんだぞ!)
ただでさえメンタルが崩壊しそうなのに、今の俺の右半身には、胃の痛み以上の物理的な重みがのしかかっていた。
そさて、出陣の朝、妻の桔梗に半ば脅されるようにして持たされた例の特注槍だ。
通常の槍より二回りは太い樫の柄は、芯まで焼きが入っており、ずっしりと重厚な——いや、殺人的な重量を放っている。おまけに先端には無骨で分厚い刃が固定されており、重心のバランスなど完全に無視されたただの尖った重い丸太である。
「……ぐ、ぬぅ……重い……。肩の関節が悲鳴を上げてる……」
幸いなことに、俺の愛馬である『軽トラ』は、足腰がめっぽう頑丈だった。俺の巨体に加え、この異常な重量の槍が加わっても、そのずんぐりむっくりした脚は微塵も揺らがず、ぬかるんだ泥道をしっかりと踏みしめて進んでくれる。
だが、馬が平気でも、乗っている俺の方は地獄だった。
十キロを超えるこの槍を保持しつつ、馬上でのバランスを保つのは至難の業だ。少しでも気を抜いて腕の力を緩めれば、槍の重みに引きずられて俺の方が馬から真っ逆さまに泥の中へ転げ落ちてしまう。
「兄上! 今日も一段と凛々しいお姿にございますな!」
不意に横から、ハツラツとした元気な声が飛んできた。
振り返ると、そこには馬を並べて進む氏光の姿があった。いつも通りエネルギーに満ち溢れた表情でこちらを見ている。
「氏光か……。凛々しいっていうか、俺は今、落ちないように必死なだけなんだが……」
「またまた、御謙遜を! その巨大な槍を片手で扱い、微動だにせず五百の兵を導く姿、まさに我ら木下組の鑑にございます! 俺も兄上の背中に泥を塗らぬよう、精一杯働かせていただきます!」
氏光はキラキラとした瞳でそう言い残すと、隊の列を整えるために前方へと駆けていった。あいつのあの純粋すぎる尊敬の念が、今の俺には岩より重たい。
氏光と入れ替わるようにして、横に並んできたのは但馬だった。
「吉晴殿。……あまり根を詰めすぎぬよう。道中はまだ長うございます」
但馬は相変わらずの生真面目な顔で、俺の肩で鈍く光る特注槍を心配そうに見つめている。
「但馬……。ああ、分かってる。でもこれ、ちょっとでも力を抜くとバランスを崩して落っこちそうなんだよ」
「左様でございましょう。その尋常ならざる太さ、その重み……、通常の武将であれば、槍持ちに持たせるものを、それを肌身離さず保持し続ける吉晴殿の御覚悟、この但馬、深く感銘を受けております。……後方の兵たちも、吉晴殿のその揺るぎないお姿を見て、嫌が応にも士気を高めておりますぞ」
「……お、おう。若いやつに重いものを持たせるのは酷だからな」
槍持なんて知らないし、今更言えねえよ。重すぎるので持ってくださいなんて。
但馬が真剣な顔で一礼して定位置に戻っていくと、今度は背後から「ヘヘッ」という下卑た、しかし親しげな笑い声が聞こえてきた。
「若。相変わらず派手な格好でやってるじゃねぇですか。そのデカい槍、遠くからでも目立ってて最高ですぜぇ!」
三太夫だ。
彼は草鞋の泥を跳ね上げながら、俺の馬のすぐ横を歩いている。
「三太夫……。派手とかそういう問題じゃないんだ。これ、本当に重いんだぞ」
「分かってますって。だからこそ、みんな若の度胸に痺れてるんだぜぇ。あのデカい丸太みてぇな槍を振り回して、浅井の連中をなぎ倒す若の姿、想像しただけで酒が飲めるぜぇ!」
「振り回さない! 絶対に振り回さないぞ! 俺はただ持ってるだけだ!」
「ハハッ! 相変わらず若は面白いこと言いますぜぇ!」
三太夫はガハガハと笑いながら、後ろの兵たちに「おいお前ら! 若の背中から遅れるんじゃねぇぜぇ!」と気合を入れ始めた。
さらに、その騒がしさを鎮めるように、落ち着いた声が届く。
「茂助様、お疲れにございましょう。……三太夫、あまり茂助様を困らせるものではありませんよ」
勘兵衛だ。
彼はいつも通り、冷静で普通の落ち着いたトーンで三太夫をたしなめると、俺の方を向いて静かに微笑んだ。
「茂助様。五百の兵を率いるというのは、心身ともに削られるもの。ですが、私たちがしっかりと脇を固めております。茂助様はただ、その堂々たるお姿を兵たちに見せてやってください」
「勘兵衛……。ああ、頼りにしてるよ」
部下たちのそれぞれの勘違いによる期待が、俺の周囲をがっちりと取り囲んでいる。
氏光のハツラツとした尊敬、但馬の生真面目な信頼、三太夫の軽薄ながらも熱い期待、そして勘兵衛の冷静なサポート。
彼らの呼び声と視線が、俺の逃げ道を一歩ずつ塞いでいく。
俺が重さに耐えかねて、食いしばった奥歯の隙間から「フンッ!」と荒い鼻息を漏らせば、氏光たちはそれを戦場への咆哮と受け取り、俺が苦悶の表情で前方を見据えれば、但馬たちは浅井への凄まじい敵愾心と受け取る。
ついには、槍の名手であり織田家の重臣である森可成様、見回りの途中で俺の横に馬を並べてきて、感銘を受けたように深く頷いた。
「見事だ、茂助。五百の兵をこれほど見事に統制し、一つの生き物の如く歩ませるとは。その異形の槍を従え、馬上で微動だにせぬその佇まい……。己に重き枷をはめることで昇華しているのだな。貴様のその揺るぎない背中こそ、今の織田軍に必要なものだ」
「は……ははぁ……っ(違うんです森様! ただ重いだけなんです! 腕が限界なんです!)」
「よい面構えだ。その分厚い槍で、浅井のへし折れた意地をさらに粉砕してやれ。お館様も、お前の働きを大いに期待しておるぞ」
森様は満足げに笑い、前方を行くお館様の本隊へと馬を走らせていった。
俺は心の中で絶叫したが、周囲の部下たちは「さすが若だぜぇ!」「兄上、お館様たちの期待も大きいようで!」と、さらに士気を爆発させている。
俺の意志とは無関係に、最強の槍使いとして祭り上げられていくこの狂った空気。俺はこのまま、一番危険な敵の真っ只中に放り込まれてしまうのではないか。
***
数日に及ぶ過酷な行軍の末、俺たち織田軍の先陣は、ついに浅井長政の本拠地――『小谷城』の近くへと到着した。
だが、そこから見上げた先の光景に、俺は思わず絶望で馬上の姿勢を崩しそうになった。
「……冗談だろ。これ、山じゃなくてただの絶壁じゃねえか」
小谷山は、天を突くような断崖絶壁が続く、巨大な天然の要塞だった。
山全体が城塞化されており、険しい斜面には幾重もの空堀と石垣が巡らされ、木々の隙間からは数多の砦が牙を剥いているのが見える。
あんなところに下から攻め上がれば、五百人の部下どころか、的のデカい俺が真っ先に上から降ってくる矢弾や岩でミンチにされる。
ここを力攻めしろと言われたら、どんな命令に背いてでも逃げ出すしかない。俺は額の汗を拭いながら、本陣で行われている軍議の結果を胃を痛めながら待った。
やがて、軍議から戻ってきた藤吉郎が、俺たち木下組の陣へと足早にやってきた。その顔は険しいが、どこかホッとしたような色も混じっていた。
「茂助、お館様の御判断だ。あの小谷城を真正面から力攻めにするのは得策ではない。無駄な血を流すわけにはいかないからな」
「え、本当ですか!?」
俺は思わず馬上で身を乗り出した。助かった……! あの死の断崖絶壁をよじ登らなくていいのか!
「ああ。標的を変える。小谷の南にある補給の要衝、『横山城』へ向かうぞ。あそこを大軍で完全に包囲し、干し上げる。そうすれば、長政も城に引きこもってはいられず、必ず横山城を助けに野戦へ引きずり出されてくるはずだ」
小谷城への直接攻撃、すなわち絶壁への突撃任務は回避された。
俺の脳内では、「やったぁ! 突撃はやらなくていいんだ!」と勝利のファンファーレが鳴り響いていた。
「茂助。お前も自身の部隊を率いて、横山城を囲む一角に布陣しろ。……あそこなら、どっしり構え、敵を威圧するだけでいい」
藤吉郎の言葉に、俺は力強く何度も頷いた。
包囲戦。つまり、遠くから城を眺めて、たまに「降参しろー」と叫んだり、柵を作って見張りをしているだけでいい時間だ。
あの大太刀を持ったバケモノに追いかけられることも、暗殺者の鉄砲に怯える必要もない、平和な裏方の仕事だ。重い槍を振り回す機会など一生訪れないだろう。
(よかった……。これでしばらくは、陣地に座り込んでのんびりできるぞ……。最前線で命を懸けるような真似は、絶対に回避してやる!)
俺は肩の特注槍を担ぎ直し、心からの安堵の溜め息をついた。
戦場は変わるが、俺の過酷な労働環境は、とりあえず命の危険が極めて少なそうな城の包囲戦へと舵を切ったのだ。……そう、この時は本気で信じていた。
六月の生ぬるい風のなか、俺はまだ知らない。
この威圧と嫌がらせを目的とした横山城の包囲戦が、浅井軍の逆鱗に触れ、結果的に俺たち自身を、川を真っ赤に染める泥沼の血戦へと引きずり込んでいくということを。




