第119話:美濃焼き討ちと、桔梗の折れない愛情
生きて岐阜の土を踏めた。その事実だけで、俺の目からはボロリと涙がこぼれ落ちた。
心臓が口から飛び出しそうな地獄を潜り抜け、俺たち織田軍の帰還部隊はようやく本拠地へと辿り着いた。
「……帰ってきた。本当に、帰ってきたんだな」
目に飛び込んできたのは、夕日に映える岐阜城の威容と、活気あふれる城下の町並みだ。
越前での絶望的な敗走、真柄十郎左衛門という暴力の化身との遭遇、そしていつどこから頭を撃ち抜かれるかわからない狙撃の恐怖。
ニート生活で「不労所得で暮らしたい」と願っていた俺の寿命は、この一ヶ月ほどの間で、控えめに言っても五十年は縮んだはずだ。
岐阜城に入り、一旦、軍の解散が宣言された。それぞれの屋敷へ帰る許可が出た瞬間、俺は重い足を引きずり、泥に汚れた具足を揺らしながら、自分の屋敷へと真っ直ぐに向かった。一歩歩くごとに、内股の擦りむけた痛みと、恐怖で凝り固まった腰の筋肉が悲鳴を上げる。
今の俺の望みはただ一つ。布団に潜り込み、この戦国時代の過酷な現実からログアウトすることだけだった。
「……お帰りなさいませ、旦那様。ご無事で何よりにございます」
屋敷の戸を開けると、妻の桔梗が、いつもと変わらぬ穏やかな様子で三つ指をついて出迎えてくれた。
透き通るような白い肌に、おとなしげな顔立ち。どこからどう見ても、貞淑で可憐な、絵に描いたような武家の奥方だ。だが、俺はこの微笑みの裏に潜む本性を、身に染みて知っている。
「桔梗……! ああ、帰ったぞ……。怪我はないが、もう限界だ。身体と心がバラバラになりそうだ……」
俺は玄関先に崩れ落ちるように座り込んだ。甲冑を脱ぐ気力すら湧かない。だが、桔梗は俺の泥だらけの姿を見ても眉一つ動かさず、むしろその瞳に怪しい光を宿して俺の足元を凝視した。
「はい、まことにお疲れ様でございました。旦那様、立ち姿に僅かな乱れがございますね。道中、腰の粘りが足りなかったのではありませぬか?」
「……は? 腰の粘り?」
嫌な予感がした。
普通、死地から帰った夫にかける言葉は「温かい湯を用意しました」とか「ゆっくり休んでください」ではないのか。
だが、この桔梗という女性の思考回路は、どこか致命的にズレている。
彼女にとって戦場は、夫を鍛え上げるための鍛錬であり、生還した後の筋肉の疲労はさらなる強化のための好機でしかないのだ。
「旦那様、布団に入る前に。まずは庭で四股を百回踏んでくださいませ。凝り固まった筋肉を一度壊さねば、真の力は宿りませぬ」
「待て、桔梗……。俺は山の中を逃げ回って、その後、馬でぶっ飛ばしてきたから、足がパンパンなんだ。今すぐ寝かせてくれ……」
「いけませぬ。戦の疲れは、さらなる負荷で肉を叩き直し、より太く強く再生させることでしか癒えませぬ。さあ、腰を深く落として。一、二、……」
結局、俺はその夜、泥のような眠りにつく前に、桔梗のスパルタ指導のもとで汗だくになって四股を踏まされる羽目になった。
彼女は俺の背中にひらりと飛び乗り、その可憐な容姿に見合わぬ重みで俺の腿を限界まで追い込んでいく。俺の悲鳴は、静かな岐阜の夜に虚しく吸い込まれていった。
***
翌朝。
全身を襲う激しい筋肉痛で、布団から起き上がることすらままならない俺に、さらなる衝撃のニュースがもたらされた。
「……お館様が、手が付けられぬほど激怒していらっしゃるようです」
新しく家臣となった捨吉たちが声を震わせて伝えてきた。
話を聞けば、俺たちが命懸けで近江を脱出している間に、近江南部の六角残党が不穏な動きを見せていたらしい。
だが、そこは織田家の筆頭家老・柴田勝家様と、ベテランの佐久間信盛様が、鮮やかな連携で見事に一掃。背後の憂いは、プロの仕事によってあっさりと消え去っていた。
ここまでは良かった。織田家の層の厚さに感謝したいところだ。
だが、問題はその後の浅井・朝倉軍の行動だった。
俺たち織田の本隊を逃した腹いせか、彼らは美濃の国境付近にある村々に火を放ち、組織的な略奪を働いたというのだ。
岐阜城の天守から西を望めば、遠く青い山脈の向こうから、黒い煙が立ち上っているのが見える。
それは、この土地で静かに暮らしていた民たちの絶望の煙に違いない。
「……犬どもが!」
岐阜城の広間に、地鳴りのような怒声が響き渡った。
お館様、織田信長だ。
自分の領地を、自らの民を焼かれた。他国を攻めることには容赦がないが、自分の庭を汚されることを、この男は何よりも嫌う。
魔王の瞳には、冷たく鋭い、しかし燃え盛るような殺意が宿っていた。
「長政の奴め、自分が何をしたか分かっているのか……。この俺の目の前で、俺の国を焼いたのだ。万死に値する」
信長は、傍らにいた森三左衛門や木下藤吉郎を鋭く見据えた。
「態勢を整え次第、直ちに出陣する! 全軍、休んでいる暇などないと思え! 近江へ攻め込み、浅井の本拠・小谷城を根こそぎ叩き潰してくれるわ!!」
有給休暇。ワークライフバランス。そんな現代的な概念は、このお館様の辞書には一文字も存在しなかった。
越前で惨敗し、退却戦でボロボロになったばかりの兵たちに、間髪入れずの再出陣。完全な終わらないブラック最前線の確定である。
***
「……む、無理。絶対死ぬ。俺、もう足が動かないんだよ……」
出陣の号令が下った翌日から、俺は自分の屋敷の庭で、桔梗によるさらなる猛特訓に明け暮れていた。
信長の即時出陣という狂った決断により、木下組も再び最前線に駆り出されることが決まった。
藤吉郎は「茂助、お前の勘の良さをお館様が買っておられるぞ! 次の戦でも最前線だな!」と、嬉しそうに俺の死亡フラグを立てていった。
「旦那様、泣き言を漏らしている暇があるなら、あと十回、私を背負ったまま腰を落としてくださいませ。美濃を焼いた浅井の兵は、飢えた獣のごとく殺気立っております。その突進を跳ね返すのは、揺るぎない足腰の力にございますよ」
「……足腰の力なんて、もう一滴も残ってねえよ! 桔梗、お前、鬼か!?」
俺は汗と涙で顔をグチャグチャにしながら、細い桔梗を背負って屈伸を繰り返した。
俺の身体が、過酷な運動のたびに揺れ、地面の土を踏み固めていく。桔梗は俺の肩を叩き、「ほら、もっと深く!」「息を止めてはいけませぬ!」と、まるで厳しい教官のように俺を追い込んでいく。
そしていよいよ、近江へ向けた再出陣の日の朝。
俺が重い体を引きずり、絶望的な気分で玄関を出ようとした時、桔梗が「旦那様、お待ちください」と、布に包まれた大きな何かを差し出してきた。
「旦那様。出立の前に、こちらをお持ちくださいませ」
受け取った瞬間、俺の腕が「ズシッ」と地面に持っていかれそうになった。
「重っ!? ……な、なんだよこれ?」
布を剥いで、俺は絶句した。
それは、一本の槍だった。だが、俺が今まで知っている槍とは、その構造が根本から違っていた。
長さは二間(約3.6メートル)ほどだが、何よりその柄が異常なのだ。
通常の槍の倍はあろうかという極太の樫の木。大人の腕ほどもある太さで節一つない。その先端には、無骨で鋭利な穂先が、これでもかと頑丈に固定されていた。
「朝倉との戦、旦那様の刀が敵の猛将の刃でへし折られたとお聞きしました。……旦那様の命を支えるべきものが壊れてしまうなど、妻としてこれ以上の不安はございません」
桔梗は、どこまでも澄んだ瞳で俺を見上げた。
「ゆえに、城下の腕利きの鍛冶屋と、一番の柄職人に頼み込み、特注で作らせました。芯まで硬く焼きを入れ、太さを追求した、旦那様にしか扱えぬ特注槍にございます」
俺は両手でその槍を構えてみたが、あまりの重さに数秒で腕がプルプルと震え出した。これ、十キロ以上はあるぞ。
「これ……槍じゃなくて、家の大黒柱だろ!! 武器としてのバランスを完全に無視してないか!? こんなもん、振り回すだけで肩が外れるわ!」
「いえ、旦那様の御身体であれば問題ありませんし、折れなければ、旦那様は死にませぬ」
桔梗は、俺の胸元にそっと手を添えた。
「旦那様への、私の折れない愛情にございます。……必ず、生きてお帰りくださいませ」
「……ああ、分かったよ。槍が折れないのはいいけど、重すぎて俺の心が折れそうだわ」
俺は溜め息をつきながら、肩に食い込むほど重い愛情の塊を担ぎ上げた。
重い。とにかく重い。だが、不思議と肩にかかるその重みが、俺の臆病な心を少しだけ地面に繋ぎ止めてくれるような気もした。
屋敷の外に出ると、そこにはすでに部下たちが集まっていた。
誰もがろくに休めておらず、目の下には深い隈ができている。だが、彼らの目には焼かれた故郷への怒りが、小さな火となって灯っていた。
ブォォォォォォ――。
岐阜の空に、出陣の法螺貝が重く鳴り響いた。
一度は命拾いしたはずの戦場。だが、運命という名の過酷な労働環境は、俺を再び地獄の最前線へと引きずり戻す。
向かう先は、裏切り者の待つ近江の国。
俺の手には、桔梗が授けてくれた、異常に重くて折れない丸太槍。
生き残るための、そしてさらに過酷な戦いが始まろうとしていた。




