第118話 千草越えと、凶弾の行方
金ヶ崎の地獄から京の都へ逃げ帰り、足利義昭への「どこでもドア」の言い訳という寿命の縮むパシリを終えた俺たちを待っていたのは、さらに最悪の現実だった。
「お館様、岐阜へ戻る道が、ございませぬ」
軍議の場で、明智光秀が冷徹な声を響かせた。
本来、京から岐阜へ帰るには、琵琶湖の東側を通る近江路を進むのが常識だ。
だが、そこを領地とする浅井長政が裏切った今、その道は塞がれている。浅井はすでに朝倉と合流し、織田の軍勢を袋叩きにしようと目を光らせていた。
「ならばどうする。このまま近江を避け、険しき伊勢の山々を強引に抜ける『千草越え』を選び、伊勢へと脱出するしかございませぬ。なれど……」
光秀が言葉を濁した瞬間、一人の透破が駆け込んできた。
「申し上げます! 近江を追われた六角の残党が、甲賀の鉄砲撃ち『杉谷善住坊』なる者を金で雇い入れたとのこと! 岐阜の帰還を狙ってお館様の狙撃を企てているとの報告がございました!」
その言葉に、広間の空気が完全に凍りついた。
千草越えは、人一人が通るのがやっとの狭い崖道や死角が続くらしい。そこを、プロのスナイパーが待ち伏せているというのだ。
「お館様! 千草越えの山道は、鉄砲の待ち伏せには絶好の死角だらけ! ここは出立を遅らせ、まずは徹底的な山狩りを行うべきにございます!」
「左様! 姿を見せぬ暗殺者がいると分かっていて山へ入るなど、自ら死地に赴くようなもの!」
柴田勝家や丹羽長秀ら重臣たちが血相を変えて止める。当然だ。どこに潜んでいるか分からない狙撃手が「お前を狙っているぞ」と事前予告してきているのだから。
だが、信長の思考は常人とは対極にあった。
「……愚鈍」
信長は、鼻でふんと笑い飛ばした。
「出立を遅らせれば、浅井と朝倉に兵を整える猶予を与えることになる。たかが虫ケラ一匹の火縄に怯え、この俺が足を止めると思うか。……予定通り、千草越えを最速の騎馬行軍で駆け抜けるぞ」
重臣たちが息を呑む中、信長は冷たい目をして言葉を継いだ。
「鉄砲撃ちは必ず、見晴らしの利く尾根から狙ってくる。……わしを完全に隠す肉の壁を並走させろ」
「お館様! 弾除けの肉の壁ならば、我が木下組の茂助をお使いくだされ!」
俺の直属の上司である木下藤吉郎が、元気よく手を挙げた。
「図体もデカく的として最適! 何よりあいつのしぶとさは天下一品にございます!」
「……うむ。貴様の巨体ならば、良い盾になろう。茂助、俺の側を走れ」
(……はぁぁぁぁっ!?)
俺の意見など一切聞かれることなく、俺は「狙撃手から魔王を守るための、歩く防弾チョッキ」という最悪の役割に任命されてしまった。
***
千草越えの山道は、まさにデスゲームの会場だった。
右は切り立った崖、左は鬱蒼と生い茂る初夏の原生林。いつ、どこの木の陰から火縄銃の銃口が突き出されるか分からない。
俺はお館様と左の森の間に挟まるようにして馬を走らせながら、心臓が爆発しそうなほどの恐怖に苛まれていた。
事前に暗殺者がいると分かっている恐怖は、突然襲われるより遥かにタチが悪い。木々の葉擦れの音がするたびにビクッと肩が跳ね、鳥が飛び立つだけで「撃たれる!」と首をすくめる。完全にノイローゼ状態だ。
そして何より――痛い。
現代日本の柔らかい椅子にしか座ってこず、戦国でも安全安心の愛馬『軽トラ』若しくは、徒歩での移動しかしていなかった。
俺の尻の皮は、舗装されていない山道での乗馬による激しい上下運動で、とっくに限界を迎えていた。一歩進むごとに内股が擦れ、脳天まで突き抜けるような激痛が走る。
(痛い……尻が裂ける……! それに、俺が馬の上で背筋を伸ばしてたら、左の森から見れば最高の的なんじゃないか!)
極限の恐怖と尻の痛みが、俺の生存本能を限界突破させた。
(もう無理だ。胸を張ってなんて乗っていられない。……そうだ、馬の首にべったりとしがみついて、寝そべるように姿勢を低くしよう。これなら尻への衝撃もマシだし、何より少しでも的が小さくなる!)
それは、主君の盾となるべき武士としてはあり得ないほどみっともない乗馬姿勢だった。
俺は手綱から片手を離し、鞍の上でドスッと腰を崩すと、馬のたてがみに顔を埋めるようにして、上半身を完全に前へ伏せた。亀が甲羅に首を引っ込めるような、完全な現実逃避スタイルである。
――俺が、無様に馬の首へしがみついた、まさにそのコンマ一秒後のことだった。
ダァァァンッッ!!!
耳をつんざくような、火薬の爆発音。
俺がさっきまで背筋を伸ばして『胸を張っていた空間』を、空気を焦がすような見えない熱風が「ヒュンッ!!」と通り抜けていくのを感じた。
「敵襲ゥゥッ!! 種子島だ!!」
前田犬千代の絶叫が山肌を震わせる。さらにもう一発、立て続けに銃声が山に木霊した。
俺は馬の首にしがみついたまま、恐怖で完全に硬直した。
(ひぃぃぃッ!? ガチで撃ってきた!?)
恐る恐る右側へ顔を向けると、信長の乗っていた馬がいななき、前足を高く上げていた。信長は落馬こそ免れたものの、その着ていた甲冑の左袖が、何かに抉られたように無残にひしゃげて弾け飛んでいる。
「殿をお守りせよ!! 刺客は左の尾根だ、追えッ!!」
犬千代たちが抜刀し、殺気を撒き散らしながら左の森の中へ駆け込んでいく。
白煙が立ち上る木々の隙間から、一人の男が猟犬のような身のこなしで逃げ去っていく影が見えた。
周囲がパニックに包まれる中、信長は静かに馬を落ち着かせると、ひしゃげた自分の袖を忌々しそうに睨みつけた。
「……金で雇われた業物と聞いていたが、初弾を俺の盾に外し、次弾の狙いもブレるとはな」
信長の声は異常なほど冷たかった。
そして、馬の向きを変えると、亀のように首をすくめている俺を見下ろした。
「茂助。貴様、よくぞあの凶弾を躱したな」
「……え?」
俺が間抜けな声を漏らすと、信長の背後を固めていた池田勝三郎が、戦慄の表情で叫んだ。
「なるほど! お館様、あの刺客は、お館様への射線を完全に塞いでいた茂助を排除するため、まずは茂助の胸を狙って一発目を放ったのです! ですが茂助は、刺客の微かな殺気を察知し、咄嗟に馬の首に隠れて神がかり的な回避を見せた!」
「左様」
信長が低く笑う。
「茂助という盾が、銃声よりも早く突如として沈み込んだ。必殺の一撃を避けられたことで、刺客は激しく動揺し、お館様への本命の二発目の軌道を数寸狂わせたのだ! ……茂助、貴様のその野生の勘が、お館様の命を救ったぞ!」
勝三郎のトンデモ解説に、他の護衛たちも「なんと恐ろしい男か」「あの極限状態で、鉄砲の弾を避けるとは……」と畏怖の眼差しを向けてくる。
(違う!! ケツが痛いし、撃たれたくないから隠れようとしただけなんだって!!)
俺は心の中で絶叫したが、ガタガタと震える顎のせいで言葉にならなかった。
もし、俺が「武士らしく立派に盾になろう」と我慢していたら。もし、痛みに耐えて真面目に背筋を伸ばしていたら。
初弾で、俺の胸は完全にブチ抜かれ、そのまま二発目で信長も殺されていたのだ。
怖い。
合戦場で大太刀を振り回してくるバケモノとは、全く違う恐怖。
いつ撃たれるか分からないという予告付きのサスペンスと、見えないところから一方的に命を奪いに来る暗殺という暴力。
(何なんだよ、この戦国時代……。帰り道の方がよっぽど命懸けじゃねえか……!)
「……行くぞ。刺客は二丁の筒を撃ち尽くした。仕留められねば引くはずだ。岐阜まではあと僅か」
信長の号令で一行は再び動き出す。
俺は馬の首にべったりと抱きついたみっともない姿勢のまま、狂ったように周囲の森をギョロギョロと見回しながら、ただひたすらに祈るように進んだ。
生きて帰る。
そのためには、武士の矜持など捨てて、誰よりも早く無様に首をすくめるしかないのだ。
(桔梗……早く、お前のうどんが食いたいよ……生きて帰れたら、当分外には出ねえからな……)
夕闇に染まり始めた山道の向こうに、ようやく岐阜城の山影が見え始めていた。
だが、俺の耳の奥には、杉谷善住坊が放ったあの凶弾の風切り音が、いつまでも冷たく鳴り響いていた。




