第117話 将軍の怯えと、青い狸の御伽噺
信長から浅井・朝倉との全面戦争という絶望のブラック宣告を受けた翌日。
俺はようやく与えられた半日の休暇を使い、京の木下組の陣屋で泥のように眠りこけていた。金ヶ崎から逃げ続けてきた筋肉痛はピークに達し、少し寝返りを打つだけで全身の関節がメキメキと悲鳴を上げる。
(あぁ……最高だ。布団って素晴らしい。もう金輪際働きたくない。一生ここでニートしてたい……)
だが、戦国の世は俺のような末端のパシリに甘くはない。
「茂助殿! 茂助殿はおられるか!」
陣屋の襖が乱暴に開き、幕府の奉公衆が血相を変えて飛び込んできた。
「公方が、大至急貴殿を呼んでおられる! 今すぐ二条の新御所へ参られよ!」
「……はあ?」
俺は寝癖だらけの頭を掻きながら、恨めしそうに奉公衆を睨んだ。
公方、つまり室町幕府第十五代将軍・足利義昭である。
以前、俺の適当なオタク語りにドハマりしたこの将軍は、あろうことか俺を公家の養子にしてまで幕臣に引き抜こうとし、結果的に、藤吉郎にどやされる原因を作った、ある意味で最悪の疫病神だ。
「いや、俺、今日休みなんですけど……ていうか、また御伽噺の続きですか? こっちは金ヶ崎から命からがら逃げ帰ってきて、それどころじゃ……」
「問答無用! これは上意であるぞ!」
有無を言わさず両脇を抱えられ、俺は布団から引きずり出された。
***
信長がわずか七十日で急造させた二条の真新しい新御所。
その奥の居室に放り込まれた俺を待っていたのは、豪華な装束をだらしなく着崩し、部屋の隅でガタガタと震えている義昭の姿だった。
「も、茂助! よくぞ参った!」
俺の顔を見るなり、義昭は転がるようにして駆け寄り、俺の肩をガシッと掴んだ。その顔は青ざめ、額には脂汗が浮いている。
(うわぁ……なんだこれ。まさかポケ〇ンかドラ〇もんの話の続きが聞きたくて禁断症状でも出たのか?)
俺が引きつった顔をしていると、義昭はすがりつくような声で叫んだ。
「浅井と朝倉が結託し、この京へ攻め上ってくるというのは誠か!? あの信長が、命からがら逃げ帰ってきたのであろう!?」
義昭は半狂乱になって叫ぶと、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「おのれ信長め! あ奴、日頃から余を蔑ろにしおって! かつて本圀寺の襲撃の折、自ら『副将軍をお受けする』と申したくせに、『戦が忙しい』と何かと理由をつけて、いつまで経っても朝廷の宣下を受けようとせぬ! あまつさえ、正当な将軍たるこの余に向かい、『他国の大名へ勝手に文を出すな』などと無礼極まりない掟を押し付けおって!」
(うわぁ……めんどくせえ……)
俺は内心でドン引きした。
歴史の知識なんか微塵もない俺だが、織田家の大ボスと幕府のトップの仲が完全に終わっていることくらいは、今の話で嫌でも理解できた。
朝倉との敗戦を機に、義昭の中に溜まっていた信長への不信感と怒りが、一気に爆発しようとしていたのだろう。
こんな雲の上のマジ喧嘩に巻き込まれたら、一番下っ端のパシリである俺なんて真っ先に物理的に首が飛ぶに決まっている。
「そのように余を傀儡のごとく扱いながら、いざ戦になれば惨敗して都へ敵を呼び込むとは! あ奴のせいで、余はまた都を追われるのだぞ! ……さあ茂助、すぐに出せ!」
「いや、負けた訳ではないんですけど……って、何をですか?」
「とぼけるな! 以前、上洛の道中で貴様が余に語ったではないか! 『腹に不思議な袋を持つ、青い狸の化け物』の話を!」
ブワッ、と俺の全身から嫌な汗が吹き出した。
「あの青き狸の袋から出る、『どこへでも行ける扉』の妖術! あれがあれば、敵の目を掻き潜り、安全な国まで一瞬で逃げられるはずだ! さあ、早くその扉をここへ出せ!」
(うわあああああああッ!! あれ、ガチで信じてたのかよ!!)
俺は頭を抱えて絶叫しそうになった。
退屈しのぎに義昭に語って聞かせた前世のアニメやゲームの御伽噺。あれだけ色々な話をしたのに、この将軍はまだ「どこへでも行ける扉」を現実の妖術だと信じ込んでいたのだ。
どうする。「あれはただの作り話でした」なんて言えば、将軍をたばかった罪でえらいことになる。かといってそんな未来の秘密道具、物理的に出せるわけがない。
「は、早くしろ茂助! 余を逃がせ!」
義昭が俺の襟首を揺さぶる。
俺は滝のような汗を流しながら、かつて親の説教から逃げる時に培った、ヒキニート特有のその場しのぎの言い訳スキルをフル回転させた。
「お、お待ちくだされ! あの青い狸の扉は……逃亡には、使えませぬ!」
「な、なに!? なぜだ! 金か! 褒美ならいくらでもくれてやるぞ!」
「金の問題ではありません!」
俺は義昭の手を振り払い、床に手をついて、いかにも深刻な呪いがあるかのように声を低くした。
「……あの狸は、気弱で不器用な少年を助ける妖の使い。……ですが、厳しき掟があるのです。敵に背を向けて逃げるために扉を開けば、その先は永遠の暗闇。二度と元の世界には戻れませぬ!」
「!? な、なんと……」
義昭が意味深な顔でゴクリと喉を鳴らす。
「あの狸が真の道具を貸し与えるのは、少年が、町を牛耳る巨漢の悪童に、自ら立ち向かう覚悟を決めた時だけなのです!」
適当極まりない設定だが、当時の人間にとって神仏の掟や妖怪の呪いは絶対である。
義昭は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、後ずさって尻餅をついた。
「そ、そんな恐ろしい呪いがあるとは……。では、余は逃げることもできぬのか……」
「逃げる必要などありません!」
俺はバシッと床を叩き、義昭の目を真っ直ぐに見据えた。
「公方様は、この日ノ本の武士の頂点たる将軍様です! 私たちが建立した堅牢なこの二条城で堂々と構え、『余は一歩も退かぬ』とお振る舞いになれば、その御威光に恐れをなし、浅井も朝倉も手を出せません! ……逃げないことこそが、最大の防御なのです!」
本当は「あんたが逃げたら織田家の面目が丸潰れになって、俺がお館様に殺されるから大人しくしててくれ」という俺の完全な保身なのだが、言葉だけは立派に飾り立てた。
静寂が下りた。
義昭は、床に座り込んだまま、俺の顔をジッと見つめていた。
やがて、その震えがピタリと止まり、青ざめていた顔に、ゆっくりと血の気が戻っていく。
「……逃げるために扉を開けば、暗闇に飲まれる、か」
「は、はい」
「そうか……。そうであったな」
義昭は、自嘲するように小さく笑い、ゆっくりと立ち上がった。
「余は、将軍であった。天下の武家の棟梁たる者が、妖術の扉に頼ってコソコソと逃げ出そうなど……なんという浅ましい振る舞いか。青き狸の神使に、鼻で笑われるところであったわ」
(いや、まぁ本当は狸じゃなくて猫なんだけど……まぁいいか)
「茂助。貴様の言う通りだ」
義昭は、身なりを整え、将軍としての威厳を取り戻した顔で俺を見下ろした。
「あの狸の話は、ただの妖の御伽噺ではないのだな。気弱な少年が巨漢の敵に立ち向かうように……天下を統べる者もまた、逃げずに立ち向かう覚悟を持てという教え。……貴様のその御伽噺に託した『深い忠言』、しかと胸に刻んだぞ」
「……えっ?」
「余は逃げぬ! この京にどっしりと構え、信長の吉報を待つとしよう! 茂助、貴様のその誠の忠義、大儀であった!」
義昭は満足げに頷き、晴れやかな顔で俺を労った。
どうやら、俺の出まかせの設定が、「将軍たる者、強敵から逃げるな」という高度な暗喩の諫言として、またしても都合よく脳内変換されてしまったらしい。
「は、ははぁっ! もったいなきお言葉!」
俺は額に冷や汗をかきながら、平伏するしかなかった。
こうして、将軍の逃亡劇という幕府の危機は、俺の捏造したアニメ設定によって未然に防がれた。
陣屋へ帰る道すがら、俺は深く長いため息をついた。
(危ねえ……ニートの言い訳も、やりすぎると命に関わるな……)
だが、この一件によって、足利義昭の中での俺の評価は「心を許せるやつ」から、「ズッ友」へと、無駄にランクアップしてしまった気がする。
これから始まる浅井・朝倉との泥沼の決戦を前に、俺の望まない名声だけがまた一つ積み上がっていく。
戦国時代。それは、ちょっとした言い逃れすらも命懸けの、息もつけないブラック環境なのだった。




