第116話 京への帰還と、魔王の教え
越前の地獄のような泥濘から逃げ延び、山賊三千を言葉のハッタリだけで丸め込み、朽木の険しい山道を越えて、俺たち殿部隊はついに京の都へとたどり着いた。
だが、そこにあるのは「凱旋」といった華々しい言葉とは無縁の光景だった。
「……着いた。本当に、京だ……」
綺麗でかつ、固められた京の道を踏みしめる感触が、泥に慣れきった足裏には酷く硬く、異質なものに感じられた。
俺たち木下組、そして徳川軍、明智軍。並び立つ兵たちの姿は、およそ天下の軍勢と呼べるものではなかった。兜の立物はへし折れ、甲冑はひしゃげ、泥と返り血が幾重にも層を成し、皆がボロ雑巾のように疲れ果てている。
京の町衆たちは、大通りを歩くこの亡者の行進を遠巻きに眺め、ひそひそと囁き合いながら戦慄していた。
三万もの織田本軍が蜘蛛の子を散らすように逃げ帰った後、最後尾で絶望的な殿を引き受け、誰の目にも全滅したと思われていた部隊が、ボロボロになりながらも生還したのだ。その異様な気迫と悪臭に、誰も声をかけることができない。
俺は、隣で肩を貸している小一郎の重みを感じながら、ぼんやりと京の青空を見上げた。
あんなに欲していた平和な都の空のはずなのに、頭の中にはまだ、太郎太刀を大風車のように振り回す真柄十郎左衛門の、あの化け物じみた咆哮がこびりついて離れない。
普段なら血の気が多くてやかましい三太夫も、無駄に威張っている氏光や但馬といった堀尾組の面々も、今は言葉を失って亡霊のように足を引きずっている。
生き残った。ただそれだけの事実が、今の俺たちには何よりも重く、信じがたい奇跡のように感じられた。
***
翌日。
泥を落とし、最低限の休息を取った俺たちは、信長が滞在する本陣――京の知恩院へと呼び出された。
静まり返った広間には、すでに逃げ帰っていた柴田勝家や丹羽長秀といった織田家の重臣たちがズラリと並んでいる。その最奥、一段高い上座にどっかりと腰を下ろしているのは、織田家の魔王・信長であった。
「――面を上げよ」
信長の、低く、全てを見透かすような声が響く。
「猿、光秀、そして徳川殿。……よくぞ、三万の殿を務め上げ、この京まで兵を連れ戻した。大儀であった」
それは、信長にしては珍しい、最大級の賞賛だった。
本来、敗北を極端に嫌い、無能を容赦なく切り捨てる苛烈な男だが、この生還劇が織田家の存亡の首の皮を繋いだことを、誰よりも深く理解しているのだ。
藤吉郎が「全ては茂助や半兵衛の知略があってこそ!」と大げさに声を張り上げると、周囲の重臣たちから驚愕の視線が俺の背中に突き刺さる。
筆頭家老の柴田などは「ほう、あの茂助が。あの真柄十郎左衛門を止めたというのは誠であったか」と、値踏みするように目を細めていた。
だが、俺の心はそんな身に余る賞賛どころではなかった。限界を超えた泥まみれの行軍で足腰の筋肉が悲鳴を上げ、ただ座っているだけでも視界がチカチカするのだ。
(……絶賛? 褒美? そんなのいいから、とにかく寝かせてくれ。せめて一週間、いや一ヶ月くらい有給休暇をくれ。傷病手当を出してくれ……)
俺の休息を願う切実な思いは、しかし、信長の次の一言で無残に粉砕された。
「猿。休んでいる暇はないぞ」
「はっ……?」
「裏切り者・浅井長政は小谷城を固め、朝倉と手を結びおった。奴らは今、この尾張・美濃を飲み込もうと牙を研いでおる。態勢を立て直し次第、直ちに出陣する。奴らの息の根を、近江の地で完全に止めるぞ」
広間に冷たい緊張が走る。重臣たちが一斉に「ははっ!」と平伏した。
だが、戦国時代で10年暮らしてきたものの、俺の頭の中には、現代人としての甘い考え切実な戸惑いがどうしても頭をもたげる。
浅井長政。織田家の末端で働く俺でさえ知っている。あのお館様が最も信頼し、織田一の美女と名高い愛妹のお市を嫁がせた義弟だ。それほどまでに深い関係だったはずではないか。
「あ、あの……! お館様!」
思わず声が出ていた。平伏していた藤吉郎が真っ青になり、隣で「茂助、貴様何を!」と小声で叫ぶのが聞こえたが、口をついて出た言葉は止まらなかった。
「……浅井って、あのお市様が嫁いでいるところですよね? お館様の大事な妹さんの旦那さんじゃないですか! ここは一つ、なんとか話し合いでいかないんですか!? 今からでも使者を出して謝らせるとか、そんな簡単に殺し合いの戦争にしないで、丸く収める方法は……!」
その瞬間、広間が氷の張った湖のように凍りついた。
藤吉郎は心臓が止まったような顔をして、ガタガタと震えながら俺の袴を力任せに掴んだ。「こ、こいつ……今、お館様の逆鱗に……! 打ち首だ! 今すぐ斬られるぞ! 俺まで連座で腹を切らされる!」という藤吉郎の魂の悲鳴が聞こえてくるようだった。
だが。
信長は腰の刀に手をかけるどころか、怒鳴りつけることすらしなかった。
ただ、少しだけ悲しげな、あるいは人間としての感情を分厚い氷で無理やり塞ぎ込んだような、ひどく冷たい目で俺を見つめ、静かに語りかけた。
「……茂助。貴様は、まだそんな夢のようなことを申すか」
「えっ……」
「一度刀を抜いて背を斬った男が、話し合いで矛を収めると思うか? 情けをかければ、奴らは再び俺の心の臓を狙う。……裏切りの対価は、死。それがこの世の道理よ」
その声には、一切の反論を許さない絶対的な重みがあった。
信長は俺からスッと視線を外すと、誰にも聞こえないほどの吐息を漏らし、そのまま重臣たちに軍議の解散を告げた。
***
軍議が解散した後。
俺は知恩院の渡り廊下の隅で、精根尽き果てたように壁に背を預けてへたり込んでいた。
そこへ、一人の大男がドカドカと重い足音を立てて歩み寄ってきた。前田犬千代だ。
「……茂助、貴様。よく生きて帰ったな! そして……拾った命を早速投げ出したかと思ったわ」
犬千代は、俺のあまりの世間知らずさと、これから待ち受ける過酷な運命を思ってか、不憫そうに太い眉を下げて苦笑した。
「犬千代……様。やっぱり俺、お館様の機嫌を損ねましたかね。今度こそ、手打ちにされますか」
「馬鹿を言え。……むしろ逆だ。お館様は、貴様のその甘さを、昔の自分のように思ってるのかもしれねぇ」
犬千代はドッカと俺の隣に座り込み、秋晴れの高い空を仰いだ。
「お館様も、辛いんだ」
「え……?」
「……茂助。お館様にはかつて、信勝公という実の弟がいたのは知っているだろ?」
いや、知らない。
その名に、俺は首を横に振った。織田家の歴史の裏側など、俺が知る由もない。
「信勝公は、一度お館様を裏切り、反旗を翻した。……だが、お館様は、二人の実母である御前様の必死の願いをうけ、一度は実の弟を許した。話し合い、和解し、再び兄弟として共に織田家を盛り立てていけると信じてな」
犬千代の声は、ひどく重く、悲痛な響きを帯びていた。
「だが、結果はどうだ。信勝公は、許されたその舌の根も乾かぬうちに、再びお館様の首を狙い、二度目の謀反を企てたのだ。……お館様は、血を分けた弟の二度目の裏切りに直面した時、身を裂かれるような思いで悟られた。情けは、相手を侮辱し、さらなる災いと血を招くだけだと。……そして、お館様はご自身の手で、実の弟を斬られたのだ。殺さねばならなかった」
俺は息を呑んだ。
身内同士の話し合い。許し。俺が先ほど広間で口にした軽薄な提案は、信長がとっくの昔に通り過ぎ、そして絶望と共に切り捨てた道だったのだ。
「あの信勝公の一件以来、お館様は誰のことも心の底からは信じぬよう努めてこられた。だが、浅井長政殿だけは特別だったのだ。自慢の妹を託し、本当の弟のように愛しておられた。……その長政殿に、背中から斬りつけられた。その裏切られた痛み、殺さねばならぬ悲しみ。それを一番噛み締めているのは、誰あろうお館様ご自身なのだ」
犬千代は、大きな手で俺の肩をバンと叩いた。
「それを思い出させるようなことを言うのは、もうやめて差し上げろ。あの御方は、人の心を持ったまま、魔王になろうとしておられるのだからな」
犬千代の言葉が、胸の奥底にズシリと突き刺さった。
あぁ、そうだ。ここは二十一世紀の平和な日本じゃない。不倫や親戚の揉め事を家庭裁判所で解決するような世界じゃないんだ。
裏切りは死。報復は殲滅。信長は、自分自身の血を吐くような感情さえも殺して、それを貫こうとしているのだ。俺のような平社員が、口出ししていい領域ではなかった。
「……そうです、よね。……すいません、俺、何も分かってなくて……出過ぎたことを言いました」
俺は力なく、犬千代に頭を下げた。
そんな俺の頭を、犬千代は大きな手でポンと荒っぽく撫でた。
「気にするな。……だがな、茂助よ。あの方は、貴様が恐れているような、血も涙もない化け物ではない。冷酷な魔王であろうとしながらも、その心の底には、捨てきれぬ人の優しさがある御方なのだ」
「え……?」
俺は顔を上げ、犬千代の目を見た。犬千代は、遠くで本陣の片付けに追われる兵たちを細めた目で見つめながら、静かに語り継いだ。
「先ほど話した、お館様がご自身の手にかけられた信勝公。……あの方には、幼いお子がおられたのだ」
「子供……」
「そうだ。戦国の習いであれば、親が謀反を起こして処刑されたとなれば、将来の禍根を断つために一族郎党、幼子であろうと連座で処刑されるのが常識だ。情けをかけたとしても、仏門に入れて一生寺から出さぬようにするのが関の山だ」
犬千代はそこで言葉を区切り、深く息を吐き出した。
「しかし、お館様はどうされたと思う? ……その幼いお子を、筆頭家老である柴田のオヤジ殿に預け、立派な『織田の一門衆』として養育するよう命じられたのだ。ご自身の命を二度も狙った怨敵の血筋を、自らの庇護下で真っ直ぐに育てようとしておられるのだ」
「……!」
俺は息を呑んだ。
裏切った弟を自ら処刑するという非情。しかし、その遺された子供の命を奪うことはできず、あろうことか身内として手元で育てるという不器用な情愛。
「お館様は、ご自身の弱さを誰よりも知っておられる。だからこそ、二度と身内に裏切られぬよう、あえて冷酷無比な魔王として振る舞い、誰もが恐れる恐怖の象徴になろうとされている。……今回の浅井の裏切りも、その氷の仮面の下で、あの方がどれほどの血涙を流しておられるか。俺たち古参の家臣には、痛いほど分かるのだ」
犬千代はそう言って立ち上がり、「休める時に休んでおけよ」とだけ言い残して、重い足取りで去っていった。
残された俺は、冷たい渡り廊下の壁にもたれたまま、しばらく動くことができなかった。
(そうか……。俺は、ずっとあの人のことをパワハラ気質のサイコパスだと思ってたけど)
自分の家族を殺さなければならなかった絶望。
愛する妹を嫁がせた義弟に裏切られた悲哀。
そして、それらの感情を一切表に出さず、「死には死を」という冷酷な決断を下し続ける孤独。
織田信長という男は、俺が考えていたような単純なゲームのボスキャラではない。
戦国という狂った時代で、誰よりも傷つき、血塗れになりながら、それでも己の業を背負って前に進もうとしている一人の人間なのだ。
(……浅井との戦は、絶対に行われる。もう、誰も止められない)
せっかく越前の地獄から逃げ帰ってきたのに、次はさらに大きな地獄――浅井・朝倉連合軍との、復讐と血にまみれた正面衝突の殲滅戦が待っている。
そこには、あの真柄十郎左衛門のような理不尽な質量のバケモノが、今度は「逃げ」の許されない戦場で待ち構えているのだ。
俺は、震える手で自分の膝を抱え込んだ。
魔王の背負う悲哀と、これから訪れる本当の地獄の重圧。
京の青空は底抜けに明るかったが、俺の心には、どこまでも冷たくて暗い影が落ちていた。
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