第115話 朽木谷の安堵と、琵琶湖の日の出
小一郎を背負い、決死の覚悟で崖のような獣道を登り切った俺は、草むらに仰向けに倒れ込み、しばらくの間、ただ荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
冷たい雨雲が嘘のように晴れ渡り、東の空から差し込む黄金色の朝日が、泥だらけの俺たちを暖かく包み込んでいく。
「若、よくぞご無事で……!」
足軽に肩を貸された三太夫が近づいてくる。但馬や氏光も、疲労困憊ながらもホッとした顔をしてその場に座り込んでいた。
俺たちが抜け出した先は、越前と近江の国境に位置する要衝『朽木谷』だった。
だが、完全に安堵するのはまだ早い。この地を治める領主・朽木元綱が、裏切った浅井や朝倉側についていれば、俺たちはこの出口で一網打尽にされてしまう。
俺が重い体を起こして警戒を強めようとした、その時だった。
「――やれやれ。随分と遅い到着であったな、木下殿、明智殿、徳川殿。待ちくたびれたぞ」
尾根の先、少し開けた麓の方から、飄々(ひょうひょう)とした、どこか人を食ったような声が響いた。
声の主を見て、藤吉郎や光秀が大きく目を見開いた。
そこにいたのは、多くの兵を従え、悠然と馬に跨る初老の男。……かつて京の裏庭で一緒にサボった「ボンバーマン」こと、松永久秀その人だったのだ。
「松永殿! なぜ貴殿がここに……!?」
光秀が驚きの声を上げる。
「お館様は一足先に無事、京へと抜けられた。ワシは貴公らを迎えに参ったのだ。……安心せい。ここはもう、我ら織田の絶対の安全地帯よ」
松永久秀のその一言で、殿部隊の兵たちの間に、どよめきにも似た歓声が上がった。
朝倉の数万の大軍、規格外のバケモノである真柄十郎左衛門、そして三千の山賊衆の包囲。数々の絶望的な死線を潜り抜け、ついに俺たちは生還という名のゴールテープを切ったのだ。
「松永様……!」
俺は思わず、フラフラと歩み寄って声をかけてしまった。
久秀は馬の上から俺を見下ろすと、その鋭い目を丸くした後、シワくちゃの顔を綻ばせてニヤリと笑った。
「ほう。泥にまみれておるが、その無駄にデカい図体……京の陣で会った、あの小僧か! こんな地獄の殿から、よくぞ生き延びてきおったな!」
「へへっ……お陰様で。爆死する前に会えてよかったです」
「カッカッカ! 相変わらず口の減らん男だ! その図太さがあれば、この戦国の世も案外長生きするかもしれんな!」
久秀は腹を抱えて笑い、俺たちの泥臭い生還を心から歓迎してくれた。
ボンバーマンと名高い男だが、こうして見るとやはり、話の通じる気さくなお爺さんである。
「助かった……本当に、終わったんだ……」
俺の目から、自然とボロボロと涙がこぼれ落ちた。泥で汚れた顔を拭う気力もなく、ただ咽び泣いた。
***
休む間もなく、松永久秀の案内で朽木谷の関所を越える。
やがて、山を抜けた俺たちの目の前に、信じられないほど広大で、美しい景色が広がった。
日本最大の湖、琵琶湖だ。
鏡のように穏やかな水面が、昇り切った朝日の光を反射して、黄金色にキラキラと輝いている。背後の越前の山々を包んでいた冷たい雨と泥の地獄が、まるで別世界の悪夢だったかのように、そこにはただ静かで雄大な朝の風景が広がっていた。
「……美しいな」
湖畔の小高い丘の上。明智光秀が、火縄銃を杖代わりにしながら、無言で水面を見つめて呟いた。
その隣には、傷だらけの甲冑を鳴らして立つ徳川家康。そして、泥だらけの陣羽織を風に揺らす木下藤吉郎。
本来なら立場も派閥も全く違う三人の将が、今はただ肩を並べ、無言で同じ朝日を見つめている。彼らの背中からは、言葉以上の深い安堵と、この地獄を共に生き抜いたという奇妙な連帯感が漂っていた。
「ええ。生きて見る朝日は、これほどまでに美しいものなのですね」
家康が、深く息を吐き出しながら静かに応えた。
その光景は、戦国時代という残酷な世界において、一枚の絵画のように神々しく俺の目に焼き付いた。
「茂助様……」
ふと、背後からおずおずと声をかけられた。
振り返ると、そこには泥だらけの少年……京の河原で出会い、山賊の包囲から俺たちを救ってくれた捨吉が立っていた。
「おう、捨吉。お前も無事だったか」
俺は痛む体を無理やり動かして立ち上がり、少年の前に歩み寄った。
「あのさ、山賊の時は本当に助かったよ。お前がいなかったら、俺たち全員あの山で串刺しにされてたわ」
「い、いえ! 俺は、茂助様に命を救われた恩を返しただけで……。あの、俺、勝手についてきちゃったから……京に帰りますね。じいちゃんも心配してるだろうし」
捨吉が、どこか寂しそうな顔をして踵を返そうとした。
俺は、その小さな肩をガシッと掴んだ。
「ちょっと待てよ。お前、帰ってどうするんだ? また河原でドブさらいみたいな仕事するのか?」
「えっ? いや、それは……俺の家業ですから……」
「そんな仕事、もうしなくていい」
俺はニヤリと笑って、捨吉の顔を真っ直ぐに見下ろした。
「お前、あんな三千の山賊相手に堂々とハッタリかまして、見事に交渉の道を切り開いたじゃねえか。その度胸と機転とコネ、ただのフリーターにしておくには惜しすぎる」
俺は腰に下げていた、折れた刀の柄をポンと叩いた。
「今日からお前は、正式な俺の家臣だ。堀尾組の捨吉として、俺と一緒にこのでっかい戦国を生き抜いてみねえか? 美味い飯なら、俺がいくらでも食わせてやる。……それにお前なら、もう足軽に蹴られるようなこともなくなるぜ」
捨吉の目が、みるみるうちに大きく見開かれた。
戦国の世において、河原の穢れ仕事をしている者が武士の家臣に取り立てられるなど、普通ならあり得ない身分違いの出世だ。だが、ここは完全実力主義の堀尾組。役に立つ度胸とコネがあるなら、身分も素性も関係ない。
「も、茂助様……! 俺なんかが、本当にいいんですか……!?」
「俺なんかが、じゃねえよ。俺が、お前にいてほしいって頼んでるんだ」
捨吉の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼は泥だらけの地面に両膝をつき、声を上げて泣きながら、深く深く頭を下げた。
「はい……っ! 捨吉、この命に代えても、一生茂助様にお仕えいたします……っ!」
俺は、泣きじゃくる捨吉の頭を、乱暴に、だが優しく撫で回した。
小一郎の命を繋ぎ、強力な裏社会のコネを持つ捨吉を正式な仲間に引き入れた。
金ヶ崎の退き口という絶望のドン底で、失ったものや味わった恐怖は計り知れないが、俺が得たものも確かにあったのだ。
黄金色に輝く琵琶湖の日の出を背に、俺の異世界サバイバルは、ここから新たな局面へと足を踏み入れようとしていた。
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