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第114話 小一郎の限界と、泥の背中

 猿飛仁助率いる三千の山賊衆をまるごとスカウトするという、前代未聞のウルトラCを決めた俺たち殿しんがり部隊。


 仁助が案内してくれた『朽木谷へ抜ける秘密の獣道』は、確かに朝倉の追撃部隊や伏兵の目を完全に欺くことができる、山の者しか知らない裏ルートだった。

 だが、それは同時に人間が歩くことを想定していない道であることも意味していた。


「はぁっ……! ぐっ……! なんだよこの道、ほとんど崖じゃねえか……!」

 俺は泥濘ぬかるみに両手をつき、四つん這いになりながら急斜面を這い上がっていた。


 獣道というより、獣が通ってできただけの土の壁だ。雨を含んでドロドロになった腐葉土が容赦なく体力を奪い、一歩進むごとに足がズルッと滑り落ちそうになる。


 三河武士たちも、明智の鉄砲隊も、そして俺たち木下組も、すでに口をきく気力すら残っていなかった。真柄十郎左衛門との死闘、そして山賊三千との対峙で限界まで張り詰めていたアドレナリンが切れ、純粋な疲労と筋肉の悲鳴だけが体を支配している。


 負傷している三太夫と氏光には、元気な足軽たちが両脇から肩を貸して必死に引きずり上げている状態だった。

 そんな地獄の強行軍が数時間続いた、その時だった。


 ――バシャッ。

 俺の少し前を歩いていた人影が、糸の切れた操り人形のように、泥の中へ前のめりに倒れ込んだ。


「……小一郎様!?」

 俺は慌てて這い上がり、倒れた小一郎の体を抱き起こした。

 小一郎の顔は、泥と雨にまみれ、まるで死人のように青白かった。荒い息を吐き、焦点の定まらない目で虚空を見つめている。


「お、おいしっかりしろ! 小一郎様! 誰か、水筒の水を!」

「吉晴殿! 小一郎様がいかがなされました!」

 異変に気づき、但馬が血相を変えて駆け寄ってくる。


 足軽に肩を貸されていた三太夫も「若! どうしやした!」と声を上げた。前方を行く藤吉郎も足を止め、心配そうにこちらを振り返る。


「も、茂助……殿……」

 俺の腕の中で、小一郎が弱々しく唇を動かした。

「申し訳、ありませぬ……。もはや、足の感覚が……一歩も、動きませぬ……」

 俺は奥歯を噛み締めた。


 無理もない。小一郎は、三太夫のような武闘派でもなければ、俺のような恵まれた巨体を持っているわけでもない。ただでさえ体力が低いのに、彼はこの金ヶ崎の退き口において、誰よりも無理を重ねていたのだ。


 殿を務めるにあたっての物資の計算、火薬の配分、負傷兵の数の把握、さらには他部隊との連携や交渉事。藤吉郎が前線で指揮を執り、俺が現場で罠を作っている間、木下組の『兵站と実務』という一番重くて胃の痛くなる裏方の仕事を、彼はたった一人で不眠不休で回し続けていたのだ。

 肉体的な疲労に加え、実務による精神的過労。彼のキャパシティは、とうの昔に限界を突破していた。


「……茂助殿。私を、ここに置いていってくだされ」

 小一郎が俺の腕を弱々しい力で押し返そうとした。

「はあ!? 何言ってんだあんた!」

「この急斜面で、動けぬ者を抱えて進めば……皆が共倒れになります。朝倉の追撃を躱したとはいえ、いつ見つかるか分からぬ状況。……一人のために、部隊の足を止めるわけにはいきませぬ」

 小一郎は、泥だらけの顔に無理やり微笑みを浮かべた。


「兄者を……どうか、無事に京へ連れ帰ってくだされ。私はここで、少し休んでから……」

 それは、明らかな嘘だった。こんな冷たい雨の降る山中で、体力の尽きた者が一人取り残されれば、待っているのは凍死か、獣の餌になるか、それとも名もなき落ち武者狩りに殺されるかの三択しかない。


 彼は、木下組を、そして実の兄である藤吉郎を生かすために、自らを切り捨てる覚悟を決めたのだ。

 戦国の世では、足手まといを置いていくのは常識だ。情けをかければ全員が死ぬ。

 それは頭では分かっている。分かっているが――。


「……ふざけんなッ!!」

 俺の怒声が、雨の降る山中に響き渡った。

 集まっていた足軽たちが、ビクッと肩を震わせる。


「馬鹿野郎! お前がいなきゃ誰が書類仕事やるんだよ!!」

 俺は、小一郎の襟首を掴んでガクガクと揺さぶった。


「戦の後の被害報告! 武器の修繕費の計算! 恩賞の割り振り! 信長様への提出書類の作成! あの地獄みたいなデスクワークを、全部俺にやれってのか!? 俺は絶対に嫌だからな!!」

 それは、武士としての立派な矜持でも何でもない、面倒な仕事の押し付け合いの理屈だった。

 だが、それが俺の、俺たち木下組の偽らざる本音だった。


「小一郎様がいなきゃ、木下組の経理は一日で崩壊するんだよ! あんたはただの兵隊じゃない、うちの心臓部だろ!」

「も、茂助殿……しかし、私の足はもう……」

「足が動かねえなら、俺が運ぶ!!」

 俺は小一郎の手を強引に引き寄せると、その体を己の広い背中におぶさるようにして背負い上げた。


「ぐっ……おもっ……」

 大人の男一人。水を含んだ甲冑。その重量が、疲労困憊の俺の足腰にズシリと重くのしかかる。だが、現代日本の豊かな栄養で育った俺の巨体と筋力は、こういうときのためにあるのだ。


「も、茂助殿! やめてくだされ、貴方まで倒れてしまいます!」

 背中で小一郎が必死に抵抗するが、俺は太ももの裏で両足をガッチリとホールドし、決して下ろそうとはしなかった。


「うるせえ! 俺はまだいける! ……但馬! 後ろから押せ! 三太夫たちはそのまま進め!」

「承知いたしました、吉晴殿! この但馬の渾身の力、とくとお頼りくだされ!」

 俺の剣幕に押され、但馬が真面目くさった顔つきで俺の腰のあたりを後ろから力強く押し上げる。


「さあ、行くぞ! 舌噛まないようにしっかり捕まってろよ、小一郎様!」

 俺は歯を食いしばり、泥にブーツを深く突き立てて、再び崖のような急斜面を登り始めた。


 ――重い。圧倒的に重い。

 一歩足を踏み出すたびに、太ももの筋肉がブチブチと千切れそうな悲鳴を上げる。息はすぐに上がり、肺が焼けるように熱い。雨と汗が混ざって目に入り、視界が滲む。


(……くそっ、なんで俺がこんな目に……!)

 心の中で悪態をつきながらも、俺の足は止まらなかった。

 俺が戦国時代に放り出されてから、何度も死にかけて、何度も絶望してきた。その度に、この背中にいる小一郎の冷静な計算と、気配りと、書類仕事のフォローにどれだけ助けられてきたか分からない。


 彼が夜遅くまで墨をすり、竹簡や和紙に向かって帳簿をつけていた姿を、俺は知っている。彼がいなければ、藤吉郎の出世も、俺のサバイバルも、とっくに破綻していたのだ。


「……茂助、殿……」

 背中から、小一郎の震える声が聞こえた。

「……すまぬ。……すまぬ……!」

 ポタポタと、雨とは違う温かい滴が、俺の首筋に落ちてきた。


「謝るな! 京に着いたら、美味い飯奢ってもらうからな! それと、借金も帳消しな!!」

 俺は息も絶え絶えになりながら、強がって笑い飛ばした。


「ははっ……承知、いたしました。」

 小一郎が、俺の背中にしっかりと顔を埋める。

 一歩、また一歩。

 泥をすくい、木の根を掴み、ただひたすらに前へ、上へと進む。


 カッコいい剣術も、天才的な軍略も、ここにはない。ただ、仲間を一人も死なせないという執念と、現代人の無駄にデカい体格だけを武器にした、泥臭すぎる行軍。


「若! もうすぐですぜ! 上が開けてきやした!」

 前方を歩く足軽に肩を貸されながら、三太夫の声が響いた。

 顔を上げると、鬱蒼とした木々の切れ間から、薄明るい空の光が差し込んでいるのが見えた。


「うおおおおぉぉぉぉッ!!」

 俺は最後の力を振り絞り、雄叫びを上げながら、ドロドロの斜面を一気に駆け上がった。

 視界が、パッと開けた。


 獣道の出口。そこは、木々が切り払われた山の尾根だった。

 冷たい雨はいつの間にか上がり、分厚い雲の隙間から、黄金色の朝日が差し込み始めていた。


「……着いた……登り切ったぞ……!」

 俺は小一郎を背負ったまま、膝から崩れ落ちるようにして、尾根の草むらに倒れ込んだ。肺いっぱいに冷たい空気を吸い込む。


「よくやった、茂助! 小一郎!」

 先に尾根に到達していた藤吉郎が、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして駆け寄り、俺と小一郎の肩を力強く抱きしめた。


「茂助、俺の自慢の弟を見捨てず、よくぞここまで背負ってきてくれた! お前ももう、俺の本当の家族同然だ! よくぞ二人とも、生きて登り切ってくれた!」

 俺は仰向けになりながら、ぜぇぜぇと荒い息を吐き、朝日に照らされる空を見上げた。


 背中と足の筋肉は完全に死に絶え、一歩も動けそうになかったが、俺の心の中には、金ヶ崎から逃げ続けてきて初めての、確かな達成感と生存への実感が満ち溢れていた。

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