第113話 猿飛仁助と、捨吉の恩返し
本多忠勝という無傷の猛将の加勢により、真柄十郎左衛門の理不尽な暴力から九死に一生を得た俺たち殿部隊。
だが、休む間もなく続く山中行軍は、兵たちの体力と気力を限界まで削り取っていた。
(……はぁっ、はぁっ……! 泥が、重い……)
俺は泥濘に足を取られそうになりながら、必死に前の兵の背中を追っていた。
目指すは、近江と越前の国境付近にある『朽木谷』。そこを抜ければ、ひとまずは安全圏だ。
――ガサガサガサッ!!
突然、周囲の鬱蒼とした木々の隙間から、無数の殺気が膨れ上がった。
「……止まれッ!!」
先頭を歩いていた光秀が、鋭い声で歩行を停止させる。
ビクッと肩を震わせて周囲を見渡すと、斜面の上や草むらの陰から、泥にまみれた薄汚い男たちが次々と姿を現した。その手には、錆びた刀や血に濡れた竹槍、無数の弓が握られている。
「ヒャハハハッ! 随分と上等な甲冑を着た獲物が、ゾロゾロと歩いてきやがるぜ!」
山賊衆の中から、一際大柄で、顔に醜い傷跡のある男がせせら笑いながら前に出てきた。
「俺は猿飛仁助様。この山の主だ。さぁて、大人しく身ぐるみ置いていくか、ここで首を置いていくか。選ばせてやるよ、お侍様たち」
「……落ち武者狩りか」
光秀が、忌々しそうに湿った火縄銃を握り直す。
俺は血の気を引かせながら、周囲を取り囲む山賊たちの数を数えた。ざっと見て数百人。
「木下殿、徳川殿。……数は数百。地の利は向こうにあるが、相手は烏合の衆だ」
光秀が小声で耳打ちする。
「ええ。我らは満身創痍とはいえ、歴戦の兵。陣形を組んで強行突破すれば、切り抜けられる数です」
家康も低い声で同意し、藤吉郎も無言で頷く。
武将たちの間に「犠牲を覚悟した強行突破」の緊張感が走る。
(やばい! 無理に戦えば、一番弱い最後尾の俺たちが真っ先に囮にされるぞ!)
俺が絶望でへたり込みそうになった、その時だった。
「お待ちください!! 撃たないでください!!」
俺の背後、木下組の荷物の中から、小柄な人影が勢いよく飛び出した。
「えっ……?」
俺の前に立ちふさがったのは、かつて京の鴨川で助け、逆に俺の命を救ってくれた河原者の少年、『捨吉』だった。
「捨吉か!? なんでこんな所にいるんだよ!」
「も、茂助様が戦に行くと聞いて心配で、こっそり荷車に隠れてついてきちゃいました……!」
「バカヤロウ! ここは死地だぞ、早く後ろに隠れろ!」
慌てて襟首を掴もうとしたが、捨吉は俺の手をすり抜け、猿飛仁助に向かって深々と頭を下げた。
「仁助の親分さん! ご無沙汰しております。京の捨吉です!」
「……あん? なんだお前、ただの薄汚ねえガキじゃねえ……か……?」
仁助が訝しげに目を細め、捨吉の顔を覗き込んだ。その直後。
「――っ!?」
仁助は大太刀を放り投げると、泥だらけの地面に両膝をつき、捨吉に向かって深く頭を下げたのだ。
「ま、まさか……京の河原者の大親分様の、お孫さんの!?」
「はい、その捨吉です。どうか俺の命の恩人である茂助様と、このお侍様たちを見逃していただけませんか」
(はぁぁぁぁっ!?!?)
俺は目玉が飛び出そうになった。
気まぐれで助けたあの少年が、裏社会の頂点に君臨する大ボスの孫!?
「こ、これはこれは捨吉様! こんな泥だらけの山中で、一体何をなされておいでで……!?」
山の無法者である猿飛仁助が、冷や汗を流しながら這いつくばっている。
(……待てよ。この流れ、いける!)
俺は持ち前の図々しさをフル回転させ、コホンと咳払いを一つして捨吉の隣へと進み出た。
「そ、そうだ、仁助とやら! 捨吉の言う通りだ!」
俺は冷や汗をかいている仁助を見下ろし、ヤケクソのハッタリをかました。
「お前たち、こんな山の中で落ち武者を狩る生活がいつまで続くと思っている? ……そんなケチな泥棒稼業、今日で終わりにしろ」
「な、なんだと……?」
俺は、背後にいる藤吉郎と家康を指差した。
「そこにいるお方は、織田家の家臣、木下藤吉郎秀吉様と、三河の徳川家康様だ! いずれこの日ノ本を丸ごと手に入れる、『天下人』になるお方だぞ! どうだ、お前らも俺たちと一緒にデカい夢に乗ってみねえか!?」
(こいつは天下を取ったあの『豊臣秀吉』じゃねえけど、同じ『秀吉』って名前だしいいだろ! 数の不利を覆して相手をビビらせるには、歴史上のビッグネームのハクを勝手に借りてハッタリかますしかない!)
俺は完全に「その場しのぎの口から出まかせ」の精神で叫んでいた。
「親分さん、茂助様は俺の大事な恩人なんです! どうか、お願いします!」
捨吉も深く頭を下げる。
静寂が下りた。
「夢……か」
仁助はゆっくりと立ち上がり、俺と捨吉、そして後ろにいる藤吉郎の顔をマジマジと見つめた。
そして。
「……ハッ。ヒャハハハハッ!」
猿飛仁助が、腹を抱えて大笑いした。
「落ち武者狩りをしようとしたら、逆に勧誘されるたぁ、初めての経験だ! ……天下の親分様の孫が惚れ込むのも分かる。あんたら、最高にイカれた度胸してやがるぜ!」
仁助は右手を天に向かって突き上げ、指笛を鋭く吹き鳴らした。
――ザザザザザッ!!
「……なっ!?」
光秀や家康、藤吉郎が一斉に息を呑んだ。
指笛の音と共に、周囲の山肌、森の奥深く、崖の上から、地鳴りのような足音を立てて無数の男たちが姿を現したのだ。
森そのものが蠢いているような、圧倒的な軍勢。見えていた数百人は、ただの氷山の一角だった。
「我ら、猿飛仁助率いる山賊衆……総勢『三千』!!」
大名が率いる正規軍にも匹敵する、絶望的な規模の大部隊。
真っ青になる将たちの前で、猿飛仁助は藤吉郎に向かって力強く片膝をついた。
「これより山賊稼業から足を洗い、我ら三千の兵、木下藤吉郎様にお仕え申す!!」
「えっ……!?」
「「「!?」」」
光秀と家康が、畏怖の混じった視線を藤吉郎に向けた。
死にかけの殿部隊が、逃走の最中に敵地のど真ん中で、まるまる三千の私兵をスカウトしてしまったのだ。
「我ら猿飛一族が、山の者しか知らぬ秘密の獣道をご案内いたしましょう!」
「お、おお……! よ、よくぞ申した仁助! この藤吉郎、お前たちを必ずや大出世させてやるぞ!」
藤吉郎も持ち前の図太さですぐに立ち直り、力強く頷いた。
「よかったですね、茂助様!」
「お、おう……。お前が勝手についてきた時はぶん殴ってやろうかと思ったが……マジで命拾いしたわ……」
俺は腰が抜けそうになるのを必死に堪えながら、かつて俺の命を救ってくれた義理堅い少年の頭を撫で回した。
「……天下人、か」
藤吉郎が、何かをぽつりと呟いた。
あまりにも小さな声。
「ん? 藤吉郎様、今なんか言いました?」
俺が振り返った時には、藤吉郎はいつもの人懐っこい笑みを浮かべていた。
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