第112話 最恐と、最強
――死ぬ。
目を固く閉じ、泥の中にへたり込んだ俺の脳裏を、その一文字だけが支配した。
上段から振り下ろされる五尺三寸の巨大な鉄塊、『太郎太刀』。
だが、その死の風圧を肌で感じた瞬間、俺の中の泥臭い生存本能が爆発した。
(……ふざけんな! ここまで泥水すすって必死に生き延びてきたのに、こんなとこでタダで斬り殺されてたまるかよ!)
俺はカッと目を見開いた。
「いや、まだ諦めねーぞォォッ!!」
俺は振り下ろされる太刀など完全に無視し、死に物狂いで泥を蹴った。そして、己の巨体のすべてを弾丸にして、真柄の丸太のような太腿めがけて決死のフルタックルをぶちかました。
「ぬっ……!?」
ただ怯えて首を落とされるだけだと思っていた鼠が、捨て身の体当たりを仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。不意を突かれた真柄の巨体が、ほんのわずかにぐらりと揺れた。
その結果、振り下ろされた太郎太刀の死の軌道とタイミングが、コンマ数秒だけズレる。
その、刹那の時間。
ガアァァァァァァンッッ!!!
俺の頭が割れる代わりに、耳をつんざくような凄まじい金属の激突音が、越前の森を揺らした。
強烈な衝撃波が巻き起こり、周囲の泥水が円状に吹き飛ぶ。俺はタックルした勢いのまま、泥の中へ無様に転がり込んだ。
「……え?」
痛みが、ない。
俺が恐る恐る振り返ると、俺を両断するはずだった真柄の『太郎太刀』が、空中でピタリと停止していた。
巨大な笹の葉のような、美しくも鋭い刃を持つ大槍によって、下から強引にカチ上げられ、受け止められていたのだ。俺の決死のタックルが生み出した僅かなタイムラグがなければ、間違いなく間に合っていなかったタイミングだった。
「……ここから先は、我ら三河衆が引き受ける。尾張の木下殿らは、速やかに後方へ下がられよ!」
雨を切り裂くような、若く、しかし異常なまでの覇気を孕んだ声だった。
俺と真柄の間に割って入ったその男の背中は、決して真柄のような規格外の巨人ではない。だが、漆黒の甲冑に身を包み、兜に天を突くような立派な『鹿角の脇立』をそびえさせたその姿は、圧倒的に巨大に見えた。
「本多……平八郎……!」
息も絶え絶えになっていた三太夫が、血を吐きながらその男の名を呼んだ。
(本多平八郎……本多忠勝?)
俺は泥だらけの頭で、必死に現代の記憶を掘り起こした。歴史の授業は寝ていた俺だが、ネットサーフィンで得た無駄知識の引き出しが勢いよく開く。
(本多忠勝? なんか聞いたことあるぞ? ……もしかして、あの『ホンダム』か!? 生涯無傷を誇る戦国最強のサイボーグ武将とか言われてる奴! こいつ知ってるぞ!!! 『戦国武将最強ランキング』のまとめスレで見たことある!!!)
浅すぎるオタク知識の点と点が繋がり、俺の顔にパッと希望の光が差した。
戦国最強のバケモノに襲われているところに、まとめスレで最強と名高いバケモノが助けに来てくれたのだ。
「ほう……?」
自分の渾身の振り下ろしを止められた真柄が、驚きと歓喜の入り混じったような酷薄な笑みを浮かべた。
「俺の太刀を、下から受けて押しとどめるか。……ただの小柄な鼠かと思えば、三河には随分と骨のある若造がいるらしいな」
「若造で結構。だが、この『蜻蛉切』の前では、その図体のデカさも的が大きくなるだけのことに過ぎん!」
忠勝が、気合いと共に大槍を弾き返した。
ギギィィィンッ! と火花が散り、あの真柄の巨体が、後方へと押し戻される。
「茂助殿! 今のうちに!」
その隙を突き、後方から駆けつけてきた小一郎や木下組の連中が、泥の中に倒れていた俺の腕を引っ張り上げた。さらに彼らは、負傷した三太夫たちを両脇から抱え起こし、死地から引きずり出す。
「お、おい、忠勝様を一人で残して大丈夫なのか!?」
俺が震える足で後退しながら叫ぶと、後方から重々しい甲冑の足音が無数に響いてきた。
「一人ではない! 平八郎の背中は、我ら三河武士が守る!」
槍を構え、雨と泥に塗れながら駆けつけてきたのは、徳川軍の精鋭たちだった。
彼らは俺たちとすれ違うように前へ出ると、忠勝の背後にズラリと横一列に並び、幾重にも重なる堅牢な『槍衾』を構築した。
それが、家康の軍勢……三河武士の誇る絶対防御の盾だった。
「……ククッ、ハハハハハッ!!」
真柄十郎左衛門が、雨空に向かって腹の底から響くような哄笑を上げた。
「良い! 実に良い! 小細工ばかりの鼠の群れかと思っていたが、ようやく戦ができそうな武辺者が現れたわ!」
真柄が、太郎太刀を再び上段に構え直した。その殺気が、周囲の雨を弾き飛ばす。
「本多平八郎忠勝! いざ、推して参る!!」
忠勝もまた、大槍を中段に構え、雷のような裂帛の気合いと共に踏み込んだ。
激突。
それは、もはや人間同士の戦いというより、怪獣映画のワンシーンだった。
ガガァァァンッ!! ギィィィンッ!!
七尺の巨人が振るう大太刀と、漆黒の猛将が振るう大槍が交差する。一撃ごとに爆発のような音が森に響き渡り、真柄の太刀が木を薙ぎ倒し、忠勝の槍が泥をえぐり飛ばす。俺のような凡人が間合いに入れば、一瞬でミンチにされるであろう超次元の暴風域。
(すげえ……まとめスレの情報はマジだったのか……!)
俺は後方へ下がりながらも、その圧倒的な死闘から目を離すことができなかった。
だが、忠勝の武勇は確かに人間離れしていたが、真柄の理不尽な質量は、依然として脅威であり続けていた。打ち合うたびに、忠勝の足が僅かに泥に沈んでいくのが分かる。
「どうした若造! その程度か!」
真柄が、太郎太刀を大風車のように振り回し、忠勝の防御を力任せに削りにかかる。
しかし、その時だった。
「そこまでだ、真柄十郎左衛門!!」
槍衾を構えた三河武士の列が割れ、その後方から、馬に跨った徳川家康が姿を現した。その後ろには、多くはないが徳川の鉄砲隊がズラリと真柄に狙いを定めて展開している。雨の勢いが弱まり、火縄の火が再び灯っていたのだ。
発射できるかどうかは賭けである。
「これ以上深追いすれば、貴様は我ら徳川の本軍と正面からぶつかることになるぞ。……朝倉の猛将よ、お前はそれでも一人で戦うか」
家康の低く、凄みのある声が響き渡った。
真柄は、太郎太刀を肩に担ぎ、ピタリと動きを止めた。
その狂気に満ちた眼球が、忠勝を、家康を、そして俺たち木下組の残党を値踏みするようにギョロリと見回す。単騎駆けの状況で、統率の取れた徳川本軍の鉄砲隊と、本多忠勝を同時に相手にするのは、完全な悪手だ。
「……チッ。興を削がれたわ」
真柄は、忌々しそうに血の混じった唾を泥濘に吐き捨てた。
「三河武士……なるほど、噂通りの強盾よ。平八郎とか言ったな、その槍の重さ、記憶に留めておいてやろう」
真柄はゆっくりと背を向け、霧が立ち込める森の奥へと歩き出した。
「だが、この首の取り立ては、また必ず来させてもらう。……首を洗って待っておれ、織田と徳川の鼠ども」
不敵な捨て台詞を残し、真柄十郎左衛門の巨体は、雨音と共に森の深部へと消えていった。
「……退いたか」
忠勝が、ゆっくりと槍を下ろし、深く息を吐き出した。
その後ろ姿を見て、俺は背筋が寒くなった。無傷のホンダムが持つ大槍の柄が、真柄の攻撃を受け止めた衝撃で、かすかに湾曲していたのだ。
「忠勝様……家康様……」
俺は、泥だらけのまま、震える声で彼らに呼びかけた。
「ありがとうございます。俺たちのために、わざわざ……」
「礼には及ばん。殿の務めは、三軍が連動してこそのものだ」
家康は馬の上から冷静にそう告げた。
「茂助殿」
忠勝が振り返り、兜の奥から鋭い眼差しを俺に向けた。
「あの化け物相手に、退かずに懐へ飛び込んだ胆力。貴殿のその決死の一撃がなければ、俺の槍は間に合っていなかったかもしれん。見事であった」
「……はい」
俺は力なく頷いた。
あの時、俺が勇気を振り絞ったからこそ繋がった命。
だが同時に痛感した。俺が小細工でどれだけ足掻こうとも、この戦国の世には、あの真柄や忠勝のような、俺の規格を遥かに超えた「本物の化け物」たちがうごめいているのだと。
「休んでいる暇はないぞ! 今のうちに一気に山を越える! 負傷者に肩を貸せ!」
藤吉郎の檄が飛び、殿部隊は再び重い腰を上げて行軍を再開した。
俺は氏光に肩を貸し、再び泥の山道へと足を踏み出す。まとめスレの知識が現実に変わるこの狂った世界で、俺のサバイバルはまだまだ続くのだった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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