第111話 絶望の狂刃・真柄十郎左衛門
時は少し遡る。
まだ織田軍が意気揚々と越前へ侵攻を開始し、浅井軍の裏切りなど夢にも思っていなかった、行軍途中のある日のことだ。
「――朝倉軍には、『真柄』という規格外のバケモノがいるらしいぞ」
馬を引く足軽たちの間で、そんな噂が囁かれているのを耳にした。
なんでも、身の丈は七尺を超え、普通の人間なら持ち上げることもできない巨大な大太刀を、まるで木の枝のように片手で振り回すのだという。
(……俺が180センチ弱で六尺ぐらいって言われたから、七尺って210センチ以上!? ありえねぇな)
その話を聞いた時、俺は鼻で笑いながら、隣を歩く小一郎様にこう言った。
「小一郎様、あの噂聞きました? 盛りすぎにも程がありますよね。だいたい七尺なんて、現代でも殆どいないってのに、バレー選手やNBA選手じゃあるまいし」
戦国時代における成人男性の平均身長は150センチ台後半ぐらいかな見た感じ。
そんな世界において、自分の身長は性格には忘れちゃったけど、その俺の肉体は、文字通りの巨人だ。
どこへ行っても驚かれ、見上げられ、物理的な威圧感だけで何度もピンチを切り抜けてきた。
(信長様もかなりデカいけど、俺よりデカい人間なんて、この時代にいるわけがない。どうせ、デカい男を見たことない奴が大げさに吹聴してるだけだろ)
俺は、自分の体格を絶対的なアドバンテージだと思い込み、完全に高を括っていた。
だが、その様子を見ていた軍師の竹中半兵衛が、静かに首を振った。
「茂助殿。真柄十郎左衛門直隆の武勇は、決して誇張ではありません。あれは、人間の皮を被った暴力の権化です」
半兵衛が語る真柄の伝説は、あまりにも浮世離れしていた。
愛刀『太郎太刀』は刃長だけで五尺三寸(約175センチ)。
普通の武士の背丈より長いその太刀を一閃すれば、人馬もろとも兜ごと真っ二つに両断される。足利義昭公の御前でその大太刀を軽々と振り回してみせた時、居並ぶ諸将は恐怖で震え上がったと光秀から聞いたと半兵衛が言った。
「……ま、もし本当にいたとしても、俺たちが戦うわけじゃないですからね。俺は後ろで荷物運んでるだけだし」
その時の俺は、そう言って適当に話を切り上げた。まさか、その特異点と呼ぶべき傑物が、俺の命を刈り取りに現れるとは思いもせずに。
***
時は現在、金ヶ崎の泥濘へと戻る。
メキメキメキッ!! ドッシャァァァン!!
俺たちが朝倉の追撃を阻むために仕掛けた頑丈な竹林の罠が、まるで邪魔な蜘蛛の巣でも払いのけるかのように、一瞬でなぎ倒された。
「……え?」
俺は、息を呑んだ。
雨霧が立ち込める獣道の奥から現れたのは、半兵衛が語った伝説すら生温く感じるほどの、圧倒的な圧を放つ武将だった。
身の丈、七尺。
俺自身が常に見下ろしてきた戦国の世において、俺は初めて、自分よりも三十センチ以上も巨大な男を見上げていた。
丸太のように太い腕には、身の丈ほどの巨大な大太刀が無造作に握られている。全身から立ち上る熱気で、彼に降り注ぐ雨粒が白い湯気となって蒸発していた。
「……随分と、小賢しい真似をしてくれるではないか」
巨人は、俺たちが必死で作り上げた罠の数々を、ただ歩くだけで瓦礫に変えながら、血走った眼球をギョロリと動かして、三日月のように口を裂いて笑った。
「真柄……十郎左衛門……!!」
小一郎が、絶望に満ちた掠れ声を漏らした。
俺の小細工も、半兵衛の知略も、すべてを純粋な質量だけで粉砕しながら、戦場に顕現した鬼神は、俺たちがいる最後尾へと真っ直ぐに歩みを進めてくる。
「ひ、ひぃぃッ! 化け物だァ!」
最後尾を木下組と並走してきた徳川軍の足軽たちが、恐怖で理性を失い、一斉に真柄へと槍を突き出した。
「やめろ! 近づくなァッ!!」
制止は間に合わなかった。
ブォンッ!!
真柄が無造作に片手で『太郎太刀』を横薙ぎにした。
ただそれだけで、空気が爆発したような重低音が響き、飛びかかった数人の足軽たちが、まるでボウリングのピンのようにまとめて弾き飛ばされた。
「ぐべぁッ!?」
「あぎゃああッ!」
刃で斬られたのではない。大太刀で殴られただけで、彼らの甲冑がひしゃげ、宙を舞って木々に叩きつけられたのだ。
「……なんだ、今の。嘘だろ……」
俺は恐怖で足が動かなくなった。
剣術とか技といった次元の話ではない。トラックに正面衝突されるのと同じ、人間には防御不可能な災害そのものだ。
「さて。次は貴様か、無駄にデカい鼠よ」
真柄が一歩、こちらへ踏み出した。ドスン、と大地が揺れる。
その血走った視線が、俺と、俺を守るように固まっている家臣たちにに向けられた。
「若! ぼーっとしてんじゃねえ! ここは俺たちが止める! 走れェ!!」
三太夫の怒声が響いた。
堀尾組の最高戦力であり、戦闘狂の三太夫が、自身の太刀では分が悪いと判断したのか、滅多に使わない自慢の金棒を背中から構えて、真柄の正面へと躍り出た。
それに合わせて、但馬が槍を低く構え、氏光が刀を正眼に構え左右に散り、真柄の死角へと素早く回り込む。
「三太夫! 但馬、氏光! 無理だ、逃げろ!」
俺の悲鳴のような制止を背に受けながら、三人は完璧な連携で真柄に襲いかかった。
まず氏光が、死角から真柄の顔面めがけて短刀を投げつけ、刀で斬りつける。
続く但馬が、真柄の巨体を支える太い脚の関節を正確に狙って、鋭い下段突きを放つ。
視界を奪い、下段への攻撃で体勢を崩す。
そしてその一瞬の隙を突き、正面から三太夫が叩き伏せる。
(これは……! そうだ、岐阜の屋敷だ。俺が縁側で鼻をほじりながらボケーっと空を眺めていた時、庭で三太夫たちが汗だくになって、何度も何度も阿吽の呼吸で繰り返し練習していた必殺の陣形じゃないか!)
朝倉征伐に合わせて編み出した、堀尾組必勝のコンビネーション。
「死ねやァ、デカブツ!!」
三太夫が、自慢の怪力で重い金棒をフルスイングし、真柄の胴体めがけて全力で叩きつけた。
だが。
「……羽虫が」
真柄は、顔面に迫る短刀を左手で無造作に払い落とすと、氏光をそのまま弾き飛ばし、但馬の槍の穂先をすね当てで強引に受け止めた。
そして。
ガキィィィィィン!!
猛烈な甲高い金属音が森中に響き渡った。
真柄は、太郎太刀の鎬で、三太夫の金棒を片手で軽々と受け止めていた。
あの戦闘狂の三太夫が渾身の力で放った一撃が、まるで子供の小枝を止めるかのように、ピタリと静止させられたのだ。
「なっ……!?」
三太夫が驚愕に見開いた目。その直後、真柄の巨大な蹴りが三太夫の腹に深くめり込んだ。
「ガハッ……!?」
三太夫の体がくの字に折れ曲がり、十メートル以上も後方へと吹き飛ばされて、泥濘の中をボロ雑巾のように転がった。
「三太夫っ!!」
左右から再び斬りかかろうとしていた但馬と氏光が、その異常な光景に一瞬だけ動きを止めてしまった。
「よそ見をするな」
――ブンッ!!
太郎太刀が、まるで生き物のように翻った。
刃が空気を切り裂く凄まじい風圧だけで、但馬の構えていた槍の柄が真っ二つにへし折られ、氏光の体が竜巻に巻き込まれたように吹き飛ばされた。
「がはぁッ!」
「うわぁぁッ!」
二人は空中で血を吐き、そのまま泥の中に叩きつけられて動かなくなった。
「うそ、だろ……」
俺の頼れる家臣たち。これまで数々の修羅場を共に潜り抜けてきた、俺の自慢の精鋭たち。
それが、たったの十秒。
一切の手間もかけず、まるで鬱陶しい虫でも払うかのように一掃されてしまった。
絶望が、冷たい雨と共に俺の全身を縛り付ける。
足が震えて動かない。呼吸が浅くなり、視界がチカチカと明滅する。
「まずは、このすばしっこい羽虫からだ」
真柄が、泥に沈んで動けない氏光を見下ろし、五尺三寸の『太郎太刀』を無造作に振り上げた。
あの太刀が振り下ろされれば、氏光は間違いなく両断される。
「やめろッ!!」
頭より先に、体が動いていた。
いつもなら真っ先に逃げ出しているはずの俺の足が、恐怖をねじ伏せて泥を蹴っていた。腰に差していた、普段は身分の飾りと化しているだけの刀を抜き放つ。
ガギィィィンッッ!!!
凄まじい衝撃が両腕を突き抜けた。
俺は氏光の上に覆いかぶさるようにして、真柄の振り下ろした太郎太刀を、自分の刀でギリギリ受け止めていた。
「兄上……!?」
血を吐きながら、足元で氏光が驚愕の声を漏らす。俺自身が一番驚いていた。だが、ここで退くわけにはいかなかった。
(俺だって……ただ逃げ回るだけの現代人じゃない! 泥水をすすって、この戦国で必死に生きてきたんだ!)
俺の持つ最大の武器であるこの巨体と、火事場の馬鹿力で押し返してやる。俺は奥歯を噛み砕きそうなほど食い縛り、刀の柄に全体重を乗せた。
「ほう……」
真柄が、ピタリと動きを止め、僅かに目を細めた。
「織田にもデカい男がいたようだな。……俺にとっては鼠と一緒だが」
直後、真柄の丸太のような腕が、さらに一回り膨れ上がったように見えた。
「ぐ、おおおおおッ!?」
信じられない力が、刀越しにのしかかってくる。俺は全身の力をかけて押し返そうとしているのに、俺の足が泥にズブズブと沈み込んでいく。骨が軋み、腕の筋肉が悲鳴を上げる。
「うおおおおッ!!」
俺は死に物狂いで刃を弾き返し、ヤケクソで真柄の胴体めがけて斬りかかった。
一合、二合。刀と太刀が激突し、火花が散る。だが、俺の決死の剣撃はすべて、真柄にとって遊ぶように軽く弾かれた。ただ受け流されているだけなのに、その反動だけで腕が千切れそうになる。
そして、三合目。
「つまらん」
真柄の太郎太刀が、下から跳ね上げられた。
バキィィンッ!!
俺の刀が、根元から無惨にへし折られ、宙高く弾き飛ばされた。
両手の感覚が完全に消え失せ、俺は無防備な姿で泥の中に尻餅をついた。
手も足も出ない。これだけ恵まれた体格があっても、勇気を振り絞って戦国を生き抜く覚悟を決めても、決して届かない絶対的な壁。
(……やっぱ俺は、何やっても駄目なのか……)
視界が絶望で真っ暗に染まる。倒れて動かない三太夫たちを見る。
(みんな……ごめん……)
俺はゆっくりと目を閉じた。
強烈な風圧と共に、戦国最強の狂刃が、無慈悲に俺の頭上へと振り下ろされた。




