第110話 泥の防衛線と、規格外の狂刃
東の空が、忌まわしいほど白々と明けていった。
夜明けの冷たい霧が晴れていくにつれ、越前の山々を包んでいた目くらましの魔法は完全に解け去った。
――ヴォォォォォォォォォッッ!!!
背後の山を震わせ、空気を引き裂くような、鼓膜を突き破る爆音が轟いた。
それは、ちっぽけな偽装工作と紙の気球に完全に騙され、みすみす獲物を逃したと悟った朝倉の数万の大軍が発する、絶対的な怒りの咆哮だった。
「ひぃぃッ! バレた! 完全にバレましたよ!」
俺は泥だらけの獣道を這い上がりながら悲鳴を上げた。
「当たり前だ! 太陽が昇れば虚仮威しなど一目で露見する! 急げ、立ち止まるな!」
最後尾を共に走る藤吉郎が、血走った目で怒鳴り、先を急がせる。
浅井軍を半兵衛の流言で釘付けにした俺たちは、前方からの挟み撃ちこそ回避できたものの、ここからは怒り狂う朝倉の追撃部隊との純粋な駆けっこだった。
だが、夜通し山道を歩き続けた兵たちの体力は、すでに限界を迎えつつある。
「……不味いですな。このままでは、あと幾分も経たずに朝倉の先鋒である騎馬隊に背中を食い破られます」
並走していた軍師の半兵衛が、荒い息を吐きながら冷静に状況を分析した。
「光秀様の鉄砲隊も、この状況では射撃の精度が落ちているはずです。……後続の敵の足を鈍らせる策が必要です」
半兵衛の視線が、すっと俺に向けられた。
「茂助殿。貴方たちの技術で、この狭い獣道に罠を張り巡らせることはできませんか。追撃の足を少しでも遅らせる、嫌らしい仕掛けを」
「罠……! やります、それなら俺たちの得意分野だ!」
まともに刃を交えて戦えば瞬殺されるが、陰湿な嫌がらせで時間を稼ぐならいくらでもやりようはある。
「小一郎様、少し手伝ってください! 三太夫、但馬! 走りながらでいい、周りの太いツルを切り取って、獣道の足首の高さに何重にもピンと張れ!」
「へいっ! 任せくだせえ!」
元々が泥にまみれて農作業や普請をしてきた茂助組の連中だ。手先の器用さと、地形を利用するスキルは異常に高い。
彼らは俺の指示通り、視界の悪い獣道の死角や、ぬかるみに隠すように、頑丈なツルを次々と張り巡らせた。
「次はそこら辺のしなる竹を曲げて、先端に重い石と泥を括り付けてください。 ツルに引っかかった振動で仕掛けが外れて、顔面に石礫が飛んでいくように仕掛けます」
半兵衛が茂助たちと共に指示を出していく。
「なるほど! 猪を狩る時の仕掛けの応用ですな!」
小一郎も感心したように頷き、兵たちと共に手際よく罠を作っていく。
俺たちは、斜面に油を撒いたり、足を取られる偽装した穴や、使えるものを使って退却路を文字通り「地獄の障害物コース」へと変えながら逃げ続けた。
数十分後。
「逃がさぬぞ、織田の鼠ども……!」
猛烈な勢いで俺たちの背後に迫ってきた朝倉の先鋒騎馬隊が、獣道に突っ込んできた瞬間。
――バチンッ!
「ぬおあっ!?」
足首に何重にも張られたツルに馬の脚が絡まり、先頭の騎馬が悲鳴を上げて前のめりに転倒した。
さらに、その振動で作動したしなる竹が弾け飛び。
――ベチャァッ!! ドスッ!!
「ぎゃあっ! 目、目が! なんだこの悪臭は!」
後続の騎馬武者たちの顔面に、馬糞を混ぜた泥爆弾と石礫がクリーンヒットする。
混乱して足が止まったところへ、ツルを避けようとした騎馬立ちが油の撒かれた斜面で足を滑らせていく。
「成功しましたね。朝倉の先鋒は完全に足止めを食らいました。この罠を警戒する以上、敵は進軍速度を大幅に落とさざるを得ない。……これで、確実に近江へ逃げ切れます」
走りながら後方の惨状を確認した半兵衛が、安堵の笑みを浮かべた
「へへっ、見たか! どんな精鋭部隊でも、この姑息なトラップの連続には勝てねえんだよ!」
俺は、泥だらけになって足踏みしている朝倉兵たちを遠目に見下ろし、高らかに笑い声を上げた。
(よっしゃ! 半兵衛の天才的なフォローと俺のトラップの完璧なコンボ! これで生存ルート、完全確定だ!)
俺が胸の中で特大の生存フラグを打ち立て、安堵の息を吐き出した、その瞬間だった。
――ズズンッ……!!
突然、背後の地面が、地震のように重く沈み込んだ。
歓声と怒号にかき消されていた森の奥から、木々がへし折れる異様な音が響いてくる。
俺たちが朝倉の先鋒を足止めするために張り巡らせた無数のツルが、引きちぎられるような不気味な音を立てて次々と弾け飛んでいく。
「な、なんだ……?」
俺が振り返った先。
朝倉の兵たちが、怯えたように道をあけたその奥から、それは現れた。
メキメキメキッ!! ドッシャァァァン!!
俺たちが泥石礫を仕掛けていた太い竹林が、まるで邪魔な蜘蛛の巣でも払いのけるかのように、強引にへし折られ、薙ぎ払われていく。
仕掛けが作動し、石や泥が直撃しても、その歩みは一歩たりとも止まらない。落とし穴を踏み抜いても、その圧倒的な脚力で穴の縁ごと地面を粉砕して、そのまま這い上がってくる。
「……え?」
俺は、息を呑んだ。
霧を切り裂いて姿を現したその武将は、明らかに人間のサイズをおかしくしていた。
身の丈、およそ七尺(約210センチ)。
平均身長が150センチ台であるこの戦国時代の世界において、いや、平均身長が上がった現代においてでも、それは文字通りの巨人だった。
丸太のような太い腕には、普通の刀の倍以上はある、身の丈ほどの巨大な大太刀が無造作に握られている。
「……随分と、小賢しい真似をしてくれるではないか」
巨人は、俺たちが必死で作り上げた罠の数々を、ただ歩くだけで瓦礫に変えながら、血走った眼球をギョロリと動かして、三日月のように口を裂いて笑った。
「真柄……十郎左衛門……!!」
半兵衛が、珍しく険しい顔で掠れ声を漏らした。
朝倉軍が誇る、規格外のバケモノ猛将。
俺と半兵衛が理詰めで構築した足止めの策も、地の利も、すべてを純粋な暴力で粉砕しながら、彼はただ一人、俺たちがいる最後尾の死地へと真っ直ぐに歩みを進めてきたのだ。
「さて、誰から肉塊に変えてやろうか」
真柄十郎左衛門の放つ、圧倒的で濃密な殺気が、周囲の空気を凍りつかせる。
俺の立てた生存フラグは、戦国最強の狂刃の前に、木っ端微塵に砕け散ったのだった。
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