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第109話 浅井軍と、天才の流言


 空に放たれた三百の孔明灯が、越前の夜空で妖しい光の瞬きとなり、やがて闇に溶けて消えていく頃。

 俺たち殿しんがり部隊は、息を殺し、一切の音を立てないようにしながら、近江へと続く険しい山道を南下していた。


 先頭を家康の徳川軍が切り拓き、中央を光秀の明智軍が固め、最後尾を藤吉郎と俺たち木下組が警戒しながら進む。誰も言葉を発しない。ただ、泥を這うような足音と、荒い息遣いだけが暗闇に響いていた。

 朝倉の大軍は、俺たちの放った目くらましに完全に気を取られ、追撃の初動を大きく遅らせていた。


「……よし。ここまで来れば、朝倉の騎馬隊といえど、この険しい山道では容易に追いつけまい」

 小休止の合図が出された深い森の中で、藤吉郎が木に背中を預け、安堵の息を吐いた。

 俺も泥まみれの地面に座り込み、竹筒の水を一気に煽った。


「はぁっ……はぁっ……。助かった……。あのまま城にいたら、今頃ミンチにされてましたよ……」

 だが、俺のその安堵は、すぐに光秀の氷のような一言によって打ち砕かれた。


「安心するのはまだ早い。いや、むしろここからが本当の地獄だ。……我々は今、近江の北部に足を踏み入れている。つまり、お館様を裏切った『浅井長政あざいながまさ』が待ち構えているやもしれぬのだ」

 その言葉に、俺は飲んでいた水を盛大に吹き出した。


「ブゥッ!? げほっ、ごほっ! 浅井が裏切ったから撤退してるのに、その浅井のど真ん中を突っ切らなきゃ帰れないのか!?」

 背後には、いずれ嘘に気づいて怒り狂いながら追ってくるであろう朝倉の数万の大軍。


 そして前方には、地の利を知り尽くし、俺たちを待ち構えているであろう浅井の軍勢。

 前門の虎、後門の狼。完璧なサンドイッチだ。


「……浅井軍は、お館様の本軍を逃すまいと、必ず街道を封鎖してくるはずだ」

 家康も、暗闇の中で険しい顔つきになった。


「この狭い山道で、前方から浅井の精鋭に蓋をされれば、我ら数千の殿部隊は完全に身動きが取れなくなる。そこに背後から朝倉が追いつけば……まさに袋の鼠。一巻の終わりぞ」


「お、終わった……。目くらましでうまく逃げたと思ったのに、結局行き止まりじゃないですか! 誰か、前方の浅井軍をどかす方法はないんですか!?」

 俺が半泣きで頭を抱えた、その時だった。


「……ご安心を、茂助殿」

 暗闇の中から、涼しげな、あまりにも場違いなほど穏やかな声が響いた。

 軍師の竹中半兵衛だ。彼は青白い顔で少し咳き込みながらも、その瞳には底知れぬ知性の光を宿していた。


「前方の浅井軍は、動きません。我々がこのまま北近江を突っ切っても、奴らは城から一歩も出てこないでしょう」

「へ? どういうことだ? 半兵衛? 敵なんだから、こっちが逃げてきたら絶対攻撃してくるでしょ?」


「ええ、普通の状況ならば。……ですから、彼らが『外に出られない状況』を、撤退の前に作っておきました」

 半兵衛は、口元に扇子を当て、静かに微笑んだ。


「金ヶ崎の陣を立つ前、私は数人の忍びを北近江の村々や、浅井の陣や小谷城おだにじょうの周辺に放ち、とある噂をバラ撒きました」

「噂?」

「はい。『織田軍の撤退は、浅井軍を小谷城からおびき出すための罠である』と」

 俺をはじめ、藤吉郎、光秀、家康の全員が、息を呑んで半兵衛の言葉に耳を傾けた。


「……浅井長政殿は、義兄であるお館様を裏切ったことに、強い警戒と罪悪感を抱いているはず。そこに、このような流言を流しました。『織田信長は、浅井の裏切りをとうに予期していた。撤退は偽装であり、すでに数万の精鋭が周囲の山中に伏せている。浅井軍が追撃のために城を空けた瞬間、空っぽになった小谷城を強襲する手筈だ』……と」

「なっ……」

 光秀が、絶句したように目を見開いた。


「さらに念を入れて、我が軍の忍びをわざと浅井の哨戒部隊に捕縛させました」

 半兵衛は、恐ろしいことを平然と続ける。


「その忍びには、偽の密書を持たせてあります。厳しい拷問の末に、彼は泣き叫びながらこう自白したはずです。『おのれ浅井、お館様の策とも知らずに……城を出れば、貴様らは皆殺しだ』と」

 俺の背筋に、北近江の夜風よりもずっと冷たい悪寒が走った。

 なんだその緻密すぎる心理戦は。


「お館様は、かつて桶狭間にて、圧倒的多数の今川軍を奇襲で破った底知れぬ男。浅井の将たちは、その恐ろしさを誰よりも知っている。……ゆえに、この噂と自白を聞けば、彼らは必ず疑心暗鬼に陥ります」

 半兵衛の言う通りだ。

 自分たちが裏切った相手が、あの魔王・織田信長なのだ。


『もし本当に伏兵がいたら?』

『もしこれが、城を空けさせるための罠だったら?』

 一度植え付けられた疑念は、暗闇の中で無限に膨れ上がる。


「浅井軍は、朝倉の追撃を知っていても、自分たちの本拠地である小谷城を空にして打って出ることは絶対にできません。彼らは今頃、見えない『伏兵』に怯え、城の守りをガチガチに固めて、一歩も動けずにいるはずです」

 半兵衛は扇子を閉じ、パチンと手のひらに当てた。


「……つまり、我々の前方に立ち塞がる敵は、すでに排除されています。このまま堂々と、北近江の街道を駆け抜けましょう」

 しんと静まり返る森の中。

 やがて、徳川家康が、震えるような深いため息を漏らした。


「……恐ろしい男よ。一兵も損なわず、刃を交えることもなく、ただの言葉と紙切れだけで、一万を超える浅井の軍勢を城に釘付けにしたというのか」


「孫子いわく、『百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』。……見事な軍略だ。竹中半兵衛殿、貴殿の知謀、底が知れぬな」

 光秀もまた、半兵衛に対して深い敬意と、そして明確な畏怖の眼差しを向けていた。


(マジかよこの天才軍師……! ()()『孔明灯』なんかただの目くらましだけど、こっちの流言飛語は完全に人間の心理をハッキングしてやがる……!)

 俺は、自分の直属の部下であるこの青年の頭脳に、心底チビりそうになっていた。


 だが、同時にこれほど心強い味方はいない。前方の浅井軍とまともにぶつかっていれば、俺たちは確実に全滅していたのだから。


「さすが見込んだ男だ、半兵衛! これで活路は開けたぞ!」

 藤吉郎が、暗闇の中で白い歯を見せて笑った。


「皆の者、前方の浅井は動かん! このまま一気に北近江を抜け、京を目指すぞ!」

 前方ルートの安全が確保されたという事実は、極限状態にあった兵たちに、再び立ち上がる気力を与えた。


「進め! 音を立てるな、だが急げ!」

 将たちの号令で、殿部隊は再び立ち上がり、獣道から少し開けた山間の道へと歩を進め始めた。

 俺も重い風呂敷包みを背負い直し、泥だらけの足を必死に前に出す。


 だが。

 俺たちの戦いは、まだ終わったわけではない。前方の浅井軍を言葉の刃で縛り付けたとはいえ、後方には、俺たちのハッタリに気づいた本物の暴力が迫りつつあるのだ。


 東の空が、わずかに白み始めていた。

 夜明け。それは、金ヶ崎に残した偽装工作がすべてバレる時間。

 朝倉の数万の追撃部隊が、本当の殺意を剥き出しにして牙を剥く、地獄のサバイバルマラソンの始まりを意味していた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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手リーマンの靴ひもじゃなくて、嫁さんの草履のあちこち切れてそう。
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