第108話 限界の撤退と、夜空を裂く『孔明灯』
漆黒の夜闇の中、パチパチと薪の爆ぜる音だけが不気味に響き渡っている。
無数の松明と陣幕で偽装された金ヶ崎城。俺たちはその土塁の陰に身を潜め、冷たい汗を流しながら時が過ぎるのを待っていた。
「若、敵の包囲網は相変わらずです。遠巻きに城を囲んだまま、ピタリと動く気配がありませんぜ」
物見櫓から降りてきた部下の三太夫が、小声で報告してきた。
「ああ。ハッタリが効いてる証拠だ。だが、いつまで持つか……」
俺は息を殺して、本陣として使っている崩れかけの陣屋へと足を向けた。
そこには、藤吉郎、光秀、家康、そして軍師の半兵衛と、実務担当の小一郎が、小さな灯りの下で額を突き合わせていた。殿部隊の首脳陣による、決死の軍議だ。
「……偽装工作は見事に嵌りました。朝倉軍は、城内に数万の兵が待ち構えていると錯覚し、警戒して足を止めています」
半兵衛が、落ち着いた声で現状を語る。
「だが、夜明けまでにはこの城を捨て、我らも山道へ逃げ込まねばならぬ。問題は、どうやって敵の目の前で、気づかれずに退却を始めるかだ」
光秀様が、苦渋に満ちた表情で図面を睨んだ。
「その通りですな」
家康も、重々しく頷く。
「退却戦において最も恐ろしいのは、背を向けて陣を退き始めるその瞬間だ。城の裏門からコソコソと逃げ出せば、数千の兵が動く音で必ず悟られる。……退却の最中に朝倉の騎馬隊に背中から突っ込まれれば、我らは全滅ぞ」
首脳陣の間に、重苦しい沈黙が落ちた。
残された時間は少ない。夜が明けて太陽が昇れば、この城に数千の兵しかいないというハッタリは一瞬で看破される。怒り狂った朝倉の数万の大軍が、津波のように押し寄せてくるだろう。
逃げなければ死ぬ。だが、逃げようとして背を向けても死ぬ。
完全に詰んでいた。
「……何か、敵の目を一瞬でも完全に逸らす強烈な何かがあれば……」
小一郎がポツリとこぼしたその言葉に、俺の脳裏でパズルのピースがガチッと噛み合った。
(目くらまし……部隊の音を掻き消すほどの異常な光景……暗闇で敵の視線を上空に完全に釘付けにし、パニックを起こさせるもの……!)
「ありますよ、目くらまし」
俺が声を上げると、藤吉郎をはじめとする全員の視線が一斉にこちらを向いた。
「茂助、何か策があるのか!?」
藤吉郎様が身を乗り出す。俺は力強く頷いた。
「俺たち木下組の荷車に、数日前に越前への遠足用……いや、何かに使えるかと思って持ってきた小型気球が大量に積んであります。半兵衛と一緒に作った気球、孔明灯ですよ」
その言葉に、半兵衛がハッと息を呑んだ。
「……なるほど! あれを使うのですね!」
「はい。あれはただ空に浮くだけじゃない。火鉢の中に銅のサビを混ぜてあるから、燃えると青や緑の不気味な色に発光するんです」
俺は身振り手振りを交えて、必死に説明した。
「あれを数百個、一斉に火を入れて夜空へ放つんです。暗闇の空に、突然見たこともないような青や緑の火の玉が無数に浮かび上がったら……敵はどうなります?」
「……いかなる精鋭だろうと、度肝を抜かれて空を見上げ、恐怖に陥る。敵が恐慌を起こして怒号や悲鳴を上げれば、そのすさまじい大騒ぎで、我々が逃げる甲冑の音も完全にかき消されるな」
光秀の目が、驚愕と感嘆に見開かれた。
戦国時代の人間にとって、空に浮かぶ得体の知れない光は、神仏の怒りか怨霊の仕業にしか見えないはずだ。
「敵の視線が上空の火の玉に釘付けになっている隙に、俺たちは城の裏門から一斉に山道へ逃げ込むんです!」
「見事だ……! これならば、敵の目を完全に欺いて退却できる!」
家康が、バンッと膝を叩いて立ち上がった。
「よし! すぐにその気球とやらを準備しろ! 全軍に撤退の通達を回せ! 音を立てるなよ!」
藤吉郎の号令で、殿部隊は一斉に最後の退却準備に取り掛かった。
***
「おい三太夫、但馬! 気球の準備を急げ! 手分けして火鉢に油を染み込ませろ!」
俺の指示で、木下組の兵たちが慌ただしく動き回る。
折りたたまれていた大量の孔明灯が、次々と広げられ、城の広場に等間隔に並べられていく。その数、ゆうに三百を超える。
光秀、家康、藤吉郎の軍勢は、すでに音を立てずに裏門へと集結し、いつでも駆け出せる体勢を取っている。
残っているのは、点火役の俺たち堀尾組と木下組の数名だけだ。
「……茂助殿、準備はよろしいですか」
半兵衛が、松明を手に静かに俺の横に立った。
「ええ。半兵衛様、小一郎様、いつでもいけます」
隣で同じく松明を持った小一郎も、顔を強張らせながら無言で頷いた。
「よし……点火ぁッ!!」
俺の合図と共に、兵たちが一斉に孔明灯の下部に取り付けられた火鉢に火を放った。
ボッ、ボォォォッ!
緑青を混ぜ込まれた油が引火し、青、緑、そして紫といった、この世のものとは思えない不気味な色の炎が、一斉に燃え上がった。
熱い空気が和紙の袋の中にパンパンに充満していく。
そして。
「……放てェッ!!」
俺たちが一斉に手を離した瞬間。
三百を超える青緑の火の玉が、重力を忘れたかのように、フワァァァッ……と金ヶ崎の夜空へ向かって浮かび上がった。
真っ暗な越前の夜空を、三百の妖しい火の玉が、不気味な光を撒き散らしながらゆっくりと天へ向かって昇っていく。
それは、サファイアのような深く、不気味な青。エメラルドのような鮮烈な緑。アメジストのような神秘的な紫。
それらの光が、漆黒の夜空を縦横に引き裂き、まるで天の川のような、煌びやかな星座を空に描き出す。
死と泥にまみれた戦場にあって、それは息を呑むほどに圧倒的で、映画のワンシーンのように美しかった。
その光が、遠巻きに城を包囲していた朝倉軍の陣営を、下から赤裸々に照らし出した。
「な、なんだあれは!?」
「空から、火の玉が……!」
「ヒィィッ! 狐火の大群だ! 怨霊じゃ! 朝倉の陣に呪いが降ってくるぞォォッ!!」
暗闇の中で突如として上空に現れた、見たこともない色の炎の群れ。朝倉の数万の兵たちは完全にパニックに陥り、我先にと逃げ惑い始めた。
馬は嘶いて暴れ回り、陣の統率など一瞬にして消し飛んでいた。彼らの恐怖と驚愕に満ちた顔が、上空の妖光に次々と浮かび上がる。
朝倉軍の視線と意識は、完全に空の妖術へと釘付けになった。
「全軍、秩序を保ちながら、近江へ向けて移動せよッ!!」
藤吉郎様の、しかし誰一人として取り乱させることのない、整然とした静かな号令が響く。
ドォォォォンッ!!
敵陣のすさまじい怒号と混乱にかき消されながら、城の裏門が静かに、そして秩序正しく開かれた。
家康の徳川軍、光秀の明智軍、そして藤吉郎率いる木下組の兵たちが、一頭の巨大な獣のように、闇に包まれた険しい獣道へと、静かに、そして確実に雪崩れ込んでいく。
パニックになっている朝倉勢とは対照的に、俺らは移動の音も最小限に抑えられ、誰一人として取り乱すことなく移動していく。歴戦のプロフェッショナルたちによる、不気味なほど研ぎ澄まされた撤退行動だった。
俺は背中の風呂敷包みだけを揺らして、最後尾で味方の整然とした撤退を見届けた。
上空の孔明灯の光が、泥にまみれながらも一糸乱れぬ足取りで進む彼らの背中を、青や緑の光で美しく照らし出している。
背後では、俺たちの放った孔明灯が、朝倉軍に絶大な混乱をもたらしている。
あの目くらましの光が尽きる前に、少しでも遠くへ、少しでも深く近江の山中へ逃げ込まなければならない。
心臓が破裂しそうになるほど息を切らしながらも、俺はただひたすらに前だけを見て、整然と退いていく味方の背中を追い続けた。
最強の殿部隊による、限界の撤退戦。
俺たちの命を懸けた逃走劇は、夜空を彩る美しい火の玉を合図に、ついに本当の死線へと足を踏み入れたのだった。
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