第107話 死線の籠城と、松明の偽装工作
「ブォォォォォォ……!」
越前の深い山影から、地鳴りのような法螺貝の音が響き渡った。
それは間違いなく、織田本軍の撤退を察知し、血走った目で追撃を開始した朝倉義景の本軍が発する狩りの合図だった。
「ひぃぃぃッ! 来やがった! もう敵がそこまで来てますよ!」
俺は荷車の取っ手から手を離し、頭を抱えて悲鳴を上げた。
「藤吉郎様! 家康様! 光秀様! 軍議なんかしてる場合じゃない! さっさと荷物をまとめて、一目散に近江への山道を走りましょうよ!」
だが、パニックを起こして逃げ出そうとする俺の襟首を、冷え切った鋼のような手がいとも容易く掴み、引き留めた。
「茂助殿、貴殿は部隊の調練を行う際には、撤退を叩き込むのは存じておりますが、すべての部隊が貴殿らと同様に統制が取れた撤退というのは難しいのです」
明智光秀が、氷のように冷たい眼差しで俺を見下ろしていた。
かつて上洛戦の直前、俺が己の生存のためだけに部下に叩き込んだ「神速の退き口(ただの避難訓練)」。その後、俺が部隊を率いる度に部下たちに叩き込んてでいることだ。
それを見て高く評価していた光秀だからこそ、俺の過剰な逃亡癖にもある程度の理解を示してくれている。
「ましてや、あの法螺貝の音の近さ。すでに朝倉の先鋒部隊は、すぐそこの稜線を越えようとしている。この状況で三万の軍の背中を守る我々が背を向けて走り出しすと、機動力に勝る敵の騎馬部隊に背後から突っ込まれ、一刻も経たずに全軍が撫で斬りにされます。」
「……明智殿の仰る通りだ」
家康も、厳しい表情で同意した。
「退却戦において最も恐ろしいのは、『退き始めるその瞬間』なのだ。背を向けて逃げるという行為は、兵から戦う意志を奪う。一度隊列が崩れれば、あとは統率の取れない烏合の衆となり、ただの敵の狩り場と化す。……我々は今、絶対に背を向けてはならぬ」
「そ、そんな……! じゃあどうするんですか! ここで真っ向から戦えって言うんですか!?」
「真っ向からぶつかれば、数の暴力にすり潰される。ゆえに、まずは盾の内側に籠もるのだ」
藤吉郎が、俺たちが立っている地面を指差した。
ここは、数日前に朝倉から奪い取ったばかりの『金ヶ崎城』がそびえ立っている。
「ここから安全圏まで、お館様が抜け切るには、どんなに急いでもまだ時間が必要だ。我々殿部隊は、この金ヶ崎城に籠城し、朝倉の追撃軍をここに釘付けにして時間を稼ぐ!」
藤吉郎の言葉に、光秀と家康が頷く。
城といっても、立派な石垣や天守閣があるわけではない。土を盛った土塁と、木で組まれた柵、そしていくつかの物見櫓があるだけの、簡素な山城だ。
だが、それでも平地で騎馬隊に蹂躙されるよりは遥かにマシである。家康配下の足軽たちが門を固め、光秀の鉄砲隊が土塁の上に配置されていく。
「……しかし、問題がありますな」
慌ただしく陣形が組まれていく中、軍師の竹中半兵衛が、城門の上から眼下に広がる空っぽの陣跡を見下ろして静かに言った。
「我々は殿部隊とは数千の手勢が残ってるとはいえ、これまでここに駐留していた三万の大軍とは比べ物にならないほど数が少ない。……もし朝倉軍に、『織田の主力がすでに逃げ去り、城に残っているのはわずかな残党だけだ』と悟られれば、奴らは籠城戦など構わず、力技で一気に城を飲み込みにくるでしょう」
半兵衛の言葉に、藤吉郎も家康も険しい顔で黙り込んだ。
数千の兵で、数万の敵の猛攻を正面から凌ぐことは不可能だ。相手に「攻め込むのを躊躇させる」だけの理由が必要だった。
「……敵の目を欺くしかありません」
半兵衛が、ふと俺の方を振り返った。その涼しげな瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿る。
「朝倉軍はまだ、織田勢が浅井の裏切りに気付いて撤退したことに気付いていない可能性が高いです。それほどお館様の逃げ足は神速です。ならば、我々が未だ三万のままであると錯覚させ続ければよい。」
「どういうことだ?」
俺は首を傾げる。
「……茂助殿。かつて上洛戦の折、六角軍の箕作城で見せたあのハッタリ……無数の松明を焚いて大軍に見せかける策、今ここでもう一度再現するんです」
「箕作城の松明……ああ! あれか!」
俺は深く頷いた。人間は暗闇の中では光の数で無意識に敵の兵力を測ってしまう。
だが、その時俺の脳裏に、もう一つの過去の記憶が閃いた。かつて桶狭間の戦いの折、善照寺砦で俺がサボるために編み出した『自動旗振り機』の策だ。
「ただ松明を立てるだけじゃなく、旗も使いましょう!」
俺は身を乗り出して提案した。
「藤吉郎様! 善照寺砦でやったみたいに、風でよくしなる木の枝に、予備の旗や着物の切れ端を結びつけるんです。無数の松明の明かりと、風で勝手に動く旗の影が合わされば、もっと大軍が動いてるように見えますよ!」
「なるほど! 揺れる炎と蠢く布の影……それならば、ただ火が灯っているよりも遥かに本物らしく見えますな!」
半兵衛も、俺の悪魔合体したハッタリ策に目を輝かせた。
「やれます! 小一郎様、手伝ってください! 三太夫、但馬! 荷車に乗せてる油と、予備の布切れ、それから手頃な木の枝を全部持ってこい!」
「若! 油は夜道を進むための貴重な明かりですぜ! 全部使っちまっていいんですか!?」
「ケチってる場合か! 今夜を生き延びなきゃ、明日の夜道なんて歩けねえんだよ!」
俺の怒声に、木下組の荒くれ者たちが一斉に動き出した。
撤退戦のために集めていた物資をここで惜しみなく放出する。使い古した布や、引き裂いた着物の切れ端を木の枝に巻きつけ、即席の『松明』を大量に量産していく。
さらに、織田の家紋が描かれた幟旗を、城の土塁だけでなく、撤退した部隊がいた場外の陣跡の木々にも、等間隔に縛り付けて回った。
「いいか! 旗はただ立てるだけじゃ駄目だ! しなる細い枝の先っぽに括り付けろ! 人がいなくても、海風で旗が動いてりゃ、敵からはそこに兵がいて出撃準備をしてるように見えるんだ!」
「へいっ! 急げ急げ、敵が来る前に全部立てちまえ!」
俺と小一郎、そして木下組の兵たちは、泥まみれになりながら、決死の図画工作と土木作業を展開した。
光秀や家康の兵たちも、俺たちの意図を理解すると、自分たちの予備の旗や松明を惜しみなく提供してくれた。
そして。
日が完全に落ち、漆黒の夜の闇が金ヶ崎の山々を包み込んだ頃。
「……見え見えの虚仮威しだが……見事なものだ」
物見櫓の上に立った光秀が、眼下に広がる光景を見て、感嘆の息を漏らした。
金ヶ崎城と、その周辺に広がる広大な陣地。
そこに、俺たちが死に物狂いで立てた数千本もの松明と篝火が一斉に火を放ち、煌々(こうこう)と燃え上がっていた。
海から吹き付ける夜風に煽られ、しなる枝に括り付けられた無数の炎と旗が、まるで生き物のように不規則に揺れ動いている。
その光景は、遠目から見れば、間違いなく『数万の織田の主力軍が、未だに撤退せずに陣を構え、蠢いている』ようにしか見えなかった。
静まり返った城の中で、燃え盛る火の粉の音だけがパチパチと響いている。
「来ますぞ」
家康が、低い声で警告した。
暗闇の向こう側、越前の街道の奥から、無数の松明の列がうねる蛇のように近づいてくるのが見えた。朝倉の追撃軍だ。その松明の数は、俺たちが偽装した数よりも遥かに多く、恐ろしいほどの殺気を帯びていた。
(頼む……! 騙されてくれ……!)
俺は物見櫓の欄干にしがみつき、胃の腑をギリギリと締め付けられるような恐怖に耐えながら、息を殺して祈った。
もしハッタリがバレて一斉に攻め込まれれば、数千の俺たちはすり潰される。
朝倉の先鋒部隊が、金ヶ崎城の全貌が見える位置まで進出してきた。
そして――。
「……止まりましたぜ!」
横で見ていた三太夫が、かすれた声で叫んだ。
朝倉軍の松明の群れが、城から一定の距離を置いた場所で、ピタリと前進を停止したのだ。
暗闇の中で煌々と燃え盛る異常な数の炎と、不気味に動く無数の影。
朝倉の将たちは、それを見て完全に錯覚したに違いない。
『織田の主力はまだ退却していない! 数万の軍勢が、我らを迎え撃つために手ぐすね引いて待ち構えているぞ!』と。
安易に夜襲を掛ければ、数万の織田軍の反撃に遭い、逆にこちらが大打撃を受ける。そう判断した朝倉軍は、城を遠巻きに包囲するだけで、それ以上一歩も前に進もうとはしなかった。
「……やった。ハッタリが、通じた……」
俺は膝の力が抜け、その場にへたり込んだ。全身が汗でびっしょりと濡れている。
「見事だ、茂助殿」
半兵衛が、安堵の笑みを浮かべて俺の肩を叩いた。
「敵は警戒して、夜明けまで動くことはないでしょう。これで、お館様が近江へ逃げ切るための『時間』は稼げました」
「だが、喜んでばかりはいられぬぞ」
家康が、鋭い視線を朝倉の包囲網に向けたまま言った。
「夜が明けて太陽が昇れば、陣の規模が偽装であることは一目瞭然となる。敵は我らが少数の殿部隊だと気づき、怒り狂って総攻撃を仕掛けてくるだろう」
「ええ。それに……」
光秀も、静かに火縄銃の筒先を撫でた。
「先ほども申した通り、退却戦において一番注意が必要なのは、結局のところ『城を捨てて背を向ける瞬間』だ。朝倉の大軍に見張られているこの状況で、どうやって安全に城を放棄し、追撃を振り切って山道へ逃げ込むか……。それが最大の難題だ」
俺の心臓が再び跳ね上がった。
そうだ。俺たちの目的は籠城して死ぬことではなく、時間を稼いだ後にどうやって逃げるのかなのだ。
偽装工作によって生まれた、嵐の前の静けさのような仮初の夜。
しかし、夜明けへのカウントダウンは、進んでいく。
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