第106話 魔王の撤退と、殿(しんがり)の布陣
「……浅井が裏切った。俺たちは完全に包囲されたんだ」
その絶望的な凶報は、夜の闇に乗じて三万の軍勢の間に密かに、しかし確実に広まっていった。
金ヶ崎の陣営は、数時間前までの祝勝ムードが嘘のように、重苦しく冷え切った空気に包まれていた。さっきまで酒を酌み交わして大声で笑っていた連中が、今は一言も発さず、ただ暗闇の向こうから迫り来る死の気配に怯えながら、焚き火の火を見つめて夜を明かした。
まだ空が白み始めたばかりの、湿った冷気が肌を刺す時刻。一睡もできずに目の下に真っ黒なクマを作った俺が、震える手で顔を洗っていると、本陣へ呼ばれていた大将の藤吉郎が戻ってきた。
その足取りには、いつもの猿のような軽快さは微塵もなく、まるで幽鬼のような、重く沈んだ空気を纏っていた。
「た、大将……。本陣の様子は……お館様はどうされるって……?」
俺と小一郎が、すがりつくように問いかける。藤吉郎はカラカラに乾いた唇を震わせ、重い口を開いた。
「……お館様は、越前を諦め、京へ撤退される」
「撤退! よかった、戦わずに逃げるんですね!」
俺が安堵の声を上げた瞬間、藤吉郎は静かに、しかし絶望的な響きを帯びた声で首を振った。
「三万の大軍を一度に動かしていては、浅井の軍勢に退路を塞がれる前に近江を抜けられぬ。ゆえに、お館様は少数の側近だけを連れて、今しがた、身一つで陣を抜けられた」
「は? ちょっと待って。総大将が先に逃げちゃったら、ここに残された俺たちはどうなるんだよ!?」
「殿だ」
藤吉郎は、ギリッと血の滲むような力で唇を噛み締めた。
「お館様から出立の直前、この俺に全軍の殿を託された。俺たちがこの陣の入り口に立って巨大な盾となり、味方三万が退却路を抜けるための時間を稼ぐのだ。……茂助、これは死ねという命令ではない。だが、死ぬ気でなければ一秒も持たぬ絶望の役目だ」
「し、殿ぃぃ!? 結局、俺たちが捨て駒なんじゃないか!」
「お館様の御諚だ。文句があるならここで腹を切れ。……だが安心しろ。この死地を担うのは、俺たちだけではないぞ」
藤吉郎が、陣の奥へと続く退却路の入り口を指差した。
そこには、これまで最前線で朝倉の本軍と対峙していた部隊が、急ピッチで引き返してきていた。柴田勝家、滝川一益……織田家の猛将たちが、血と泥に塗れた甲冑を鳴らし、無言のまま退却路へと吸い込まれていく。
彼らは歴戦の精鋭だ。ここでパニックを起こせば全滅すると、本能で理解している。だからこそ、恐ろしいほどの統率で整然と動き出していた。逆にその「誰も口を開かない不気味なまでの静けさ」が、俺の心にリアルな死の恐怖を植え付けた。
「ご苦労でござった! 後は我らに任せて撤退するんじゃ!」
藤吉郎が声を張って見送る中、退却する部隊の中から、一つの軍勢が足を止めた。
「……木下殿。殿の役目、私の軍勢も共に担おう」
火縄銃を携え、涼しい顔で現れたのは明智光秀だった。
「撤退戦は鉄砲が要。我が明智の銃隊が、木下殿の矛となりましょう」
「おお、明智殿! かたじけない!」
藤吉郎が深く頭を下げる。
そうして次々と味方の部隊が退却路に吸い込まれていき、日がすっかり高くなった頃。
ドッドッドッ……と、腹の底に響くような重々しい足音が、金ヶ崎の奥から近づいてきた。
殿を務める俺たちを除けば、それが一番最後に退却してきた部隊だった。薄汚れた甲冑を身に纏いながらも、その足取りには一切の乱れがない。
その軍勢の先頭に立っていた屈強な武将が、藤吉郎の前で足を止めた。
「木下殿。我ら徳川軍、これにて最前線より引き揚げた。……ここからは協力し、全軍が無事に近江を抜けるまで、しんがりの務めを共に果たそうぞ」
同盟国の総大将・徳川家康は、歴戦の凄みを漂わせた顔で馬を降りた。
俺は、藤吉郎の後ろからその徳川家康という男の顔を、しげしげと覗き込んだ。天下を取るタヌキ親父のイメージとは違う、若々しく、だが腹の底が見えない精悍な武将。
(……ん? なんか、この顔、どこかで見たことあるような……)
俺が首を傾げていると、不意に家康の視線が俺の顔でピタリと止まった。
「……お主。もしや数年前、清洲城の裏庭で、私に『白湯』をくれた男か?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏の記憶がフラッシュバックした。
織田家とどっかの同盟の儀式の日。殺気立つ織田の空気に呑まれ、裏庭でストレス性の胃炎を起こして吐きそうになっていた、あの青白い顔の気の毒な若武者。
俺が白湯を飲ませて、「無様でも生きて帰るのが一番の勝ち組ですよ」とニート理論で説教をして励ました、あの気の弱い男!
「えっ……? あ、あんた、あの時の胃痛の!? あんたが、あの徳川家康だったの!?」
俺が素っ頓狂な声を上げると、家康はフッと口元を綻ばせた。
「あの節は世話になった。……お主の『無様でも生きて帰れ』という言葉、今でも私の胸に深く刻まれておるぞ。尾張の殺気に呑まれかけていた私を救った、あの白湯の温かさがなければ、私は今、ここに立っていなかったやもしれぬ」
「いやいやいや! 俺、あの時、天下人に向かってすげえ上から目線で説教して……!」
「天下人? 何を言うか。私はただの三河の田舎侍よ」
家康は短く笑うと、すぐに厳しい武将の顔へと戻り、藤吉郎に向き直った。
「木下殿。撤退戦となれば、一番前が一番後ろになる。逃げる味方の背中を敵に撃たせるような真似は、三河武士の誇りが許さぬ。我らも、しんがりを手伝う。……さあ、軍議だ。一刻を争う」
家康、光秀、そして藤吉郎。
後世の歴史を知る者からしたら、信じられないほどの超スター軍団による奇跡の殿部隊の結成だったが、俺はそんなことを知る由もない。
三人は即座に地面に図面を広げ、三万の全軍を逃がすための最強の盾を構築し始めた。そこにあるのは、友情や絆といった綺麗事ではない。
「どうすれば敵を最も効率よく足止めし、自分たちの生存率を上げられるか」という冷徹な戦術のすり合わせだ。
「まず、射程の長い鉄砲を持つ我が明智軍が、高台や木陰に伏せて追っ手を狙い撃ちにする。これが第一の阻止線だ」
光秀が、冷たいほど冷静に兵を配置していく。
「その鉄砲隊が弾込めのために引く隙を、我ら徳川の歩兵が槍衾で埋めよう。三河武士の壁を抜くのは、朝倉の精鋭とて容易ではないぞ」
家康が力強く頷く。
(よかった……! 家康も光秀も残ってくれるなら、俺たちの部隊の生存確率はグッと上がる! 俺たち木下組の荷物部隊は、一番前に陣取って、こっそり安全に逃げさせてもらおう!)
俺が密かに安堵した、その直後だった。
「……そして」
藤吉郎が、最後に俺を振り返り、逃げ場のない現実を突きつけた。
「光秀殿の銃が火を噴き、家康殿の槍が敵を弾き返す。だが、敵は機動力に勝る騎馬隊だ。必ずどこかで綻びが出る。……その綻びを埋め、敵の刃が最初に届く一番最後には、我ら木下軍が立つ!」
「一番、最後……?」
俺は血の気が引くのを感じた。
「茂助。お前らの引いている荷車は、この狭い山道では何よりのバリケードになる。お前たちはもともと、補給路に一番近い最後尾に配置されていた。戦もせずな。……分かるな?」
いや、荷車なんて置いて逃げるでしょ……。
その言葉が俺の首を絞める。
昨日まで「一番後ろを歩くだけの遠足だ」と喜んでいたことが、撤退戦に反転した今、そのまま「敵に一番近い死地に取り残される理由」になったのだ。
「光秀殿、徳川殿と密に連携し、一軍が引くときには一軍が支える。そうして波のように交互に退きながら、敵を足止めするのだ。……茂助、お前の力で、この退却戦に時間を作れ。一人でも多くの味方を近江へ帰すのだ。よいな!」
家康も、俺の目をじっと見つめている。
協力して頑張る? そんな生温いもんじゃない。これは「一陣が崩れたら全員死ぬ」という、地獄の連帯責任だ。俺たちが背中を見せれば、徳川も明智も、逃げていくお館様も全滅する。
俺は震える手で、荷車の取っ手を握り締めた。
余裕の遠足気分は完全に消え去り、俺は戦国史上最も過酷な、三軍協力による決死の撤退戦へと、その一翼を担わされることになった。
「……了解ですよ。無様でも、泥をすすってでも、生きて帰ってやりますよ!」
俺が半泣きで叫び、腹を括ったその瞬間。
越前の深い山影の向こうから、朝倉軍の猛烈な追撃を知らせる不気味な法螺貝の音が、大地を揺らして響き渡った。
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