第105話 途絶えた兵站と、小豆袋の使者
「いやー、よく寝た。やっぱ勝利が確定してる陣中での昼寝は格別だなあ」
目を覚ますと、すでに空は茜色に染まり、日本海に沈みかける夕日が金ヶ崎の海をキラキラと照らしていた。
波の音に混じって、あちこちから兵たちが談笑する声や、夕飯の支度をする美味そうな匂いが漂ってくる。完全な平和。完全な祝勝ムードだ。
俺は大きなあくびをして立ち上がり、背伸びをしながら木下組の陣へと歩き出した。
「腹減ったな……。おい三太夫、今日の夕飯の炊き出しはなんだ? 海の近くだし、そろそろ干物か海鮮でも……って、お前らどうした?」
俺は俺の天幕の入り口で、思わず足を止めた。
薄暗い天幕の中で、実務・兵站担当の小一郎と、軍師の竹中半兵衛が、分厚い帳簿を開いたまま石像のように固まっていたのだ。
二人の顔色は、夕焼けに照らされているのに抜けるように青白い。いや、よく見ると小一郎の額からは、滝のような冷や汗がダラダラと流れ落ちていた。
「……茂助殿。起きてこられましたか」
「お通夜みたいな顔してどうしたんだよ。お館様に怒られでもしたのか?」
俺がヘラヘラと笑いながら近づくと、小一郎は震える手で帳簿の一箇所を指差した。
「……茂助殿。二日前から、背後の近江から来るはずの兵糧の補給が、一粒たりとも届いていないのです。完全に無音です」
「は? 補給が? ……ああ、なんだ。そんなことか」
俺は鼻で笑って、手をヒラヒラと振った。
「三万の大軍だぜ? 街道が渋滞してるとか、商人たちが荷車を手配するのに手間取ってるとか、そういう遅れだろ。ちょっとくらい飯が遅れても、俺たちには手持ちの飯もあるんだから大丈夫だって。だいたい、荷物が数日遅れるなんて、現代の宅配便だってたまにあることだし……」
「……違うのです、茂助殿」
半兵衛が、氷のように冷たい声で俺の言葉を遮った。
「たかが渋滞や手配の遅れで、三万の軍の兵站が完全に止まることなど、軍事上あり得ないのです。茂助殿、三万の人間が一日で消費する食糧の重さがどれほどかご存知ですか?」
「え? まあ、結構な量だとは思うけど」
「米だけでも、一日に百石。荷車にして数十台分が毎日消費されていくのです。大軍の兵站とは、絶え間なく流れ続ける大河と同じ。川の水位が下がることはあっても、ある日突然、川底がカラカラに干上がることなど、自然界では絶対に起きません」
半兵衛は、すっと目を細め、背後――俺たちが歩いてきた近江への退路の方角を睨みつけた。
「それが、二日前にピタリと止まった。……この状況が意味する論理的な結論はただ一つです」
「な、なんだよ。脅かすなよ」
「我々の背後を守っているはずの浅井殿の領地で、何かが起きているということです。……それも、意図的に」
「はぁ? 意図的にって……浅井殿はお館様の義理の弟で、ガチガチの同盟国だぞ? 通してくれないなんて、そんなわけ……」
俺のポンコツな脳が、その言葉の恐ろしい意味を理解する前に。
陣の入り口の方から、信じられないほどの剣幕で怒鳴り声が響き渡った。
「道を空けいッ! 小谷より、お市の方様からの急使であるッ!!」
「えっ?」
俺たちが天幕から飛び出すと、泥まみれになり、息も絶え絶えになった使者の男が、織田の本陣へ向かって転がり込むように走っていくのが見えた。
馬を乗り潰し、自分の足で死に物狂いで山を越えてきたのだろう。着物はボロボロに引き裂かれ、その手には、泥に汚れた小さな麻袋が大事そうに握りしめられている。
「お市の方様から、急使!?」
小一郎が弾かれたように立ち上がった。
嫌な予感がする。俺の背筋に、冷たい汗がツーッと流れ落ちた。
周囲で談笑していた兵たちも、ただならぬ使者の様子に気づき、ザワザワと不穏な空気が広がり始めた。
俺たちは本陣の天幕の近くまで駆け寄り、息を殺して中の様子を窺った。
中からは、信長様の側近たちの怒号や、何かが床に叩きつけられるような鈍い音が聞こえてくる。
数分後。
本陣の軍議から、大将の藤吉郎殿が、この世の終わりでも見たかのような真っ青な顔で飛び出してきた。
「た、大将! どうしたんですか! お市の方様からの使者って……!」
俺と小一郎が駆け寄ると、藤吉郎はガタガタと震えながら、ひきつった声で叫んだ。
「終わった……! 浅井長政が裏切った!!」
「は……?」
俺の思考が完全に停止した。
「う、裏切ったって……なんで!? だって、お市様と結婚して、織田とは強固な同盟を結んでるはずだろ!? 義理の弟じゃないか!」
「おそらく親父だ! 長政の親父である浅井久政が、朝倉家との旧交を優先し、織田を背後から討つことを決断したに違いない!」
藤吉郎は頭を抱え、半狂乱のように喚いた。
「お館様も最初は『義弟が裏切るはずがない』と信じようとされなかった。だが……お市様からの使者が持ってきた『陣中見舞い』を見て、すべてを悟られたのだ……!」
「陣中見舞い? まさか、あの泥だらけの麻袋ですか?」
小一郎が尋ねると、藤吉郎は血走った目で頷いた。
「そうだ。お市様から届けられたのは、『両端を紐で固く縛られた、小豆の入った袋』だ……!」
「……小豆袋?」
俺が首を傾げると、横にいた半兵衛が、絶望に顔を歪めて静かに呟いた。
「……なるほど。前は朝倉、後ろは浅井。両端を縛られ、完全に逃げ場のない袋のネズミ。……お市様は、兄であるお館様に、我々が置かれた絶望的な状況を暗号として伝えてくださったのですよ」
(……袋の、ネズミ……?)
俺の脳裏で、これまでの余裕のピクニックの前提が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
俺たちが攻め込んでいた前方の敵、朝倉義景の本軍。
そして俺たちの背後、補給路であり帰り道である近江を完全に塞いでしまった、浅井長政の大軍。
前を向けば朝倉。後ろを向けば浅井。
地形的にも、金ヶ崎は日本海と険しい山々に囲まれた袋小路だ。
この山奥で、三万の織田・徳川連合軍は、完全に退路を断たれて包囲されたのだ。
「う、嘘だろ……」
俺は、膝の力が抜けてその場にへたり込みそうになった。
「最強の布陣じゃなかったのかよ……。前はバケモノの味方で、後ろは身内だから、絶対に負けようがないって……」
「これが乱世です、茂助殿」
半兵衛が、冷酷なまでの事実を俺に突きつけた。
「絶対の味方など、この世のどこにも存在しない。昨日の身内は今日の敵。……我々は今、史上類を見ないほどの、完全にして最悪の死地に立たされているのです」
浅井裏切りの凶報は、あっという間に三万の軍勢の間に広まっていった。
数分前まであちこちから聞こえていた笑い声は完全に消え失せ、代わりに聞こえてくるのは、絶望の悲鳴と、恐慌をきたした兵たちの怒号だけ。
陣中の祝勝ムードは、一瞬にして、息も詰まるような冷たい死の静寂とパニックへと変わった。
越前への楽しい遠足は終わった。ここから先は、俺のようなポンコツには到底生き残れない、本物の地獄のサバイバルが始まるのだ。




