第104話 越前への遠足と、最強の布陣
「いやー、いい天気だなあ。空は青いし、風は涼しいし、山歩きには絶好の日和だぜ」
木々の緑が眩しい越前の山道。
越前って福井県あたりか。なんか観光地あったかなー?
俺はガタガタと揺れる荷車の上にドカッと腰を下ろし、水筒の水を美味そうに飲み干しながら、最高に緩みきった顔で空を見上げていた。
「若。荷車の上で寝転がるのはやめてくだせぇ。ここはもう敵地のど真ん中ですよ。いつ木立の中から朝倉の兵が奇襲を仕掛けてくるか分からねえんですから」
先陣を歩く三太夫が、周囲をギョロギョロと警戒しながら呆れたように言った。
その後ろでは、俺たちが徹夜で作成した小型気球の束が、別の荷車にうず高く積まれている。
「心配性だなあ。それに、歩くのしんどいんだよ。俺は現場監督として、上からお前らの疲労度をチェックしてやってんだ。馬は馬で疲れるし」
「ただサボってるだけじゃねえですか! 少しは緊張感を持ってくれよ。いくらなんでも舐めすぎだ!」
「大丈夫だって。おい但馬、今回の俺たちの兵数と陣立て、どうなってたっけ? 三太夫に教えてやってくれ」
俺が水を向けると、側を歩いていた但馬が、生真面目な顔でスラスラと答えた。
「はっ。お館様の直属軍に加え、今回は三河から同盟国の徳川家康殿が自ら精鋭を率いて合流しており、総勢三万の大軍にございます」
「え!? 味方に徳川家康いんの!?」
俺が素っ頓狂な声を上げると、但馬と三太夫が思い切り怪訝な顔をして振り返った。
「は? 何を今更……。京を出立した時から、ずっと共に進軍しておりますが」
「若、まさかここまで数日歩いてきて、味方の顔ぶれすら知らずに歩いてたんですかい……?」
「い、いやいや! 知ってたよ! ちょっと再確認しただけだって!」
俺は必死に手を振って誤魔化しながら、内心で冷や汗をかいていた。
(マジかよ! あの『徳川家康』!? 流石の俺でも、タヌキ親父の顔の肖像画と名前くらいは知ってる超絶メジャーな天下人じゃねえか!)
俺のポンコツな脳細胞がフル回転し始める。
(……あれ? ちょっと待てよ。家康が信長様と同じ時代に生きてて、味方として一緒に戦ってるなら、なんで江戸幕府は徳川なんだ? 信長様って途中で病死でもするのか? え、その前に江戸幕府? だったら義昭様はどうなんだ? あれ?豊臣秀吉は? 信長様は? ……うーん、全然思い出せん! 天下人多すぎんだろ)
五秒考えた結果、俺は歴史の矛盾を考えるのを完全に放棄した。
(まあいいや! とにかく今は、あの家康が同盟国として一緒に戦ってくれてるんだ。これ以上心強い味方はいない!)
「お、おう! とにかく、あの家康がいるならガチ度が違うっての! で? 先陣の様子はどうなってる?」
俺が咳払いをして尋ねると、但馬が再び報告を続けた。
「どの家康かどうかは知りませんが……。先鋒の柴田勝家殿や滝川一益殿の猛攻は凄まじく、すでに朝倉の防衛拠点である『手筒山城』を瞬く間に陥落させ、その勢いで隣の『金ヶ崎城』も降伏させたとの知らせが入っております」
「だろ!? 最前線の激戦区は、バケモノみたいな猛将たちが全部片付けてくれてるんだよ! ……で、俺たち木下組の配置はどこだ?」
「一番後ろ、しんがりでの荷物運びにございます」
「その通り! じゃあ三太夫、俺たちの背後は誰が守ってくれてる?」
俺がドヤ顔で尋ねると、三太夫が顎を撫でながら答えた。
「お館様の妹君の旦那様……お館様の義弟にあたる、浅井長政殿の軍勢が、自国へのルートをガッチリと固めておりますが」
「そこだよ!」
俺は荷車の上でバチンと指を鳴らした。
「前は最強の織田・徳川連合軍、後ろは身内の浅井軍。負ける要素が一つもねえ最強の布陣なんだよ! 俺たち下っ端の役目は、前線のバケモノどもが通って安全になった道を、のんびり荷物を引きながら歩くだけ。こんなの、ただの越前への遠足じゃねえか!」
俺は荷車の上に大の字に寝転がり、勝利を確信した高笑いを上げた。
桶狭間の戦い、墨俣一夜城、本圀寺での戦い、伊勢での攻城戦。これまで俺は、常に死の危険が迫る最前線のブラック労働を強いられてきた。だが今回は違う。超ホワイトな後方支援なのだ。
「……なるほど。お市様の旦那様が背後を守ってくれているなら、たしかに安心ですな」
三太夫たちも「まあ、若が言うなら……」と肩の力を抜き、木下組の最後尾部隊は、どこか気の抜けた緩やかな空気のまま、初夏の越前の山道を進んでいった。
***
数日後
「ふう、着いた着いた。ここが金ヶ崎城か」
俺たちは、無血開城されたばかりの金ヶ崎城に到着した。
日本海を見下ろす小高い山に築かれた城郭には、すでに数万の軍勢がひしめき合って入り込み、周囲は完全に勝ったも同然という祝勝ムードに包まれていた。
戦の血生臭さはすっかり潮風に流され、あちこちから兵たちが酒を飲んで談笑する声が聞こえてくる。
「おい茂助! 遅かったな!」
陣を張る場所を探していると、本陣から大将の藤吉郎が、顔を真っ赤にして上機嫌で歩いてきた。
「お館様はもう、次の朝倉の本拠地一乗谷攻めの軍議に入っておられる。あっという間に越前を平らげてしまうおつもりだぞ! 俺たちも遅れを取るわけにはいかん、しっかりと荷を降ろして次の進軍に備えよ!」
「はーい、大将。じゃあ三太夫、適当にその辺に陣を張って、飯の準備でもしてくれ。俺はちょっと昼寝するわ」
「若、さすがに本陣の近くで昼寝はマズいんじゃ……」
「いいんだよ。どうせ明日の朝には出発なんだろ? 英気を養うのも仕事のうちだ。俺は現場監督だから、明日の遠足に向けて体力を温存しとかないと」
俺は荷車からヒョイと降りると、陣の隅に生えていた大きな松の木の陰に腰を下ろした。
遠くから波の音が聞こえる。初夏の心地よい海風が、火照った顔を撫でていく。
最強の布陣。強力な同盟軍。絶対に背後を突かれないという究極の安心感。俺の戦国サバイバル人生の中で、ここまでストレスフリーな戦場は初めてだった。
「……最高だ。このまま楽に勝って、たっぷり恩賞もらおっと。俺の戦国ニート生活も安泰だな……」
俺は満足げに呟き、頭の後ろで腕を組んで目を閉じた。
波の音を子守唄に、俺は最高に気持ちのいい微睡み(まどろみ)の中へと、ゆっくりと落ちていった。
だが。
そんな呑気な祝勝ムードに沸く木下組の陣営の中で、ただ二人だけ。
「……小一郎殿。これはいかがなものでしょう」
「ええ、半兵衛殿。私も昨晩から、どうにも嫌な汗が止まらなくてですね」
俺が呑気にいびきをかいて昼寝をしている、そのすぐ横の薄暗い天幕の中で。
軍師の竹中半兵衛と、実務・兵站担当の小一郎だけは、誰よりも早く致命的な違和感に気づき、血の気の引いた顔で分厚い帳簿を睨みつけていたのだった。
「茂助殿は安全な遠足などと仰っていましたが……数字は残酷な真実を語っています」
半兵衛が、氷のように冷たい指で、帳簿の一箇所をトントンと叩いた。
「この三万の大軍を養うための、背後の近江からの兵糧の補給。それが……二日前から、滞っています。」
「はい。街道の詰まりや、手配の遅れといった次元の数字ではありません」
小一郎が、脂汗を拭いながら声を震わせた。
「大軍の兵站とは川の流れと同じ。細ることはあっても、このように不自然に完全に干上がることなどあり得ないのです」
二人の天才的な実務家の導き出した結論は、ただ一つだった。
「我々の背後を守っているはずの浅井長政殿の領地で、何かが起きている……」
半兵衛は、すっと目を細め、背後――俺たちが歩いてきた近江への退路の方角を睨みつけていた。
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