第103話 共同研究と、現実の壁
夜空へと浮かび上がった気球の成功から数日後。
俺は竹中半兵衛の屋敷に呼ばれ、書斎の机に広げられた巨大な図面を前にして、二人で深く腕を組んでいた。
「……計算すればするほど、途方もない数字になりますな」
半兵衛が、図面の端に書き込まれた数式を細い指でなぞりながら、重い口を開いた。
「大人一人と火鉢の重さ、およそ二十貫を持ち上げる浮力を得るには、昨晩飛ばした袋の数倍……直径にして三丈近い巨大な球体が必要となります」
「一丈って3メートルぐらいだったよな。直径9メートルか……」
俺は顔をしかめた。
「ええ。問題はここからです。それほど巨大な袋を作るための美濃和紙の量。そして、風抜けを防ぎ、燃え広がらないようにするためのコンニャク糊と柿渋の量。これらをすべて集めるとなると、私の懐など一瞬で吹き飛びます」
「袋をデカくすればするほど、風の抵抗をモロに受ける。上空の強い風に煽られても破れないようにするには補強しなきゃいけない。でも、そうやって補強すればするほど機体は重くなって、さらにデカい袋と強い火力が必要になるっていう悪循環ってことか」
「仰る通りです。美濃和紙の強度は素晴らしいですが、それでも火鉢の熱と風の圧力に耐えるには限界があります。もし上空で袋が燃え、あるいは破れれば、乗っている者はひとたまりもありません」
「パラシュートなんて俺たちにはないしな。墜落イコール即死だ」
「さらに、搭乗員が焼け死なないための吊り下げ構造の検証や、火源の安定化……。これはもはや、我々個人の力でどうにかなる領域ではありません。一国を挙げて職人と物資を総動員するほどの国力が必要です」
俺と半兵衛は顔を見合わせた。
人が乗る空飛ぶ兵器。夢のある話だが、今の俺たちの立場と資金力では、物理的にも兵站的にも現実的な壁が立ちはだかっていた。
「残念ですが……有人による空からの偵察という構想は、一旦棚上げにするしかなさそうです」
半兵衛が少し悔しそうに図面を丸めようとした。
「……いや、待てよ」
俺はふと、丸められる図面を指で押さえた。
「人が乗るのが無理なのは分かった。なら、いっそ『提灯』くらいのサイズまで、極端に小さくしちまえばいいんじゃないか?」
「提灯ほどの小気球……ですか? それでは何も運べませんが」
「ああ、偵察は諦める。だが、空に浮かんで光るという特性だけを活かすんだ。例えば、夜の山越えや、離れた味方の陣営同士で連絡を取り合う時の『狼煙』の代わりにする。火の色を変えたり、上げる数を調整すれば、遠くからでも確実に見えるだろ」
俺の提案に、半兵衛の目が微かに光った。
「なるほど……。あなた本当に茂助殿ですか? 夜間は煙が見えず狼煙が使えませんが、これなら暗闇でも確実に味方に合図を送れる。提灯程度の大きさであれば、少量の和紙と竹ひごだけで済み、木下組の予算でも十分に量産が可能です」
半兵衛は顎に手を当て、軍師としての冷徹な思考を巡らせ始めた。
こいつ何か失礼なこと言わなかったか?
「通信だけでなく、直接的な撹乱にも使えますね。小型気球を大量に作り、風向きを読んで敵陣の頭上へ一斉に放つ。夜の空から未知の火の玉の大群が現れたら、いかなる精鋭だろうと陣の統率を保つのは不可能です」
「だよな。パニックを起こすには十分すぎる」
「ええ。人が乗れないのなら、純粋な道具として割り切る。素晴らしい実用性です」
俺と半兵衛は、互いの意見をすり合わせ、明確な結論を出した。
不可能に近い有人気球の夢を追うのではなく、現実的で、かつ戦局を左右できる兵器――大量の伝令・撹乱用気球の開発と量産へ方針をシフトする。
「では茂助殿、さっそく素材の調達と量産体制に入りましょう。次の戦までに、最低でも二百は揃えておきたい」
「わかった。うちの暇な連中を総動員して、竹の切り出しと紙貼り作業をやらせるよ」
こうして俺たちは、お互いの知恵と現実的な判断を持ち寄り、静かに、だが確実に次なる戦へ向けた準備を進めていった。
***
それから十数日後。
「いてっ! ……若ぁ、なんで俺たちがこんな町人みたいな内職をさせられてるんでさぁ? 竹のささくれが指に刺さって痛いぜ」
三太夫が、指先を舐めながら恨めしそうにぼやいた。
「文句言うな。これは次の戦で俺たちの生存率を上げる、大事な秘密兵器なんだよ」
「秘密兵器……この丸い提灯のお化けがですか?」
但馬が、手元の竹ひごで作った骨組みに糊を塗りながら、真剣な顔で首を傾げた。
「戦の役に立つとは到底思えませぬが……しかし、吉晴殿の御思案ならば必ずや神算鬼謀の類い。この但馬、精魂込めて和紙を貼らせていただきますぞ!」
(……いや、こいつ相変わらず重いな)
「兄上! できました! ちょっと形がいびつですが!」
「おお、上出来だ氏光。飛べば何でもいいんだよ」
「茂助様、コンニャク糊の消費が想定より早いです。美濃の紙すき職人に追加発注をかけますか?」
「頼む、勘兵衛。予算内に収まるようにな」
屋敷の庭先に積み上げられた、折りたたまれた小型気球の束を確認しながら、俺は額の汗を拭った。
木下組の荒くれどもに糊塗りと竹曲げの作業を仕込ませるのは骨が折れたが、極小サイズにスケールダウンしたおかげで、なんとか形にはなってきた。
「……よし、これで百五十個目だ」
「おーい、茂助殿! 準備はできているか!」
そこへ、藤吉郎の弟である小一郎が、足早に屋敷の門をくぐってきた。
「……ぐっ、小一郎様。し、借金ならもう少し待ってくれ!」
「いや、そうじゃない。お館様から、大動員の陣触れが下った! 目標は越前・朝倉義景。我が木下組も全軍出陣だぞ!」
「ついに来たか」
俺はパンパンと手を払い、立ち上がった。
越前の朝倉攻め。確か、伊勢の北畠に負けず劣らずのすごい名門で、引きこもってるお坊ちゃん大名だっけ?
「今回の規模は?」
「数万の圧倒的な大軍だ。お館様の直属軍だけでなく、畿内の諸将や同盟衆も続々と合流する手はずになっている。かつてない規模の総力戦になるぞ」
数万の大軍。その響きに、俺は内心で大きく安堵の息を吐き出した。
(なんだ、なら楽勝じゃないか)
圧倒的な兵力差。数万の軍勢で攻め込むなら、数の暴力で簡単に押し潰せるはずだ。それならば、俺たちのような木下組の下っ端が、最前線の激戦区で槍を突き合わせる機会などほとんどないだろう。
「よし、そういうことならサクッと終わらせてこようぜ。おい三太夫、この作り貯めた『小型気球』も、荷車に積んでおけ。向こうで何かに使えるかもしれないからな」
「へいっ! 越前の山ん中で、敵の頭にこいつを落として陣を燃やしてやりやすぜ!」
「馬鹿。そんな危ない最前線に俺たちが行くわけないだろ。今回は大軍のケツにくっついて歩くだけの、楽な遠足なんだからな。安全な場所で越前ガニでも食って帰ろうぜ」
俺は上機嫌で鼻歌を歌いながら、半兵衛と共に開発した大量の小型気球を荷車に積み込んだ。
数万の大軍で行く、安全な越前出兵。
俺の戦国サバイバルも、ようやく余裕のあるホワイトな職場環境になってきたようだ。久しぶりに、胃薬のいらない気楽な出陣になりそうだぜ!
俺は、今度こそ安全が約束されたはずの戦に向けて、意気揚々と出陣の準備を進めるのだった。
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