第102話 七色のバイオハザードと、天才・竹中半兵衛の灯り
「……よし。こんなもんか」
自室の薄暗い片隅で、俺は息を殺しながら、すり鉢で潰した里芋の煮汁が入った陶器の壺に、青カビの生えた餅を慎重に放り込んだ。
昔見た医療ドラマの記憶によれば、ペニシリンという奇跡の薬は、芋の煮汁で青カビを培養して作るはずだ。
無菌室も濾過装置もないが、とにかくカビを増やせばなんとかなるだろう。ゲームでも「やくそう」と「どくけしそう」を錬金釜に入れれば勝手に特効薬になるのだ。現実も気合でどうにかなる。
「フフフ……。育て、俺の借金返済の要。そして俺の命を守る奇跡の万能薬よ……」
俺は壺に木蓋をして、暗所に安置した。
あとは数日待てば、壺の中に純白の美しいペニシリンの海が広がっているはずだ。
***
五日後。
「……なんか、部屋の奥から死んだ野良犬みたいな匂いがするんですが」
様子を見に来た三太夫が、鼻をつまみながら顔をしかめた。
「馬鹿野郎、これが『良薬口に苦し』ってやつだ。匂いが強いほど効き目があるはずだ」
俺は手ぬぐいで口を覆いながら、期待に胸を膨ませて壺の蓋を開けた。
「さあ! 見せてみろ、俺の奇跡の……うぐっっっ!?」
開けた瞬間、目と鼻の粘膜を強烈な刺激臭がぶん殴ってきた。
壺の中は、青色どころではなかった。
赤、黄色、緑、そして正体不明のドス黒い粘液。里芋の煮汁は完全に腐敗し、あらゆる雑菌とカビが生存競争を繰り広げた結果、『七色に輝くスライム状の腐海』が完成していたのである。
「うおおおっ!? なんだこりゃあ! 目が……目が痛え!」
三太夫が涙を流しながら後ずさったが、すぐにその目をギラギラと輝かせた。
「すげえ……! 若、こいつぁとんでもねえ猛毒ですぜ! これを敵陣の井戸に放り込めば一網打尽に……!」
「ちげえよ! ここから奇跡の万能薬『ペニシリン』を抽出するんだよ! えーっと、ここからどうするんだっけ……」
俺は腕を組み、記憶を掘り起こした。
……。
…………。
「……あれ?」
ドラマの主人公は、たしか油や炭などを使って、なんか濾過したり抽出したり分離したりを繰り返していたはずだけど……。
「濾過……? 抽出……精製……? 油? 炭? 分量……?」
専門的な化学知識など一切ないニートの脳味噌から、都合よく詳しい製造工程が湧いてくるわけがない。
「若? どうしたんで?」
三太夫の問いかけに俺はハッと現実に戻ってきた。
「ええと、……わかんねえけど、布で濾したりでなんとかならないかな?」
「若……いくらなんでも、それは違うような気がするぜ」
俺は愕然とした。
その後の作業のことなんて何にも考えてなかった。いつものなんとかなるの精神だけで、ただのカビを量産しただけだ。
「これじゃあ、いつもと一緒じゃねえか……」
俺が己の浅はかさに絶望して膝から崩れ落ちていると、障子がピシャァン! と開いた。
「あなた様。この屋敷中に立ち込める、三途の川の底のような悪臭はなんですか」
薙刀を手にした妻の桔梗が、一切の感情を排した能面のような顔で立っていた。
「き、桔梗……。これはその、医療の発展のための尊い犠牲というか……」
「三太夫。今すぐその壺ごと、裏山に深く深く埋めてきなさい。……あなた様は、その猛毒への耐性をつけるため、今から滝に百回打たれていただきます」
「ヒィィィィッ!! す、すぐに廃棄しますぅぅぅぅっ!!」
俺の『ペニシリン・プロジェクト』は、ただの猛毒バイオハザードになるという過酷な現実の前に、嫁の物理的圧迫によって無惨に打ち砕かれた。
今までと全く同じ流れじゃん。
いや、わかってた。わかってはいたが……。
俺の医療チートへの道は、完全に閉ざされたのだった。
***
「……もう嫌だ。俺には何もない。いや、ただ小一郎への莫大な借金があるだけだ……」
その日の夕暮れ。
俺は屋敷の縁側に座り込み、枯れ木のように黄昏ていた。
現代のニートの薄っぺらい聞きかじり知識では、戦国時代で知識チートなど絶対に不可能だったのだ。思い知った。
いや、何度失敗したらわかるんだと、本当に自分をぶん殴ってやりたくなった。そうだ、俺は大人しく、コソコソ逃げ回って生きるしかない凡人なのだ。
「――おや、随分と塞ぎ込んでおられるご様子」
不意に、庭の入り口から穏やかな声が聞こえた。
顔を上げると、軍師の竹中半兵衛が、微かに笑みを浮かべて立っていた。
「なんだよ半兵衛……。俺は今、己の無知と無力さに打ちひしがれているんだ……。お前みたいな天才とは違うんだ。放っておいてくれ……」
「小一郎殿から厳しく叱責されたとか。心中お察しいたします」
半兵衛は事もなげに言いながら、ツカツカと縁側に近づいてきた。
「ですが、いつまでも下を向いていては気も滅入るでしょう。どうです、気分転換に少しばかり夜風にでも当たりに行きませんか?」
「散歩? 行かねえよ、疲れてんだよ」
「まあそう仰らず。茂助殿の曇った心を晴らすため、ささやかな気晴らしをご用意いたしましたので。さあ」
有無を言わさぬ半兵衛の笑顔に強引に引っ張られ、俺は渋々屋敷を出た。
二人で並んで、城下の外れへと続く夜道を歩く。
完全に日が落ちた周囲は薄暗く、虫の声だけが響いていた。
「……で、どこ行くんだよ。こんな暗いのに」
「すぐそこです。そういえば茂助殿。先日、古の唐土の記録を読んでいた折、ふと面白い記述を見つけましてね」
「あ? もろこし?」
「ええ。蜀という国に諸葛孔明という天才がいたのは、茂助殿でも御存知のところと思いますが、かの天才が発明したと伝わる、『孔明灯』という通信の道具です。紙の袋の中で火を焚き、その熱で空に浮かべるというもの」
「……」
「その記述を読んだ時、私はかつて茂助殿が『お祭りの思い出話』として語られたお伽話を思い出したのです。――熱い空気を袋にパンパンに溜め込むと、空気が勝手に上に行こうとして空に浮き上がるという、あの話を」
「古い理と、貴殿がもたらした新たな叡智が交わる時、人はどのような景色を見るのか……私にはどうしても、それを確かめてみたくなりましてね」
半兵衛の言葉の意図がサッパリ分からないまま、俺たちは城下を抜け、長良川にほど近い広い河原へと出た。
目の前には、視界を遮るように小高い土手が横たわっている。俺たちはその土手の下、つまり低い位置で足を止めた。
「ここで何すんだよ。土手しか見えねえぞ」
「ちょうど良い頃合いです」
半兵衛は土手を見上げたまま、スッと懐から扇子を取り出し、夜空に向けてパチンと開いて見せた。どうやらそれが、誰かへの合図だったらしい。
数秒の静寂。
土手の向こう側――俺たちのいる低い位置からは完全に見えない、丘の向こうの斜面の下から、ボソボソとした人声と、カチャカチャという微かな物音が聞こえてきた。
「なんだ? 向こう側に誰かいるのか?」
俺が首を傾げた、その直後だった。
――ゴオォォッ!!
土手の向こう側から、突如として空気を震わせるように火の音が響いた。
「うおっ!?」
火事かと思って俺が後ずさった瞬間、見上げている土手の稜線が、強烈なオレンジ色の光によって背後からフワッと縁取られた。
だが、煙が立ち昇るわけでも、炎が直接見えるわけでもない。
土手の向こう側から、俺たちの頭上に向かって、大きな何かが、ゆっくりと、音もなくせり上がってきたのだ。
「……えっ?」
俺は息を呑んだ。
それは、夜の闇を切り裂くように現れた、大きなドームだった。
燃え盛る炎を内側に宿し、黄金色に輝く巨大な釣鐘型の何かが、視界を遮っていた土手の頂上を越えて、少しずつ、少しずつ夜空へと浮かび上がってくる。
パァッ、と。
巨大な光の玉の全貌が土手の向こうから完全に姿を現した瞬間、俺と半兵衛の顔が真昼のように明るく照らし出された。
「こ、これは……!?」
俺は腰を抜かし、土手の上を静かに通り過ぎていくソレをポカンと見上げた。
高さ数メートルはあろうかという分厚い袋。その下には煌々と燃え盛る炎。重力という概念を置き忘れたかのように、それはゆっくりと、だが確実に上空へと昇っていく。
(巨大な袋……下から火を焚く……空に浮かぶ……)
俺のポンコツな脳裏に、かつて半兵衛の書斎で思い出話として語った記憶がフラッシュバックした。
『――熱い空気をパンパンに溜め込むと、空気が勝手に上に行こうとして、フワ〜って空に浮き上がるんですよ』
「まさか……ウソだろ。これ……気球じゃねえか……!?」
俺の呆然とした呟きを聞き、黄金の光に照らされた半兵衛が、感極まった顔で俺の方を振り返った。
「見事でしょう、茂助殿! かつて貴殿が何気なく語られたあの『お伽話』……私がこの手で、現実に引きずり出してみましたぞ!」
その瞳に宿る、強烈なまでの歓喜と誇り。
俺が知識チートで失敗しバイオハザードを起こして絶望していた裏で、この本物の天才は、俺の適当な話から、たった一人でオーパーツを錬成してしまっていたのだ。
俺は返す言葉すら見つからず、ただ夜空を見上げるしかなかった。
漆黒の長良川の水面に、ゆらゆらと黄金色の光の帯が落ちている。
赤々と燃える炎を孕んだ巨大な和紙の玉は、満天の星空へとゆっくりと吸い込まれていく。
戦国の夜の闇に浮かび上がった、あり得ないはずの巨大な光。
俺たちの顔を真昼のように照らし出しながら遠ざかっていくその圧倒的で幻想的な光景の前に、俺はただただ、息を呑んで立ち尽くすしかなかった。
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