第99話 知識チート失敗と、リベンジ
「……おかしい。なんで固まらねえんだ?」
庭に据え付けた巨大な鉄鍋の前で、俺は長い木のヘラを握りしめながら首を傾げていた。
石鹸作りを始めてから、すでに半日が経過している。
ネットで見たうろ覚え知識に従い、猪の脂身と灰汁を混ぜてグツグツと煮込み続けた。ラノベの知識なら、そろそろ真っ白でいい匂いのする石鹸が完成しているはずのタイミングだ。
だが、目の前の鍋の中で煮えたぎっているのは、白とは程遠いドス黒い茶色の物体だった。
脂と灰が分離し、ドロドロ、ネチャネチャとしたスライム状の何かに変貌している。
しかも、鍋の底で焦げた脂と、灰汁のエグみが混ざり合い、この世のものとは思えない激烈な悪臭を放っていた。
「うぇぇぇっ……。わ、若、こいつぁ……ッ!」
風下でうちわを扇いでいた三太夫が、顔を青緑色にしてえずきながらも、なぜかギラギラとした獣のような目を向けた。
「とんでもねえ死臭だ! ははぁ、なるほど! こいつを敵の陣にブチ撒けて、連中がむせ返ってるところを俺たちが一気に斬り込んで、首を片っ端から刎ねるって算段ですね!? 想像しただけで血がたぎってきやがったぜ!」
「違うわ! 普通に失敗したんだよ! 俺だって臭えよ!」
俺は涙目になりながらヘラでかき混ぜたが、ドロドロの悪臭スライムはブクブクと不気味な気泡を立てて、さらに強烈な死臭を撒き散らすだけだ。
異世界転生物語の知識チートなんて嘘っぱちだ。素人が「なんか混ぜて煮込めばできるだろ」みたいな聞きかじりの知識だけで手を出しても、出来上がるのはただの産業廃棄物だったのだ……。
「……あなた様」
不意に、背後から地を這うような、冷え切った声がした。
ビクンと肩を震わせて振り返ると、そこには鼻と口を手ぬぐいで覆い、眉間に深いシワを寄せた妻の桔梗が立っていた。
「き、桔梗……。いや、これはその、衛生革命のためのちょっとした失敗作というか……」
「あなた様。この屋敷中に立ち込める、腐ったような悪臭はなんですか」
桔梗の目が、一切笑っていない。
「もしや、いかなる死臭漂う戦場においても動じずに素振りを行うための、私への新たな精神鍛練のおつもりですか?」
「違う! ただの失敗作です!」
俺が白状すると、桔梗はスッと目を細め、静かに、だが絶対的な圧を放って言い放った。
「……私の神聖なる朝の鍛練の空気が汚れます。今すぐ、その得体の知れない泥を裏山に深く深く埋めてきなさい。さもなくば、どうなるかわかってますよね?」
「ヒィィィィッ!! す、すぐに廃棄しますぅぅぅぅっ!!」
俺の記念すべき初の知識チートの石鹸プロジェクトは、開始からわずか半日にして、嫁のガチギレという形で無惨にも挫折を余儀なくされた。
三太夫が「ちぇっ、城の守りで敵の顔にぶつけりゃ面白えのによォ」と物騒なことをぼやきながら、ドロドロの悪臭スライムを裏山に埋めに行くのを、俺は絶望的な気分で見送った。
***
「クソッ……。石鹸がダメなら、どうすればいいんだ……」
俺は屋敷の縁側に座り込み、頭を抱えていた。
身体を洗う石鹸が作れないとなると、戦場での化膿で感染症を防ぐという俺の生存戦略が根底から崩れ去ってしまう。
あの恐ろしいスプラッタ医療を回避するには、傷口のバイ菌を殺す、もっと直接的なアイテムが必要だ。
(傷口を消毒する……。現代ならマキ〇ンとか消毒用アルコールだけど……アルコールなら、酒で代用できるか?)
俺の脳裏に、再び一筋の光が差し込んだ。
戦国時代に流通している濁り酒なんかは不純物だらけそうだし消毒には向きそうにないが、それをさらに強い酒にできれば、立派な消毒液になるはずだ。
(でも、どうやって強い酒にするんだ? ……よくわかんねえけど、とにかく濃縮させりゃいいんだろ! そういう道具があるはずだ!)
「衛生がダメなら、ダイレクトに医療だ! おい、三太夫! 但馬!」
裏山から戻ってきた二人を、俺は呼びつけた。
「わ、若……。次は一体何を……?」
「今度こそはいい匂いがするはずだ! 三太夫、お前は今すぐ町へ下りて、一番安くて度数の強い酒を、樽で十個買ってこい! 木下組の経費で落としていい!」
「さ、酒を十樽もですか!?」
三太夫がカッと血走った目を見開いた。
「ははぁん、なるほど! さては次の戦の前に俺たちに浴びるほど飲ませて、痛みも恐怖も感じねえ身体に仕立て上げるつもりですね!? さすが若! そいつをカッ食らえば、腹に槍が刺さろうが笑いながら敵の首を引っこ抜けますぜ!」
「バカ野郎! 薬を作るための材料だ!」
「薬? 血濡れの戦場に出るための薬……つまり闘薬ですね! 血が騒いできましたぜ!」
三太夫は完全に間違った解釈で興奮状態になり、猛ダッシュで酒の買い出しへと向かった。
「よし。次は但馬、お前は城下の出入り商人を呼んでこい!」
***
その日の午後。俺は呼びつけた商人に向かって、偉そうにあぐらをかきながら無茶振りを叩きつけた。
「いいか! 酒から一番強えぇ成分だけをギュッと取り出すような物というか装置を用意しろ! なんかこう、酒のなんだアルコールだけを吸い出すような便利なやつだ! あるだろ!?」
「は、はあ……? 酒の濃度を強くするもの、でございますか?」
商人はしばらく顎を撫でて困惑していたが、やがてポンッと手を打った。
「ははぁ。若様、さては堺の南蛮商人が持ち込んだ『蘭引』のことですな?」
「……え?」
「南蛮渡来の奇妙な薬壺でしてな。火にかけて蒸気を冷やし、薬の滴を集めるという……。手に入れるには少々値が張りますが」
(なんだそれ知らねえ! 本当にあるんだそんなもん!)
俺は内心の驚愕をひた隠しにし、腕を組んで深く頷いてみせた。
「ふん……。話が早くて助かる。俺が言いたかったのはまさにその『ランビキ』だよ! 俺を試したな? いいから、金に糸目はつけねえから大至急で持ってこい!」
俺は、商人の知識に全力でタダ乗りし、さも最初から知っていたかのようにドヤ顔をキメた。
***
数日後。
勘兵衛にバレるのが怖かったため、木下組の予算を横領スレスレで使い込み、商人が手配した特注の『蘭引』が屋敷に運び込まれた。三段重ねになった、いかにも怪しげな陶器の壺だ。
庭の隅に竈を組み直し、一番下の壺になみなみと安い濁り酒を注ぎ込む。商人に教わった通りに一番上に冷たい水を張り、隙間から湯気が漏れないように粘土で目張りをした。
「よし、準備完了だ」
俺は竈の前にしゃがみ込み、真剣な顔で見守る三太夫にしたり顔で語った。
「いいか三太夫。この壺に火をかけると、南蛮の理屈で酒の中の強いやつだけが絞り出されて、真ん中の管からポタポタ落ちてくるんだよ!」
「南蛮の秘術ですか!? 要するに、一番凶暴な毒だけを残す『蠱毒』みてえなもんですな! そいつをカッ食らえば……」
「飲むなって言ってるだろ! これは怪我の傷口を洗ってバイ菌をぶっ殺すための『消毒液』なんだ!」
「傷口を洗う……? へっ、若も冗談がキツいぜ。こんな美味そうな匂いのするもんを、外に塗る馬鹿がどこにいますかい!」
三太夫の物騒な勘違いに全力でツッコミを入れながら、俺はついに竈の薪に火を入れた。
パチパチと薪が爆ぜる音が響き、一番下の壺に入った大量の酒がゆっくりと熱を帯びていく。
どういう理屈で抽出されるのか俺自身もサッパリ分かっていないが、これで高い金を出した南蛮の道具が仕事をしてくれれば、俺の生存率は跳ね上がる。
「フフフ……。さあ、出ろ。俺の命を守る魔法の雫よ……!」
俺は炎を見つめながら、ニヤリと笑った。
戦国のスプラッタ医療から俺を救うための高濃度アルコール抽出プロジェクト。
俺の輝かしい知識チートが、再び火蓋を切ったのだった。
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