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アサカ(9)

「あ、そうだ」

 カナコはそう言ってすっと立ち上がると、持ってきていた本を手に取った。

「これ、アサカちゃんに見せたくて持ってきたんだぁ」

 カナコは両手で本を持ち、その表紙をアサカの方に向けた。よく見ると、それは本ではなく、アルバムのようだった。やけに分厚くて、布張りのしっかりとした表紙があしらわれている。

 これは何? と、アサカは目でカナコに尋ねた。すると、その視線の意味を把握したのか、カナコは心なしかゆっくりとした口調で答えた。

「これはね、アルバムだよ。ベースに来る時、家から持ってきたの」

 懐かしそうな眼差しでアルバムを見つめ、カナコは優しい手付きでページをめくった。

 アルバムの至るところに、幸せそうに笑うカナコがいた。ろくに世間を知らないアサカであっても、その写真からカナコが裕福な暮らしをしていたということが分かる。

 広い庭に、綺麗な家具。何もかもが、アサカの知っている家庭生活とは違っていた。自ずと、一年前まで過ごしていた自宅の様子を思い出した。

 マンションの十一階の一室。安っぽいけれど頑丈な鉄製のドア。はがれかけた壁紙。使い古した家具の数々。そして、シンゴの姿。疲れ果てた、彼の姿。

 カナコは、自分よりも恵まれた暮らしをしていたんだなと、アサカは感じた。それと共に劣等感を感じて、思わず俯いた。

 そして、アサカは思い出した。――そうだ、写真。

 アサカも、自宅からベースにやってくるとき、写真立てを持ち出してきていたことを思い出した。そう言えば、あれは何処にしまっていただろうか。

 写真の存在を思い出すと、居ても立ってもいられなくなってきた。無意識のうちにアサカは立ち上がり、写真立てを探した。

「アサカちゃん? どうかしたの?」

 カナコはふらふらと部屋の中を歩き回っているアサカを、不思議そうに見つめている。

 あの写真は大切なものなのに、どうして今まで忘れてしまっていたんだろう。そして今や、何処にしまったのかさえも忘れてしまっている。

 あの写真の中では、家族みんなが幸せなままでいる。みんなが笑っている。もう、全てなくなってしまった。けれど、写真の中でもいい。自分達が幸せだったという証が欲しいんだ。そして、カナコにも知って欲しい。自分達が、生まれた時から不幸だったわけではないということを。

 部屋の中のありとあらゆるところを探し回り、アサカはやっとの思いで、その写真立てを見つけ出した。それは、クローゼットの奥底で、シンゴの服に包まっていた。――あぁ、そうだった、とアサカは思い出した。写真立てがどうしてそんなところにあったのかを。

 アサカはシンゴがこの世を去ったということを自覚した時、クローゼットの中で縮こまって泣いていたのだ。

 そうしていれば、いつかのようにシンゴが助け出してくれるような気がしたのだ。けれど、そうしていればいるほどに、シンゴが現れることはもう二度とないのだと、より強く実感する。その現実から逃れられず、信じることも出来ず、アサカはシンゴの服に顔を埋めて泣いたのだ。シンゴの胸の中にいるのだと思い込んでも、手から伝わるくたっとしたTシャツの感触で、現実は残酷にアサカに覆い被さってきた。

 写真の中で、家族は笑っていた。皆、いなくなってしまった。写真を見ると、深い孤独を感じて苦しくなった。けれど、写真を見れば、一人ではないと思えた。強く、生きていこうと思えた。

 アサカは写真立てを胸の中に抱え込み、強く抱きしめた。

「アサカちゃん、それ、なぁに?」

 背後から、カナコがそっと声をかけてきた。振り返り、アサカは誇らしげにその写真立てをカナコに差し出した。

「ん? あぁ、家族写真かぁ。素敵だね」

 そう言って、カナコはにっこりと微笑んだ。――かのように見えた。

 カナコの目は、見る見るうちに暗く落ちていった。口元からは白い歯が覗き、愛想のいい笑みがこぼれている。しかし、その目は、まるで悪魔のようだった。彼女の表情は、天使と悪魔が見事に共存している。神々しくも恐ろしい、町外れの寂れた教会のような雰囲気を醸し出していた。

 ――しまった。そう感じた時には、もうすでに遅かった。アサカは写真を探し出すことに夢中で、カナコの中に潜む夜叉の存在を失念していた。

 突然、空気を切り裂くような鋭い音が響いた。その音を聞くだけで、皮膚が破られたのではないかと錯覚するような、攻撃的な音だ。

 アサカは、ただ佇んでいるのが精一杯だった。瞬間的に動けなくなった。余りの恐怖で。

 カナコの右手の拳が、床に叩き付けられていた。いや、床ではない。カナコの拳と、床の間に何かが挟みこまれている。それが、あの攻撃的な音の発生源だった。

 ヂャリヂャリ、と、カナコの手から不快な音が零れ出す。そして、彼女の手から零れ出しているのは、音だけではなかった。――いつか見た、あの色だ。カナコの白い手から滲み出た血の赤が、アサカの目に飛び込んできた。そのコントラストが、不気味で美しい。

 カナコの拳によって写真立てのガラスが割られ、ひびが四方八方に蜘蛛の巣のように走っていた。家族の笑顔は蜘蛛の巣に捕らわれ、見ることが出来ない。

 ひゅっと、アサカはようやく空気を吸い込むことが出来た。その一息で、全身の感覚がなくなったように感じた。震えているのか、痺れているのか。

「アサカちゃんは……ずるいよぉ」

 カナコはうな垂れていた。ぺたんと力なく床に座り、白が赤く染まっていくことに何の抵抗も見せず、手をだらりと下に垂らしていた。

 思わず、声を出しそうになった。「私は何も悪くない」と、叫びたかった。けれど、素直にそうすることなど出来ない。決してそうは言えない。アサカはただ喉を震わせた。涙と言葉を同時にこらえると、こんなにも苦しくなるのかと思った。

「私、アサカちゃんが羨ましかったんだよ?」

 カナコの表情は、全く見えない。しかし、今まで一番恐ろしい顔をしているであろうことは予想出来た。その顔を思い浮かべただけで、金縛りにあうようだ。全身を駆け巡っている電気信号が、強くなったとしか思えない。こんなにも痺れている。震えている。呼吸が荒くなり始める。

「シンゴ君、私の大事な友達だったのに」

 カナコが言ったその言葉が、アサカの心臓を鷲掴みにした。心臓が潰れてしまいそうなほど、強い力で。

「あなたのせいで、シンゴ君、いなくなったんでしょ? 私、知ってるんだよ」

 なおもカナコはアサカの心臓を握り締めたまま離さない。このまま死んでしまうんじゃないかと思うほど、心臓が痛い。自分の呼吸と鼓動が痛い程にうるさい。頭の中で、大きく鳴り響いている。

 カナコの言葉そのものが怖いわけではない。シンゴの思いは、誰よりも自分が知っている。だから、他人が言う彼に関することには決して惑わされない。そんな自信があった。

 ただ恐ろしいのは、その言葉に込められた、彼女の情念だ。

 ――殺さ、れる?

 そう思ったのが、カナコに伝わったのかとアサカは思った。

 あの鋭い視線が、アサカをしっかりと捕らえていた。

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