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アサカ(10)

 カナコはようやくアサカから目を離した。それで少しはほっと出来ると思ったが、突然、異様な静寂が二人を包んだ。宇宙の中に放り出されたような、何の音も聞こえない空間。カナコの吐息が聞こえてくるようだ。その吐息がアサカの身体を取り込むように感じ、生きた心地がしない。

 膝ががくがくと震えだした。

 ――殺されたくない。

 これが、麻生の言っていたことなのか。憎しみによって殺されるのは、嫌だ。

 殺意、憎悪、嫉妬。それらの負の感情といものが、ここまで人を追い詰めるのか。吐き気がする。本能が、この状況の全てを拒否している。

 嫌だ。死にたくない。この人に殺されるのだけは嫌だ。

 ――逃げなければ。けれど、そんなことが出来るのか。この震える足で、彼女の悪意から逃げ切ることが出来るのか。自分の力だけで、そんなことが出来るのか。

 もう自分を守ってくれる人はいない。私は、もう、一人きりだ。私は、弱い。強くなんかない。他の人たちのように、自分だけの力で動けるような力はない。

 それでも、逃げなければ。逃げ出したい。もう、嫌だ。もう、駄目だ。

「私は、あんたを許せない」

 カナコが悲鳴のような響きで叫んだ。それが、その憎しみの込められた声が、アサカを突き動かす合図となった。

 部屋の壁をなぞるように、カナコの脇を走り抜けた。

「待ちなさいよ!」

 再び、カナコが叫んだ。その声の余りの恐ろしさに、思わず立ち止まってしまいそうになった。膝の震えが全身にまで周り、転んでしまいそうになる。けれど、立ち止まってはいけない。逃げなければ。

 体当たりするようにしてドアを開くと、アサカは静まり返っている廊下を駆けた。

 背後から叫ぶ声が聞こえてくる。その声が手になり、アサカの足を掴もうとしているかのようだ。何とかそれを振り切りつつ、アサカは走った。

 その後を追ってくる足音が聞こえる。

 しっかりと成熟した体を持つ大人のカナコから、身体の成長も未熟な幼いアサカが逃げ切れるはずがない。

 余りにも、絶望的な状況だ。

 廊下の端まで逃げ切り、角を曲がろうとした時だった。

「アサカちゃん!」

 白衣を着た男性がアサカの前に現れた。聞き知った声だ。その声で、アサカは緊張感から解放された。

 咄嗟に、彼にしがみついた。

「大丈夫だよ」

 神沢だ。彼はどうしてこんなにも優しいのだろう。シンゴや家族以外の人間から、こんなにも優しくしてもらったことのないアサカには、神沢の優しさが不思議でならなかった。

 神沢はアサカの小さな身体をひょいと抱き上げた。しかし、そこから動き出す気配はない。一刻も早く逃げ出したいアサカは、思わず声を上げた。

「嫌だ。神沢さん、逃げようよ!」

 しかし、アサカの叫びを神沢は聞き入れなかった。「大丈夫だから」と、いつもの優しい笑みを浮かべながら囁くだけだ。

「神沢先生?」

 カナコの声がした。振り向くと、髪を振り乱した彼女が呆然とした面持ちで立ち尽くしていた。

 カナコの口が小さく動くのが見えた。何と言っているのかは分からない。彼女は俯いて立ち尽くしたまま拳を握りしめ、ぶるぶると震えていた。さながら、武者震いのようだ。

 アサカとしては、いくら神沢に抱かれているからといって、とても安心は出来ない。今のカナコの状態を見ると、いつ後ろから襲いかかられるか分からない。そんな情景が鮮明に脳裏に浮かび、身体が震えだす。

「先生、その子、もしかして話せるんですか?」

 小さな声で、カナコが言った。長い廊下に吐息のような声がかすかに反響し、神沢の耳に届いた。

 その言葉を聞いたアサカは震えあがった。さっき思わず神沢に言った言葉が、カナコにも聞こえていたのだと、すぐに察した。

 本当は話せるのに黙っていたことを知ったら、カナコはどうするだろうか。考えるだけでも恐ろしく感じた。

「ねぇ、先生。教えてください。アサカちゃんは、本当は話せるんですよね? 私達のことを騙してたんでしょう?」

 徐々にカナコの声が大きくなっていく。まるで、彼女の周りの空気さえもが怒りによって震えているようだ。今にもその空気が張り裂けてしまいそうだった。

「彼女は……話すことは出来る」

 アサカは目を丸くした。喉に大きな石が詰まっているようで、うまく呼吸も出来ない。唾を飲み込むこともままならない。ただ、神沢の腕を、強く握りしめた。

 俯いていたカナコが顔を上げると、ギラリと光った目がアサカを射抜いた。

「騙してたのね」

「違う。彼女は話すことは出来るが、特定の人が相手じゃなければ話せないんだよ」

 カナコの余りにも鋭い視線を見た神沢は危険を感じ、咄嗟に弁解した。

「何とか言いなさいよ!」

 その言葉は、明らかにアサカに向けられたものだった。もはや、彼女の眼中にはアサカしかおらず、神沢の弁解の声は一切聞こえていないようだった。

「カナコちゃん」

 神沢は見るからに興奮しているカナコを落ち着かせようと、声をかけた。

「私のこと、騙してたのね。先生も、一緒になって今も私を騙してるんだ!」

 カナコの大きな声が廊下中に響き渡った。残響の中に、カナコの荒い吐息が聞こえる。

「カナコちゃん、落ち着いて。違うんだよ」

「うるさい! 黙れ……黙れ!」

 アサカはカナコの怒声が聞こえる度に、ぶるぶると身体を震わせている。もう耐えられない。今にもそんな声が聞こえてきそうだった。

「皆そう。私を騙して楽しんでるんだ。まんまと騙されてる私を見て笑ってるのよ。お父さんも、お母さんも私を騙してた!」

 見ると、カナコの瞳には涙が浮かんでいた。目が赤く充血し、苦しみを堪えるように眉を寄せている。

 神沢は、カナコの言葉に耳を傾けることにした。今の彼女には何を言ったとしても全てマイナスに働くに違いない。説得したところで無駄だ。

「誰も信じられない。自分の居場所なんて何処にもない。だから、自分で作り出すしかなかった。だから、私を信じてくれる友達を、たくさん作ろうとした。それなのに……」

 突然、カナコは黙り込んだ。瞬きとともに、一粒の涙が彼女の頬に落ちた。

「その子は、私から大切な友達を奪ったの」

 アサカに鋭い視線が向けられた。心の中を抉り出すような、残虐な目だ。アサカは、もはやカナコの方を見ることすら出来ない。必死に神沢にしがみつき、彼の胸に顔を埋めていた。

「その上、私のことを騙してたんだ。絶対に許せない」

 その時だった。

 大きな足音が、彼等の方に近付いてくるのが聞こえた。カナコの目が、大きく開いた。

「先生、どうして?」

 セキュリティー部隊が、ここに近付いてきているのだ。神沢が彼等を呼んだということは、言うまでもないだろう。

「カナコちゃん、一度、君は頭を冷やすべきだ」

 神沢は静かに言った。

「どうして? 私は悪くない!」

「ベースの保全のためだよ。君のように興奮状態に陥った対象者を野放しにしておくことは許されないんだ」

 そうしている間に、セキュリティー部隊がやってきた。駆け付けた彼等に、神沢が指示を下した。

「識別番号〇九八を特別処置室へ」

「了解」

 その次の瞬間、カナコは部隊の者達に取り囲まれた。

「やだ、止めて! 止めてよ! 先生、ひどいよ。どうして!」

 カナコが喚き散らしている。彼女が彼等に取り押さえられるのを見届け、神沢はアサカを抱いたまま歩き出した。

 カナコの叫びを背中で受け止めながら、神沢は唇を噛み締めた。

 いつしか、カナコの悲鳴は聞こえなくなっていた。

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