8話 陽葵の卵焼き
翌朝。
目を覚ました俺は、枕元に置かれたスマートフォンへ視線を向けた。
画面には、昨夜から変わらず通知が一件表示されている。
差出人の名前を見た瞬間、胸の奥に重たいものが沈んだ。
俺は通知を開かないまま、スマートフォンを裏返した。
昨日の昼休み、陽葵と交わした約束が頭に浮かぶ。
『明日も一緒にお昼食べようね!』
正確には、あれは陽葵が一方的に決めただけだ。俺が約束をしたわけではない。
……そう思っているのに、今朝はいつもより少しだけ早く目が覚めた。
俺はベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。
顔を洗い、制服に着替えたあと、キッチンに立つ。
冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルに割り入れる。菜箸で溶きほぐし、砂糖と少量の塩を加えた。
フライパンを火にかけ、油を引く。
いつもと変わらない朝の作業。
ただ、昨日とは違っていた。
卵液をフライパンへ流し込んだ時、陽葵が作るという弁当のことが頭をよぎった。
「……別に、気にするようなことじゃないだろ」
誰に言うでもなく呟きながら、卵焼きを巻いていく。
焼き上がった卵焼きを弁当箱へ詰め、俺は蓋を閉めた。
玄関の鉢植えに水をやり、いつものように声をかける。
「……行ってきます」
返事の代わりに、葉が風で小さく揺れた。
俺はその揺れを見届けてから、アパートを出た。
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。
自分の席へ向かう途中、後ろから聞き慣れた声が飛んでくる。
「おはよう、奏太くん!」
振り返ると、陽葵が笑顔で手を振っていた。
「……おはよう」
「今日もちゃんと返事してくれた!」
「昨日も返しただろ」
「うん。でも、今日は昨日より少し元気そう!」
「朝から人の顔を観察するなよ」
「だって、奏太くんのことだから!」
陽葵はそう言って、俺の後ろの席へ鞄を置いた。
その動きが、いつもより少しだけぎこちない。
鞄を机の横へ掛けたあとも、何度か中身を確かめるように視線を落としている。
「……どうした?」
「えっ?」
「さっきから鞄を気にしてるだろ」
「そ、そんなことないよ!」
陽葵は慌てて鞄の口を閉じた。
その直後、彼女の腹部から小さな音が鳴った。
「…………」
「…………」
「い、今のは違うからね!」
「何が違うんだ」
「お腹が空いてるわけじゃなくて、これはその……朝ご飯が少なかっただけで……」
「それを腹が減ってるって言うんだろ」
俺が呆れていると、前の席から翔太が振り返った。
「おっ、陽葵。今日なんかいつもと違わないか?」
「えっ、そうかな?」
「なんか眠そうだし、さっきから鞄を守ってるし」
「守ってないよ!」
「もしかして、弁当の中に秘密の宝物でも入ってんのか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
陽葵の顔が、分かりやすく赤くなった。
俺は一瞬だけ、彼女の鞄へ視線を向ける。
「……弁当、作ってきたのか?」
「っ……!」
陽葵は目を見開いた。
どうやら図星だったらしい。
「昨日、作ってみようかなって言ってただろ」
「覚えてたの?」
「忘れる方が難しい」
「そっか……」
陽葵は頬を緩めた。
その表情を見ていると、なぜかこちらまで少しだけ気恥ずかしくなる。
「うん。作ってきたよ」
「本当に? 陽葵が?」
翔太が驚いたように声を上げる。
「私だって料理くらいできるもん!」
「いや、前に家庭科の調理実習で焦がしてなかったか?」
「それは中学生の時の話!」
「つい最近じゃん」
「もう、翔太くんは黙ってて!」
陽葵が頬を膨らませる。
その反応を見て、翔太が楽しそうに笑った。
やがて、始業のチャイムが鳴る。
高橋先生が教室へ入り、俺たちは席へ戻った。
午前中の授業は、いつも通り進んでいった。
数学の問題を解き、英語の文章を読み、現代文の板書を写す。
特別なことは何も起きていない。
それなのに、授業の合間に何度か後ろから視線を感じた。
振り返ると、陽葵がこちらを見ている。
目が合うと、彼女はすぐに視線を逸らした。
そのたびに、俺の中にも落ち着かないものが広がっていった。
そして、昼休み。
チャイムが鳴ると同時に、陽葵が俺の席の横へやってきた。
「奏太くん、お昼食べよ!」
「……ああ」
俺が返事をすると、陽葵は一瞬固まった。
「え?」
「何だよ」
「今、普通に返事したよね?」
「昨日も一緒に食べただろ」
「でも、今日は私から誘う前に返事してくれた!」
「いや、まだ誘われてなかっただろ」
「じゃあ、もう一緒に食べる気だったってこと?」
「……そういうわけじゃない」
「ふふっ、じゃあそういうことにしておくね!」
陽葵は嬉しそうに笑い、自分の弁当を持ってきた。
そこへ翔太も弁当を片手にやってくる。
「おっ、今日も三人で昼飯か!」
「翔太くんも一緒に食べよ!」
「もちろん! 俺の母ちゃん特製弁当を見せてやるよ!」
「別に見たくはないけどな」
「そう言うなって。今日の唐揚げ、かなり気合い入ってるからな!」
三人で机を寄せ、それぞれ弁当箱を広げた。
「いただきます!」
「いただきます」
「……いただきます」
翔太はさっそく大きな唐揚げを箸でつまみ、嬉しそうに頬張った。
「うん、うまい! やっぱり母ちゃんの唐揚げは最高だな!」
「翔太くん、毎日おいしそうに食べるよね」
「そりゃ、作ってもらった弁当だからな。感謝しながら食べないと!」
そんな二人の会話を聞きながら、俺も自分の弁当箱を開けた。
白米に、卵焼き。昨夜のうちに下ごしらえしておいた鶏肉の照り焼きと、ほうれん草のおひたし。
いつも通りの、特別なものではない弁当だ。
だが、陽葵は俺の弁当を覗き込むと、目を輝かせた。
「やっぱりおいしそう!」
「……見るだけなら好きにしろ」
「一個食べてもいい?」
「駄目に決まってるだろ」
「なんで!?」
「自分の弁当があるだろ」
「あるけど、奏太くんの卵焼きも食べてみたい!」
「昨日も同じこと言ってたな」
「だって、気になるんだもん!」
陽葵が身を乗り出してくる。
距離が近い。
ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐり、俺は思わず視線を弁当箱へ落とした。
「……そんなに気になるなら、自分で作ればいいだろ」
「だから、作ってきたんだよ!」
陽葵は少し恥ずかしそうに、自分の弁当箱を抱えた。
「朝も言ったでしょ? 奏太くんに食べてもらうために、頑張って作ったの」
「ああ……そうだったな」
陽葵は恐る恐る弁当箱の蓋を開ける。
白いご飯の隣に、ウインナー。ブロッコリーとミニトマト。そして、少し形の崩れた卵焼きが入っている。
表面には、ところどころ焦げ目がついていた。
「……」
「やっぱり変かな?」
「いや。初めて作ったなら、十分だろ」
「本当?」
「ああ」
陽葵は安心したように息を吐き、それから箸で卵焼きを一つつまんだ。
「じゃあ、食べてみて」
「俺が?」
「うん。奏太くんに味の感想を聞きたいの」
差し出された卵焼きを、俺は自分の箸で受け取った。
口へ運ぶ。
甘い。
俺が作った卵焼きより、かなり砂糖が多い。それに、少し焦げた苦みもある。
「どう?」
陽葵が不安そうにこちらを見つめている。
「……少し甘いな」
「やっぱり!?」
「あと、火が強い」
「うぅ……」
陽葵の肩が落ちる。
俺は慌てて言葉を続けた。
「でも、まずくはない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「本当に?」
「ああ」
陽葵は、ほっとしたように笑った。
「よかった……。奏太くんに食べてもらうの、ちょっと緊張したんだよ」
「そこまで大げさなものじゃないだろ」
「私にとっては大げさなの!」
陽葵はそう言って、自分も卵焼きを口に入れた。
「……うん。やっぱり甘いね」
「自分で分かるのかよ」
「でも、奏太くんが食べてくれたから、おいしく感じる!」
「味は変わらないだろ」
「気持ちの問題だよ」
陽葵は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、卵焼きの甘さも焦げた苦みも、別に悪くないような気がしてくる。
「卵を混ぜる時、空気を入れすぎない方がいい。あと、火はもう少し弱くして、焼く時は焦らないことだな」
「分かった。奏太くん、先生みたい」
「聞く気があるなら教える」
「じゃあ、今度一緒に作ってよ!」
「……一緒に?」
「うん。奏太くんに教えてもらいながら作ったら、もっと上手にできそう!」
陽葵は弁当箱の卵焼きを見つめ、それから俺へ視線を戻した。
「駄目?」
「……別に、駄目とは言ってない」
「じゃあ、いいんだ!」
「まだ何も決めてないだろ」
「決めたよ。今度、一緒に卵焼きを作るの!」
「勝手に決めるなよ……」
陽葵は満足そうに笑い、弁当箱の蓋を閉じた。
その後も三人で他愛のない話をしながら昼食を食べ、やがて午後の授業開始を告げるチャイムが鳴った。
午後の授業も、午前中と同じように進んでいった。
ただ、授業が終わるたびに、陽葵がときどきこちらを振り返ってくる。
目が合うと、彼女は嬉しそうに笑った。
そして、放課後。
「じゃあ、俺はサッカー部の見学に行ってくるな!」
翔太が鞄を肩に掛け、元気よく立ち上がった。
「頑張ってね、翔太くん!」
「おう! 奏太、また明日な!」
「ああ」
翔太が教室を出ていく。
その背中を見送ったあと、俺も帰り支度を始めた。
今日のところは、もう家に帰るだけだ。
そう思って鞄を持ち上げた時、後ろから陽葵の声が届いた。
「奏太くん、また明日ね!」
「ああ。また明日」
昨日までなら、こんなふうに誰かと約束を交わすことなどなかった。
けれど今は、陽葵と過ごした昼休みのことを思い返すと、不思議と悪い気はしなかった。
鞄の中には、いつもと変わらない俺の弁当箱が入っている。
明日は、陽葵がもっとおいしい卵焼きを作ってくるらしい。
「……一緒に作る、か」
誰もいなくなった教室で、俺は小さく呟いた。
まだ何も決まっていない。
それなのに、明日が来るのを少しだけ楽しみにしている自分に気づいてしまった。




