9話 卵焼きと、初めての訪問者
翌朝、教室に入ると、陽葵はすでに自分の席に座っていた。
いつもなら俺の姿を見つけた瞬間に、笑顔で声をかけてくる。だが今日は、机の上に置いた鞄を何度も確認しているだけだった。
「……おはよう、奏太くん」
「おはよう」
「えっ」
陽葵の手が止まった。
「な、何だよ」
「今日もちゃんと返事してくれた……」
「昨日から何度もしてるだろ」
「でも、私が声をかける前から返してくれたよね」
「偶然だ」
「偶然でも嬉しいなあ」
陽葵はそう言って笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺は少しだけ視線を逸らした。
最近、陽葵の笑顔を見ることに慣れてきた気がする。
最初の頃は、眩しすぎてまともに見ていられなかった。今でも近くで笑われると落ち着かないが、以前のように「関わるべきではない」と強く思うことはなくなっている。
「……今日は、昨日より眠そうだな」
「えっ、分かる?」
「ああ。目の下に少し隈がある」
「昨日、頑張ったから」
陽葵は鞄を両手で抱えた。
陽葵は本気だったらしい。
「まさか……」
「うん。作ってきたよ」
陽葵はそっと鞄から弁当箱を取り出した。
いつもの明るい表情とは違い、どこか不安そうな顔をしている。
「今日も卵焼き?」
「そう。昨日より上手にできたと思う」
「自分で言うのか」
「だって、昨日はちょっと焦げてたけど、今日は焦げてないもん」
陽葵は弁当箱を机の中へしまった。
そのとき、前の席から翔太が振り返る。
「おっ、今日も卵焼き勝負か?」
「勝負じゃないよ!」
「いやいや、奏太の卵焼きに陽葵が挑戦してるんだろ? これはもう立派な料理対決だって」
「だから違うってば!」
陽葵が頬を膨らませる。
翔太は楽しそうに笑いながら、俺の方へ顔を向けた。
「奏太、ちゃんと審査してやれよ」
「審査員になるつもりはない」
「でも、味の感想は言うんだろ?」
「……まあ」
「ほら、もう審査員じゃん」
反論しようとしたが、ちょうど始業のチャイムが鳴った。
陽葵は自分の席へ戻りながら、俺に小さく笑いかける。
「お昼、楽しみにしててね」
「期待しすぎるなよ」
「うん。楽しみにしてる!」
俺は小さく息を吐き、黒板へ視線を向けた。
けれど、午前中の授業中も、頭の片隅には陽葵の弁当箱が残り続けていた。
昼休みになると、陽葵はすぐに俺の席へやってきた。
「奏太くん、お昼食べよう!」
「ああ」
「今日は返事が早い!」
「……もういいだろ」
「よくないよ。毎日少しずつ変化があるんだから」
陽葵は嬉しそうに笑い、机を寄せた。
翔太も当然のように加わり、三人で弁当を広げる。
「それじゃ、いただきます!」
「いただきます」
「……いただきます」
俺が弁当箱を開くと、陽葵がすぐに身を乗り出してきた。
「今日もきれいだね」
「昨日とほとんど同じだ」
「でも、鶏肉の味付けが違う気がする」
「よく分かるな」
「毎日見てるから」
「まだ二日目だろ」
陽葵は笑いながら、自分の弁当箱を開けた。
ご飯の隣には、昨日と同じようにウインナーとブロッコリーが入っている。ただし、卵焼きの形は昨日よりも整っていた。
「どう?」
「見た目は前よりいい」
「味は?」
「食べてからだな」
陽葵は箸で卵焼きを一切れつまみ、俺の前へ差し出した。
「……自分で食べられるだろ」
「奏太くんの感想が早く聞きたいの」
「だからって、わざわざ箸で渡すなよ」
「駄目?」
陽葵が首を傾げる。
翔太が隣でにやにやしているのが分かった。
「……分かった」
俺は卵焼きを口に入れた。
昨日よりも甘さは控えめで、焦げた苦みもない。まだ少し火が入りすぎているが、少なくとも卵焼きとしては十分な出来だった。
「どう?」
「昨日よりはいい」
「それだけ?」
「ちゃんとおいしい」
陽葵の顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「やった!」
陽葵は両手を握りしめ、小さく跳ねた。
「奏太くんにおいしいって言ってもらえた!」
「そんなに喜ぶことか?」
「喜ぶことだよ。だって、奏太くんに食べてもらうために作ったんだもん」
その言葉に、箸を持つ手が止まった。
陽葵は何のためらいもなく、そんなことを言う。
俺のために。
その響きに慣れていないせいか、胸の奥が妙にざわついた。
「……それなら、次は火をもう少し弱くするといい」
「うん!」
「それから、卵を流し入れる量を分けすぎない方がいい。薄くなりすぎると巻きにくい」
「なるほど……」
「あと、砂糖を入れるなら、最初にしっかり溶かした方がいい」
「奏太くん、やっぱり先生みたい」
「教えてほしいって言ったのはそっちだろ」
「じゃあ、今日教えてくれる?」
陽葵がまっすぐこちらを見る。
「今日?」
「うん。放課後、美化委員会が終わったら」
その言葉を頭の中で繰り返してみる。
「……どこで作るんだ」
「私の家!」
「家?」
「うん。お母さんに聞いたら、友達を連れてきてもいいって」
友達。
陽葵は自然にそう言った。
「奏太、顔赤くないか?」
翔太の声が飛んでくる。
「赤くない」
「いや、赤いって。陽葵の家に行くのがそんなに嬉しいのか?」
「違う」
俺は翔太を睨んだ。
陽葵は楽しそうに笑っている。
「じゃあ、決まりね。放課後、一緒に行こう!」
「……分かった」
口に出してから、自分でも驚いた。
断る理由ならいくらでもあったはずだ。疲れているとか、家でやるべきことがあるとか、料理を教えるだけなら学校でもできるとか。
それでも俺は断らなかった。
陽葵が嬉しそうにしているからだ。
ただ、それだけだった。
放課後。
美化委員会の活動で、俺たちは校舎裏の花壇へ向かった。
「今日はこの苗を植え替えるぞー!」
池田先生が、大きな声で土の入った袋を運んでくる。
「そんなに重いもの、先生が全部持たなくても……」
葵が心配そうに言うと、池田先生は胸を張った。
「これくらい、準備運動にもならん!」
「美化委員会って、毎回こうなの?」
航生が苦笑する。
「たぶん、池田先生が担当している限りはそうだと思う」
俺が答えると、陽葵が隣で笑った。
作業は思ったよりも順調に進んだ。
俺が土をほぐしている間に、葵が苗を並べ、航生が道具を運ぶ。陽葵は水やりを担当していた。
だが、しばらくして突然、水がこちらへ飛んできた。
「わっ!」
陽葵が驚いてホースを離す。
制服の袖と胸元が濡れ、土を払っていた俺の手も水浸しになった。
「ご、ごめん! 奏太くん、大丈夫?」
「これくらいなら平気だ」
「でも制服が……」
「乾けばいい」
「本当に怒ってない?」
「怒ってない」
陽葵はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「そんなに気にするな。俺の服が濡れただけだろ」
「でも、奏太くんが嫌な思いをしたら嫌だから」
陽葵の声は、いつもの明るさより少し小さかった。
俺は返す言葉を失った。
嫌な思いをしたら嫌。
「……別に、嫌な思いはしてない」
「本当?」
「ああ」
「なら、よかった」
陽葵は笑った。
花壇の端には、植え替えを待つ小さな苗が並んでいる。
どれもまだ葉が少なく、頼りなく見えた。
「この苗、ちゃんと大きくなるかな」
陽葵がしゃがみ込み、苗の先端を見つめる。
「世話をすれば、たぶん」
「たぶん?」
「植物だから、必ずとは言えない」
「奏太くんらしい答えだね」
「何がだよ」
「簡単に大丈夫って言わないところ」
「水が多すぎても駄目だし、少なすぎても駄目だ。日当たりも必要だ。植物は置かれた場所の影響を受ける」
そこまで言ってから、俺は口を閉じた。
陽葵がこちらを見ている。
「奏太くん?」
「……何でもない」
自分でも、なぜこんな話をしているのか分からなかった。
環境が悪ければ枯れる。
その言葉は、植物だけの話ではない気がした。
「でもね」
陽葵は苗へ視線を戻した。
「場所を変えたら、元気になることもあるよね」
「……ああ」
「じゃあ、奏太くんも大丈夫だよ」
「俺は植物じゃない」
「分かってるよ」
陽葵は笑った。
「でも、奏太くんもちゃんと根っこを張れる場所を見つけたらいいと思う」
胸の奥に、何かが静かに落ちた。
俺は返事をしなかった。
ただ、陽葵が水をかけすぎないよう、ホースの先を少しだけ上へ向けた。
活動が終わる頃には、空は夕焼けに染まっていた。
「じゃあ、行こう!」
陽葵が鞄を持ち上げる。
「ああ」
俺たちは学校を出て、駅とは反対方向へ歩き始めた。
しばらく歩いたところで、陽葵が何度もこちらを振り返っていることに気づいた。
「どうした?」
「ううん。奏太くんが本当に来てくれてるなあって」
「俺が嘘をついて帰ると思ってたのか」
「少しだけ」
「信用されてないな」
「そうじゃないよ。奏太くん、急に一人で帰っちゃいそうだから」
「……否定はできない」
陽葵は笑った。
「でも、今日は大丈夫だね」
「何が?」
「ちゃんと私の家まで一緒に来てくれるから」
陽葵の家は、駅から少し離れた住宅街の中にあった。
玄関の前には小さな花壇があり、色とりどりの花が咲いている。
「ただいまー!」
陽葵が玄関の扉を開ける。
「おかえり。あら、その子が奏太くん?」
奥から女性が顔を出した。
陽葵によく似た、柔らかい雰囲気の人だった。
「うん。同じクラスの清水奏太くん。卵焼きを教えてくれるの」
「まあ、いらっしゃい。陽葵から話は聞いてるわ」
「……お邪魔します」
俺が頭を下げると、陽葵の母親は優しく笑った。
「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。陽葵のお友達なら歓迎するわ」
友達。
また、その言葉が胸に引っかかった。
俺は誰かの家に友達として招かれたことがあっただろうか。
思い出そうとしたが、何も浮かばなかった。
「奏太くん、こっち!」
陽葵に呼ばれ、俺は台所へ向かった。
そこにはすでに、ボウルやフライパンが用意されていた。
「準備が早いな」
「お母さんが手伝ってくれたの」
「火傷しないように気をつけるのよ」
だが、卵を割る段階で早くも殻が入った。
「……」
「今のはわざとじゃないからね!」
「分かってる」
「笑わないでよ!」
笑ってはいない。
ただ、少しだけ口元が緩んでいたらしい。
陽葵は頬を膨らませながら、殻を取り除いた。
「次は、砂糖と塩を入れる」
「どのくらい?」
「砂糖はこれくらい。塩は少しだけ」
「少しってどのくらい?」
「指でつまめる程度」
「こう?」
「それは多い」
「ええっ?」
陽葵の手元を見ながら、俺は塩を少し戻した。
「卵は混ぜすぎない。白身が完全に消えるくらいでいい」
「奏太くん、手つきが慣れてるね」
「一人暮らしだからな」
「毎日作ってるの?」
「時間がある時だけだ」
「家では、いつも一人で食べてた?」
陽葵の声が少しだけ静かになった。
俺はフライパンへ視線を向けた。
「……まあ」
「そっか」
陽葵はそれ以上、何も聞かなかった。
無理に理由を尋ねないところが、少し意外だった。
「次は火を弱くする。焦らずに巻く」
「うん」
陽葵が卵液をフライパンへ流し込む。
表面が固まり始めたところで、陽葵は慌てて箸を動かした。
「待て。まだ早い」
「でも、固まってきたよ?」
「端だけだ。全体がもう少し固まるまで待て」
「料理って難しいね」
「慣れれば簡単だ」
「奏太くんは何でもできるんだね」
「そんなことはない」
俺はすぐに否定した。
何でもできるわけではない。
人と関わることも、誰かを信じることも、家族と向き合うこともできない。
料理くらいしか、一人でできることがなかっただけだ。
陽葵は完成した卵焼きを皿へ乗せた。
形は少し歪んでいるが、昨日よりはずっときれいだった。
「できた!」
「一応な」
「一応って言わないでよ」
陽葵は包丁で卵焼きを切り分け、一切れを箸でつまんだ。
「じゃあ、食べてみて」
「また俺か」
「先生なんだから、最初に確認して」
俺は卵焼きを受け取り、口へ運んだ。
甘さはちょうどよかった。
少しだけ焼きすぎているが、焦げた苦みはない。
「……うまい」
陽葵の目が大きく開いた。
「本当に?」
「ああ。ちゃんとおいしい」
「やった……!」
その声を聞いて、台所の入口にいた母親も微笑んでいる。
「よかったわね、陽葵」
「うん!」
俺は皿の上に残った卵焼きを見つめた。
同じ材料を使っても、作る人が違えば味も変わる。
焦げていた卵焼きが、少しずつ食べられる味になっていく。
それは、まるで陽葵自身のようだった。
最初から完璧だったわけではない。失敗して、悔しがって、それでももう一度作った。
「奏太くん」
「何だ?」
「また教えてね」
「……ああ」
「今度は、奏太くんの家で作ってみたいな」
その言葉に、俺は固まった。
「俺の家?」
「うん。奏太くんのキッチンも見てみたい」
「別に、見ても面白くないぞ」
「面白いかどうかは私が決めるの!」
陽葵は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、断る理由を探すのが難しくなっていく。
「……考えておく」
「それ、ほとんどいいってことだよね?」
「違う」
「じゃあ、前向きに考えておいてね」
「話を聞けよ」
帰り道、陽葵の家を出た俺は、一人で歩いていた。
手には、陽葵の母親が持たせてくれた卵焼きが入った小さな容器がある。
「よかったら帰ってから食べてね」と言われ、断ることができなかった。
俺の家に着くと、玄関の鉢植えが目に入った。
「……ただいま」
スマートフォンが震えた。
画面を見ると、母親からメッセージが届いていた。
『今週の土曜日、そちらへ行きます。話したいことがあります』
短い文章だった。
いつもなら、すぐに画面を伏せていた。
だが今日は、しばらくその文字を見つめていた。
話したいこと。
母親が俺に何かを伝えようとすることなんて、今までほとんどなかった。
嫌な予感がする。
それでも、以前のように無視する気にはなれなかった。
スマートフォンがもう一度震える。
『陽葵:今日はありがとう! 卵焼き、上手にできてよかった!』
続けてもう一通。
『 次は奏太くんの家で作ろうね! 』
俺は少し迷ってから、返信画面を開いた
『……考えておく』
送信すると、すぐに陽葵から返事が来た。
『やった! 約束ね!』
俺はそのメッセージを見て、思わず小さく笑った。
そして、テーブルの上に置いた母親からのメッセージへ視線を戻す。
「……土曜日、か」
陽葵との約束を思い出す。
温かい声が聞こえる家。
誰かと一緒に作った卵焼き。
今まで知らなかった時間。
俺はスマートフォンを伏せず、そのまま画面を見つめ続けた。
やがて、ゆっくりと返信欄へ指を伸ばす。
『勝手にしろ』
送信ボタンを押した直後、胸の奥に重いものが沈んだ。
けれど、その重さを抱えたままでも、俺には明日がある。
明日も学校へ行けば、陽葵がいる。
翔太がいて、葵や航生もいる。
そう考えると、少しだけ呼吸がしやすくなった。
窓の外では、夜の風が吹いている。
玄関の鉢植えの葉が、小さく揺れた。
「……おやすみ」
返事の代わりに、葉がもう一度だけ揺れた。




