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同じ苗字の君と恋をすることになった  作者: 暁 暁音
第1章 大嫌いな苗字とはじまりの春
11/11

10話 まだ、言わなくていい

 翌朝。


 目を覚ました俺は、枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばした。

 画面には、昨夜から変わらず一件の通知が残っている。


『今週の土曜日、そちらへ行きます。話したいことがあります』


 母親からのメッセージ。

 短い文章を、俺は何度も読み返していた。

 母親が俺に「話したいことがある」と言ってくることは、今までほとんどなかった。

 生活費が足りないわけでもない。学校で何か問題を起こしたわけでもない。

 それなのに、わざわざ岡山まで来る。

 嫌な予感しかしなかった。


「……考えても仕方ないか」


 スマートフォンを裏返し、俺はベッドから起き上がった。

 顔を洗い、制服に着替える。

 いつも通り朝食を済ませ、出かける前に玄関の鉢植えへ水をやった。


「……行ってきます。」


 返事の代わりに、葉の先に残った水滴が朝の光を反射した。

 俺はしばらく鉢植えを見つめたあと、アパートを出た。

 学校へ向かう道中も、頭の片隅には母親からのメッセージが残り続けていた。


 土曜日。

 あと四日。


 その間ずっと、こんなことを考えながら過ごすのかと思うと、朝から気が重くなった。

 教室へ入ると、陽葵が自分の席に鞄を置いているところだった。

 俺の姿に気づいた陽葵は、いつものように明るい笑顔を浮かべる。


「おはよう、奏太くん!」

「……おはよう」

「今日もちゃんと返してくれた!」

「もう、その話はいいだろ」

「よくないよ。奏太くんが自分から挨拶を返してくれるの、嬉しいんだから」


 陽葵はそう言って笑った。

 最近は、陽葵が嬉しそうにしていると、こちらまで少しだけ気持ちが軽くなる。


「そういえば、昨日は楽しかったね!」


 陽葵が机に手をつき、身を乗り出してくる。


「……卵焼きを作っただけだろ」

「それだけじゃないよ。奏太くんが私の家に来てくれたこと!」

「料理を教えるために行っただけだ」

「でも、来てくれたよね?」

「……まあ」

「お母さんも嬉しそうだったよ」


 その言葉に、俺は少しだけ反応した。


「そうなのか?」

「うん。奏太くんが帰ったあとも、ずっと機嫌がよかったもん」

「それは……よかったな」

「また来てね」


 陽葵は当たり前のように言った。


「今度は私が奏太くんに卵焼きを教えてあげる番だから!」

「教えるのは俺だろ」

「あっ、そうだった」


 陽葵は小さく舌を出して笑う。


「じゃあ、また奏太くんに教えてほしいな」

「……気が向いたらな」

「それって、前向きに考えてくれるってこと?」

「都合よく解釈するな」

「でも、断らなかったよね?」


 陽葵は楽しそうに笑っている。

 その少し離れた場所で、前の席の翔太がこちらを振り返った。


「おっ、今度はまた料理を教えるのか?」

「翔太、聞いてたのか」

「聞こえてきたんだよ。二人とも、朝から卵焼きの話ばっかりだな」

「卵焼きの話をしてるだけだよ!」


 陽葵が慌てて否定する。


「それを毎日やってるから、十分仲良しだろ」

「仲良しじゃないよ!」


 陽葵が頬を膨らませる横で、翔太が楽しそうに笑った。

 いつも通りの朝。

 いつも通りの騒がしさ。

 それなのに、俺の気分だけがどこか重いままだった。


「奏太くん?」


 陽葵の声で、俺は我に返った。


「……何だ?」

「今日、ちょっとぼーっとしてない?」

「寝不足なだけだ」

「本当に?」

「ああ」


 陽葵は俺の顔をじっと見つめた。

 いつもなら、そのまま質問を重ねてくるところだ。

 けれど今日は、少しだけ眉を下げただけだった。


「そっか」


 それ以上、陽葵は何も聞かなかった。

 やがて始業のチャイムが鳴り、高橋先生が教室へ入ってくる。


 午前中の授業が始まった。

 数学の問題を解き、英語の文章を読み、現代文の説明を聞く。

 黒板の文字をノートへ写している間も、頭の中には土曜日のことが浮かんでいた。


 母親は何を話すつもりなのだろう。

 岡山での一人暮らしをやめろと言いに来るのか。

 生活費を減らすつもりなのか。

 それとも、再婚相手との間に何か問題が起きたのか。

 いくつもの可能性が浮かんでは消えていく。


「清水」


 突然、教師に名前を呼ばれた。


「……はい?」

「ここ、読んでみろ」


 教科書の一文を指差され、俺は慌てて指定された部分を読み上げた。


「……以上です」

「うん。ちゃんと授業を聞いておけよ」


 教室の何人かが小さく笑った。

 俺は席に座り直し、深く息を吐いた。

 授業に集中できていなかった。

 そのことが、少しだけ悔しかった。


 昼休みになると、陽葵と翔太がいつものように俺の席へ集まってきた。

 机を寄せ、三人で弁当を広げる。


「いただきます!」

「いただきます」

「……いただきます」


 陽葵は今日も、自分で作った卵焼きを持ってきていた。

 形も味も、最初の頃とは比べ物にならない。


「今日はどう?」


 陽葵が期待に満ちた目で尋ねてくる。


「もう普通においしい」

「普通に、じゃなくて?」

「ちゃんとおいしい」

「よし!」


 陽葵は満足そうに頷いた。

 翔太はそんな俺たちの様子を見ながら、唐揚げを頬張っている。


「もう完全に、奏太が陽葵の料理の先生じゃん」

「先生ってほどじゃない」

「でも、奏太くんが教えてくれたんだよ」

「へえ。奏太って、料理だけじゃなくて教えるのも上手いんだな」

「大げさだって」


 俺はそう言いながら、陽葵の卵焼きをもう一切れ口へ運んだ。

 甘さはちょうどよく、焦げた苦みもない。


「……うん」

「どう?」

「合格だな」

「合格って何!?」

「前より良くなったってことだ」

「じゃあ、これからも頑張るね!」

「無理に毎日作らなくてもいいだろ」

「大丈夫。奏太くんに食べてもらえるなら頑張れるもん」


 陽葵が何気なくそう言った。

 俺は一瞬、箸を止める。


「……そういうことを、いちいち口に出すな」

「どうして?」

「どうしてって……」


 答えが見つからない。

 陽葵は不思議そうに首を傾げている。


「まあいいや。それより、奏太くんに聞きたいことがあるの」

「何だ?」

「奏太くんってどこに住んでるの?」

「学校から少し離れたアパートだ」

「アパート?」

「ああ」

「……そこって、誰かと一緒に住んでるの?」

「いや。一人暮らしだ」


 陽葵の箸が止まった。


「えっ?」

「だから、一人暮らしだ」

「高校生なのに?」

「高校生でも、一人暮らしくらいするだろ」

「しないよ、普通は!」


 陽葵が驚いた声を上げる。

 翔太も目を丸くしていた。


「マジか。奏太、一人で暮らしてんの?」

「ああ」

「すげえな……俺なんて、家に帰ったら母ちゃんに飯を作ってもらって、洗濯物まで出してるぞ」

「それが普通だと思う」

「じゃあ奏太は、全部自分でやってるの?」


 陽葵が尋ねる。


「料理も洗濯も掃除も、一応な」

「すごい……」

「別に、慣れれば大したことじゃない」

「でも、寂しくないの?」


 その質問に、俺は少し黙った。

 寂しくないと言えば嘘になる。

 けれど、寂しいと認めるのも嫌だった。


「静かで楽だ」


 俺がそう答えると、陽葵は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ不安そうに俺を見ている。


「……そういえば、陽葵の家に行った時に言いそびれたんだけど」

「うん」

「今週の土曜日に、母親が来る」

「お母さんが?」

「ああ。話したいことがあるらしい」


 陽葵の表情が、わずかに曇った。


「何の話かは分からないんだ」

「そっか……」

「今まで、母親が俺に用事以外の話をしてきたことなんてほとんどないからな。ろくな話じゃないと思う」

「どうして?」

「生活費を減らすとか、岡山での一人暮らしをやめろとか。そういう話かもしれない」

「奏太くんは、お母さんに来てほしくないの?」

「……分からない」


 それが正直な答えだった。

 来てほしくない。

 そう思っているはずなのに、母親が何を話すつもりなのか知りたい気持ちもある。


「でも、怖いんだと思う」


 陽葵が静かに言った。


「何を言われるか分からないから」

「……ああ」


 否定できなかった。

 陽葵はしばらく黙ったあと、弁当箱の蓋を閉じた。


「じゃあ、卵焼きを作りに行くのは別の日にしよう」

「え?」

「私が奏太くんの家に行く話」

「ああ……」

「お母さんが来る日に、私までお邪魔したら落ち着かないでしょ?」

「別に、来ても構わないけど」

「ううん。奏太くんがお母さんと話す時間も必要だと思う」


 陽葵は、いつものように明るく笑おうとした。


「だから、日曜日はどうかな?」

「日曜日?」

「うん。お母さんが帰ったあとなら、ゆっくり卵焼きを作れるでしょ?」


 俺は、少しだけ驚いていた。

 陽葵はいつも強引で、こちらの都合など気にせず距離を詰めてくる。

 けれど、本当に大切なところでは、俺の事情を考えてくれている。


「……日曜日なら、たぶん」

「じゃあ、日曜日に決まりね!」

「まだ『たぶん』だろ」

「大丈夫。奏太くんは約束を破らないもん」

「そんなこと、まだ分からないだろ」

「分かるよ」


 陽葵は迷いなく言った。

 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「土曜日まで、まだ時間はあるよ」

「ああ」

「だから、あまり考えすぎなくてもいいんじゃないかな」

「簡単に言うなよ」

「うん。簡単じゃないよね」


 陽葵は少しだけ考えるように黙った。


「じゃあ、土曜日まで私がいっぱい話しかけるね」

「それはいつも通りだろ」

「いつもよりいっぱい!」

「それは困る」

「じゃあ、少しだけいっぱい!」

「どっちだよ」


 陽葵が笑う。

 その笑い声を聞いていると、朝から張り詰めていたものが少しずつほどけていく気がした。


 午後の授業も終わり、放課後になった。

 今日は美化委員会の活動日ではないため、俺はそのまま帰るつもりだった。


「奏太くん、今日は一緒に帰らない?」


 陽葵が鞄を持ちながら、こちらを見ている。


「……家が反対方向だろ」

「途中までなら一緒に行けるよ」

「お前はいいのか?」

「うん。今日はお母さんに買い物を頼まれてるから、駅の近くまで行くの」


 断る理由を探した。

 けれど、今日は朝から母親のことばかり考えていた。

 一人で帰れば、また土曜日のことを考えてしまうだろう。


「……分かった」

「本当?」

「ああ」


 陽葵は嬉しそうに笑った。

 校門を出て、二人で坂道を下る。

 春の風が吹き抜け、桜の花びらが歩道へ舞い落ちている。


「奏太くん」

「何だ?」

「そんなにお母さんが来るの怖い?」

「……ああ」

「でも、奏太くんは一人じゃないよ」


 陽葵は前を向いたまま言った。


「土曜日は無理だけど、日曜日には私が行くか」

「卵焼きを作るためだろ」

「それだけじゃないよ」


陽葵は俺を見る


「奏太くんが一人で考えすぎないようにするため」


 胸の奥が、かすかに揺れた。


「……余計なお世話だ」

「うん。知ってる」


 陽葵は笑った。


「でも、余計なお世話をするって決めたから」

「勝手だな」

「奏太くんにだけは言われたくないなぁ」


 駅前で陽葵と別れる。


「じゃあ、また明日ね!」

「ああ。また明日」

「日曜日、忘れないでね!」

「まだ決定じゃないだろ」

「決定だよ!」


 陽葵は手を振りながら、駅の方へ走っていった。

 俺はその背中を見送り、一人で帰路についた。

 その日の夜。

 夕食を済ませ、風呂から上がった頃に、陽葵からメッセージが届いた。

『今日は話してくれてありがとう』

 俺は画面を見つめた。

『別に。大した話じゃない』

 そう打ち込んでから、少し考える。

 そして、短く書き直した。

『こちらこそ』

 送信すると、すぐに既読がついた。

『日曜日、卵焼き作ろうね!』

 続けて、卵焼きの絵文字が送られてくる。

 俺は母親からのメッセージを思い出した。

『今週の土曜日、そちらへ行きます。話したいことがあります』


 母親が来るのは土曜日。

 陽葵が来るのは日曜日。


 たった二日間の予定なのに、どちらも落ち着いて迎えられる気がしなかった。

 陽葵からは、すぐに返事が届いた。

『やった! 約束ね!』

 俺は思わず小さく笑った。



 その頃、陽葵の家では。


「ただいまー」


 陽葵が玄関の扉を開けると、母親が台所から顔を出した。


「おかえりなさい。今日はどうだった?」

「奏太くんと、一緒に帰ってきたよ」

「そう」


 母親は微笑んだ。

 陽葵は鞄を置き、靴を脱ぐ。


「それでね、日曜日に奏太くんの家へ行ってもいいって」

「まあ。よかったわね」

「うん!」


 陽葵は嬉しそうに頷いた。

 しかし、母親は少しだけ表情を曇らせた。


「……陽葵」

「なに?」

「まだ、言わなくていいの?」


 陽葵の動きが止まった。

 手に持っていた鞄の紐が、指の間でわずかに揺れる。


「……うん」


 陽葵は、奏太が帰っていった玄関の方へ視線を向けた。


「まだ、いいの」

「でも、あの子は何も覚えていないみたいだったわ」

「だからだよ」


 陽葵は小さく息を吐いた。


「昔のことを話して、無理に思い出してもらいたいわけじゃないの」

「陽葵……」

「今の奏太くんに、今の私を見てほしいから」


 母親はしばらく何も言わなかった。

 やがて、優しく陽葵の頭を撫でる。


「そう。陽葵がそう決めたなら、私は待つわ」

「ありがとう、お母さん」


 陽葵は、もう一度玄関を見つめた。


「だって、やっと会えたんだもん」

「……ええ」

「今度は、ちゃんと私のことを知ってもらいたいの」


 陽葵はそう呟き、胸の前でそっと手を握った。

 まだ、言わなくていい。

 奏太が自分のことを思い出す、その時までは。

 陽葵の母親は、何も答えずに娘を見つめていた。

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