6話 平穏を守るための夜
ほうほうの体で学校を抜け出し、俺は一人、夕暮れの街を歩いていた。
高校生活二日目にして、この疲労感は何なのだろうか。ただ授業の説明を聞いて、すごろくをして、委員会を決めただけのはずなのに、精神的なHPはすでにゼロに近い。
重い足取りのまま、俺は通学路の途中にあるスーパーへと寄り道した。
自動ドアを潜ると、冷気とともに惣菜コーナー独特の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
普段なら自炊をするところだ。複雑な家庭環境から逃れるようにして一人暮らしを始めたこともあり、親から渡された潤沢な資金に頼るだけでなく、生きるための術として一通りの料理スキルは身につけていた。
だが──今日はもう、包丁を握る気力すら残っていなかった。
(……だめだ、今日は無理だ。完全に脳がキャパオーバー起こしている……)
思考を放棄した俺は、惣菜コーナーの棚へ一直線に向かった。
黄色い『半額』のシールが貼られたとんかつ弁当を迷わず手に取り、ついでに缶のお茶を一本カゴに放り込む。
(料理ができるからって、毎日自分で作る必要はない。今日はもう、これで十分だ……)
レジで会計を済ませ、ビニール袋を提げて店を出る。
静かなアパートへの帰り道を歩きながら、俺はとにかく早く自分の部屋のベッドに飛び込みたい一心で足を早めた。
スーパーを出て、夕暮れの街を歩き、ようやく俺は一人暮らしのアパートへとたどり着いた。
鍵を開けてドアを開けると、外の喧騒が嘘のような静けさが迎えてくれる。
薄暗い玄関の片隅。そこにちょこんと置かれた小さな鉢植えに、俺は自然と視線を落とした。
「……ただいま」
返事のない空間で、ぽつりと呟く。
無意識のうちに、学校で見せていた警戒モードの顔がふっと緩み、口元が少しだけ綻んでいることに自分でも気づいていた。
俺の趣味は、観葉植物を育てることだ。
玄関だけでなく、リビングのテレビ脇や窓際、さらには寝室の棚にまで、家の中にはいくつかの鉢植えが置いてある。
高校進学を機に一人暮らしを始めたのはつい最近のことだが、この趣味自体は実家にいた頃からのものだ。
冷え切った家庭環境、自分勝手な親たち。ただ潤沢なお金を渡されて放置されるような息の詰まる実家で、俺はそのお金を使って観葉植物を買い、自分の部屋でひっそりと育てていた。
言葉を返すわけでもないけれど、ただそこに黙って根を張り、水をやれば少しずつ芽吹いていく姿に、どれだけ救われてきたか分からない。自分勝手な大人たちに振り回される毎日の中で、こいつらは俺にとって数少ない心の支えだったのだ。
だからこそ、今日の委員会決めの時、図書委員のような他にも地味な選択肢があった中で俺が美化委員に逃げ込んだのは――他でもない、植物に触れられるからだ。
校内の花壇の手入れや緑の管理。どうせ委員会に入らなきゃいけないなら、少しでも自分の好きなものに関われる場所がいい。そんな思いが、あのとき俺の背中を押していた。
「よし……」
靴を脱いでリビングへ上がり、買ってきた半額のとんかつ弁当をテーブルに広げる。
ほとんど味わうことなく夕食を済ませると、俺はすぐにじょうろを手に取った。
玄関、リビング、そして寝室。それぞれの部屋を巡りながら、緑の葉たちに順番に声をかけるように水を与えていく。
土の乾き具合を指先でそっと確かめ、葉に付いた埃を優しく拭き取りながら、たっぷりと水を含ませる。
乾いた土にしっとりと水が染み込んでいくのを見つめながら、俺の表情はさらに柔らかく緩んでいった。今日一日の疲れや緊張が、すーっと解けていくような心地がした。
水やりを終えてリビングへ戻り、ソファに身を預けたところで、ローテーブルの上に置いていたスマホがブッと短く震えた。
画面を覗き込むと、通知欄に表示されたのは――見たくもない名前。
「…………」
送られてきた通知のプレビューを一瞬だけ視界に入れ、俺は溜息混じりに画面を伏せてテーブルの上に放置した。メッセージを開くことすら、今の俺には余計なエネルギーの消費でしかない。
あそこから逃げ出して手に入れたこの一人暮らしの部屋は、どこまでも静かで、少しだけ寂しいけれど、あの頃に比べたらずっと息がしやすい。
伏せたスマホから視線を外し、部屋のあちこちで静かに佇む観葉植物たちを見渡す。
「……はぁ」
深く息を吐き出すと、立ちかけそうになった心の波風が、少しずつ静まっていくのが分かった。
画面の向こう側の冷たい世界よりも、いま目の前で静かに命を育んでいる緑のほうが、俺にとってはよっぽど確かな存在だった。
溜息とともに伏せたスマホには二度と視線を向けず、俺はそのまま立ち上がった。
通知を確認する気なんて、これっぽっちも湧いてこない。余計なことに思考を割くくらいなら、温かい湯船に浸かって今日一日の疲れを洗い流すほうが百倍マシだ。
「……風呂、入るか」
脱衣所へ向かい、服を脱ぎ捨てて浴室のドアを開ける。
勢いよくシャワーをひねると、温かい湯気が一気に小さな浴室を満たしていった。
シャンプーを頭に泡立てながら、今日一日の出来事が頭の中を駆け巡る。
怒涛のすごろく、嵐のような委員会決め。思い返すだけで溜息が出そうになるが、シャワーの温水が頭頂部から全身を伝い落ちるたび、強張っていた筋肉がじわじわと解けていくのが分かった。
湯船の中にゆっくりと身体を沈める。
「ふぅ……っ」
思わず口から漏れた深い息が、湯気の中に消えていく。
画面の向こう側の煩わしい世界も、明日から始まる高校生活の騒がしさも、この湯船の中までは追ってこない。
浴槽のフチに頭を預け、天井から滴り落ちる水滴をボーッと眺めながら、俺は一人だけの静かな時間を全身で噛みしめていた。
しっかりとお湯につかり、疲れを吐き出しきった俺は湯船から上がった。
脱衣所で身体を拭いてドライヤーをかけ、リビングへと戻る。時計の針を見ると、思っていたよりも良い時間になっていた。スマホの画面は相変わらず伏せられたままだ。そこに何が届いていようと、今の俺が夜の静寂を乱されてやる義理はない。
「……よし、もう寝るか」
明かりを消しながらリビングを後にし、俺は寝室へと移動した。
静まり返った部屋のベッドに、吸い寄せられるようにバタリと倒れ込む。シーツの心地よい肌触りが、残った身体の力をじんわりと抜いてくれた。
暗闇に目が慣れてくると、月明かりが差し込む窓際に置かれた観葉植物のシルエットが浮かび上がった。
「……おやすみ」
誰にも聞こえない声でそっと呟く。小さく揺れた気がした緑に見守られながら、俺は目を閉じた。
明日からは、いよいよ本格的な六時間授業が始まる。
池田先生に巻き込まれた美化委員の活動もこれからどうなっていくか分からないし、翔太たちをはじめとした怒涛のクラスメイトたちにペースを乱される未来も嫌でも目に浮かぶ。
穏やかで地味な高校生活を送るという俺の計画は、早くも暗雲が立ち込めている。
けれど、この自分の部屋に帰ってくれば、静かで確かな俺だけの居場所がある。
(……まあ、目立たず平穏に。なんとか波風立てずにやり過ごすさ)
心の中でそう自分に言い聞かせながら、俺はゆっくりと深い眠りへと落ちていった。




