2話 奏太くん、って呼んであげる
「よし、今日のホームルームはここまで! 教科書の購入とかの手続きは明日やるから、今日は気を付けて帰れよー」
高橋先生が教卓の荷物をまとめて教室を出ていくと同時に、張りつめていた空気が一気に解け弾けた。
机の荷物を片付け始める者、さっそくグループを作って話し始める者。ガヤガヤと騒がしくなる教室の中で、俺はとにかく早くこの場を立ち去ろうと、指定カバンの中に筆記用具を放り込んでいた。
だが、その目論みは一瞬で崩れ去る。
「おいおい清水ー! 初日からヤバいな!」
ガタッと音を立てて、数人の男子生徒が俺の机の周りを取り囲んできた。さっき自己紹介の時に「W清水」と言って盛り上がっていた奴ら——たしか名簿順だと、中村、内藤、藤田の3人だ。
(中村は調子乗りのサッカー経験者っぽいやつ、内藤はそれに便乗するお調子者、藤田はクラスのノリにすぐ流されるタイプか……)
こういうどこにでもいる悪ノリ集団が一番苦手だ。悪気がない分、余計にたちが悪い。
「まさかこんな美少女と同じ苗字とか、お前前世でどんな徳積んだんだよ!」
「岐阜からわざわざ岡山の高校に来て、運命の出会いか? なぁ!」
「『清水ペア』としてこれからいじられまくり確定だな〜」
中村を中心にニヤニヤとした好奇の視線が突き刺さり、俺の胃のあたりがキュッと痛む。握りしめた拳の中に、嫌な汗がじわりと滲んだ。
(頼むから……放っておいてくれ……)
言い返す気力すら湧かず、ただ下を向いて黙り込むことしかできない。俺が何も反応しないことで、中村たちが少し首をかしげ、場の空気が急激に冷え込みそうになった、その時だった。
「はいはい、お前らそこまで! 初日からあんま弄ってやるなよー」
パンと手を叩く音と共に、前の席から佐藤翔太が勢いよく立ち上がった。
翔太はニッと爽やかな笑顔を浮かべながら、俺を取り囲んでいた中村たちの間にすっと割り込んでくる。
「奏太、引っ越してきたばかりでまだ緊張してんだからさ。それに、自分から『清水』って呼ばれるの苦手だって言ってたろ? あんまりしつこくすると嫌われるぞー」
「え、あ……そうなの?」
「マジか、ごめんごめん! 別に悪気はなかったんだよ」
翔太の明るく、けれど筋の通ったフォローに、中村たちは気まずそうに苦笑いを浮かべた。翔太が持ち前の陽気な空気で場を和ませてくれたおかげで、嫌なトゲが刺立つことなく、自然と弄りのノリが霧散していく。
「じゃあな清水……あ、奏太! また明日!」
「明日話そうぜー」
中村、内藤、藤田の3人がそれぞれの席へと戻っていく背中を、俺は呆然と見送った。
「サンキュ、佐藤……助かった」
小さく息を吐き出しながらお礼を言うと、翔太は振り返って、親指をグッと立てて見せた。
「気にすんなって! 俺もさっきは強引に『清水』って呼ぼうとして悪かったしな。みんな根は悪い奴らじゃないから、焦らずいこうぜ、奏太」
初対面で冷たく突っぱねた俺に対して、嫌な顔一つせず、当たり前のように庇ってくれた翔太。
クラスの中心に立つような奴の眩しさに少しだけ気圧されつつも、胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じていた。
翔太とのやり取りで少し心が軽くなり、俺は今度こそ帰宅の準備を終わらせようと鞄のジッパーを引いた。
——だが、平和な時間は一瞬で終わりを告げる。
「ねえねえ! ちょっといい?」
不意に、頭上から凛とした澄んだ声が降ってきた。
ハッとして顔を上げると、目の前に眩しい笑顔を浮かべた美少女が立っていた。
肩で柔らかく揺れる髪、パッチリとした大きな瞳。先ほど教室中を惹きつけた『もう一人の清水』——清水陽葵だった。
(……な、なんだ?)
予想外の至近距離に、思わず背中が硬直する。
陽葵は俺の驚きなど意に介さず、机に両手をちょこんとついて身を乗り出してきた。ほのかに甘いコロンのような香りが鼻腔をくすぐり、俺はとっさに視線を少し下に逸らした。
「岐阜から引っ越してきたんだよね? 遠くからすごーい! 岡山はどう? もう慣れた?」
「……あ、いや。まだ先週来たばかりだし……」
「あはは、そりゃそうだよね! あ、改めまして! 清水陽葵です。同じ『清水』同士、よろしくね!」
屈託のない、太陽のような笑顔。
男子なら誰でも一瞬で毒気を抜かれてしまいそうな完璧な親愛の情に対して、俺の胸に去来したのは重い警戒心と拒絶感だった。
(ダメだ……こういう眩しい奴と関わっちゃいけない)
目立たず静かに過ごしたい俺にとって、クラスの人気者になることが確定している陽葵と親しくなるのはリスクでしかない。ましてや、大嫌いな『清水』という言葉で括られるなど、もっと御免だった。
「……別に、よろしくしなくていい」
俺は故意に声を低くし、冷淡な視線を陽葵に向けた。
「え?」
「……俺はただ、静かに過ごしたいだけなんだ。同じ苗字だからって特別扱いされたくないし、さっきみたいに『W清水』とか言われるのも不愉快だ。……悪いけど、話しかけないでくれ」
そう言い放った俺の言葉に、周囲の空気が凍りつくのが分かった。
普通の女子ならショックを受けるか、気分を害して二度と近寄ってこなくなるはずだ。
だが——陽葵は怒るでも傷つくでもなく、パチパチと大きな目を瞬かせた。
そして、ふっと表情を緩めると、悪戯が成功した子供のような柔らかい笑みを浮かべたのだ。
「ふーん……そっかぁ」
陽葵は机から離れるどころか、さらにひょいと顔を覗き込んできた。
「じゃあさ、苗字じゃなくて『奏太くん』って呼べば問題ないよね?」
「……は?」
「さっき翔太くんとも話してたでしょ? 苗字で呼ばれるのが嫌なんだよね。……ねえ、何でそんなに自分の名前嫌いなの?」
踏み込んできてほしくない俺のトラウマの領域に、彼女は土足で、けれど悪意のない純粋な好奇心だけで踏み込んできた。
あまりの距離の詰め方に、俺は開いた口が塞がらない。
「嫌いな理由は言いたくないなら別にいいけどさ。……でも、わたしは自分の名前、けっこう気に入ってるんだよね」
陽葵は胸を張り、眩しいほどの笑みを俺に向けた。
「だから、奏太くんが自分の苗字を大嫌いでも、わたしは気にせず話しかけるから! クラスで一番最初に『奏太くん』って呼んだの、わたしなんだからね!」
「っ……勝手に決めつけるな」
「ふふ、じゃあまた明日ね、奏太くん!」
ひらひらと手を振りながら、陽葵は軽やかな足取りで教室を去っていく。
その背中を、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。
(なんだあいつは……人の話を聞けよ……)
頭を抱えたくなった。
冷たく突き放せば諦めて離れていくと思っていたのに、まさか正面から突破されるなんて思ってもみなかった。
前の席で一部終始を見ていた翔太が、「あいつ、すげーな……」と苦笑いしながら肩をすくめている。
(静かに、目立たず過ごすはずだったのに……)
岐阜から逃げるようにやってきた、ここ岡山での新しい生活。
大嫌いな『清水』という苗字と、太陽のように眩しい『もう一人の清水』。
最悪な春の始まりと共に、俺の高校生活の幕が上がった。




