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同じ苗字の君と恋をすることになった  作者: 暁 暁音
第1章 大嫌いな苗字とはじまりの春
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1話 同じ苗字の美少女と、最悪な春の始まり

俺の名前は、清水奏太。

 自分で言うのもなんだが、この『清水』という苗字が大嫌いだ。

 昨日の夜、ようやく新居のアパートに届いた段ボールの山が片付いた。

 ワンルームの小さな部屋。家具も家電も、高校生の一人暮らしにしては不相応なほど最新のものが揃っている。

 すべて、あの人が寄越した金で買い揃えたものだ。

 母親は、新しい再婚相手にゾッコンだった。

 家には滅多に帰ってこず、ダイニングテーブルの上に無造作に置かれた分厚い封筒だけが、俺と母親を繋ぐ唯一の存在だった。いくらでも湧いて出てくる冷たい札束。あそこにあったのは『家族』なんて温かいものじゃなく、俺を遠ざけるための手切れ金のような金だけだ。

 だから俺は、高校進学を機に地元を捨てた。

 誰の干渉も受けず、誰も俺を知らない場所で静かに暮らすために。


「……はぁ」


 新品の制服に袖を通し、玄関の鏡を見る。

 鏡の中に写る自分は、どこか冷めた目をしたどこにでもいる高校生だ。


鍵をかけてアパートを出ると、春の少し冷たい風が頬を撫でた。

 駅へ続く大きな通りに出ると、同じ紺色のブレザーを着た生徒たちの姿がちらほらと目につき始める。楽しそうに喋りながら歩く男子二人組や、スマートフォンを覗き込みながら笑い合う女子生徒たち。

(あの人たちも、同じ青葉高校の生徒か……)

 春の陽気も手伝ってか、すれ違う誰もが新しい生活への期待に胸を膨らませているような顔をしていた。眩しくて、どこか誇らしげで、見ていて少しだけ目眩がする。

 あの中に混ざりたいとも、友達を作りたいとも思わない。

彼らが過ごしてきたであろう「温かい日常」と、俺が過ごしてきた「冷え切った日常」の間には、埋めようのない溝があるような気がしていたからだ。

 イヤホンの音量をひとつ上げて、通りを歩く集団から少し距離を置くようにゆっくりと歩を進める。

 坂道を登りきると、小高い丘の上に建つ

『県立青葉高等学校』

の校門が見えてきた。大きなアーチをくぐると、満開の桜の木の下で生徒会らしき先輩たちが爽やかな声を張り上げている。


「新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます! 掲示板で自分のクラスを確認してくださいね!」


 その賑やかな声を背に受けながら、俺は人混みを避けるように昇降口へ向かった。

靴箱に書かれた自分の名前——『清水奏太』の文字を指先でそっと撫で、小さく息を吐き出す。

 誰も俺の過去を知らない。あの冷え切った家も、母親の顔も、ここにはない。

 ただひとつ、この『清水』という大嫌いな苗字だけが、今も俺の背中にまとわりついたままだ。

(……静かに、目立たずに過ごそう。どうせ三年間なんて、あっという間に終わる)

 そう自分に言い聞かせ、掲示板で確認した1年B組の教室のドアを引き開けた。


 教室に入ると、すでに半分ほどの席が埋まっていた。

 黒板の端に貼り出されている座席表に目を走らせる。

 自分の名前を探し出し、真ん中の列の後ろから二番目へと歩を進めた。指定されたロッカーに重い指定カバンを押し込み、自分の席に腰を下ろす。

 机の右上に貼られた小さなシールには、はっきりと印刷された

『清水奏太』

の文字。

 視界に入るだけで、胸の奥が少しだけ重くなる。

(……見ないようにしよう)

 溜め息を飲み込み、視線を窓の外へ投げかけたその時だった。


「よっ! 隣……じゃなくて、前よろしくな!」


 前の席の男子生徒が、勢いよくくるりと振り返った。

 ワックスで少し跳ね上げた髪に、親しみやすそうな大きな目。いかにもクラスの中心になりそうな、陽気な雰囲気を纏った男だった。


「俺、佐藤翔太! よろしく! お前、名前なんていうの?」


 差し出された明るい笑顔と、屈託のない問いかけ。

 俺は一瞬だけ口を言葉に詰まらせ、それから短く答えた。


「……奏太。よろしく」

「へえ、奏太か! あ、下の名前なんだな。……ん?」


 佐藤は首をかしげ、俺の机の端にあるシールにふと目をやった。


「なんだ、机に『清水』って書いてあるじゃん! じゃあ清水って呼ぶわ——」

「……苗字で呼ぶな」


 自分でも驚くほど、冷たく低い声が出た。


「え……?」


 佐藤の笑顔がピキッと固まる。

 やってしまった、と思った。初対面の相手に対して、あまりにも過剰で攻撃的な拒絶。だが、どうしても『清水』という言葉で呼ばれることだけは耐えられなかったのだ。


「……ごめん。別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ、苗字で呼ばれるのがあんまり好きじゃなくて……『奏太』って呼んでくれた方が嬉しい」


 取り繕うように言葉を重ねたが、一度冷え切ってしまった空気は簡単には戻らない。


「あ、あぁ……そうなんだ! ごめんごめん、急に苗字で呼ぼうとして! じゃあ奏太な!」


 佐藤は引きつった苦笑いを浮かべながら慌ててフォローしてくれたが、どこか遠慮がちな態度に変わってしまった。そのまま気まずそうに前を向き直してしまう。

(……はぁ。やっぱり、俺は人と関わらない方がいいな)

 初日からクラスメイトと壁を作ってしまったことに後悔しつつも、どこかでほっとしている自分もいた。これで無駄に踏み込まれずに済む。


そのまま一人で静かにチャイムを待っていると、ガラガラと音を立てて教室のフロントドアが開いた。

 担任らしき、少し疲れた顔をした中年男性の教師が入ってくる。教壇の上に教務用のファイルのようなものをドサッと置くと、教室全体をぐるりと見渡した。


「はい、全員着席ー。ん、座席表と照らし合わせても欠席はなしか。初日から遅刻ゼロは感心感心」


 先生は手元の名簿にペンでチェックを入れると、パンパンと大きく手拍子を打った。


「よし、じゃあ早速だが、これから体育館で入学式を行う。移動に遅れると他のクラスに迷惑がかかるからな、手荷物は置いて廊下に五十音順で二列に並べー」


 その言葉に、教室のあちこちから「えー、もう?」「心の準備が……」と小さなざわめきが起こる。

 すると、さっき俺の前で固まっていた佐藤翔太が、待ってましたと言わんばかりに元気に手を挙げた。


「せんせー! 先生の名前聞いてないです! あと俺たちの自己紹介は!?」


 クラスの空気を一気に明るくする翔太の問いかけに、教壇の先生は苦笑いを浮かべながらひらひらと手を振った。


「ん、お前は....佐藤か、気が早いな。俺の自己紹介も、お前たちの自己紹介も全部入学式が終わってからだ。式が終わったらホームルームでたっぷり時間を取るから、まずは速やかに廊下に並ぶ! ほら移動移動!」

「ちぇー、お預けかよー」


 翔太は頭の後ろで手を組みながらゾロゾロと立ち上がり、周りの男子と顔を見合わせて笑い合っている。

 俺も席を立ち、指示されるがまま廊下へ出た。五十音順で二列に整列させられる中、俺は自分の席と同じように、できる限り人の視線が届かない場所を求めた。


「清水ー、お前は一列目の一番後ろなー」


 担任に促されるまま移動し、一列目の最後尾に収まる。背後には誰もいない。この場所なら、余計な視線を浴びずに済む。

 自分の前には他の生徒たちの背中がズラリと並び、誰がどんな顔をしているのかすらわからない。当然、この時の俺は、すぐ近くの列にどんな奴が並んでいるのかなど知る由もなかった。

 大嫌いな『清水』という苗字をみんなの前で名乗らなければいけない時間は、どうやら少しだけ先延ばしになったらしい。

 わずかな安堵感を抱きながら、俺は体育館へと続く渡り廊下を歩き出した。


体育館へと移動し、パイプ椅子が規則正しく並べられた広い空間へ足を踏み入れる。

 始まった入学式は、お決まりの退屈な時間の連続だった。

 校長先生の「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」から始まる挨拶は、驚くほど長かった。春の心地よい暖かさと相まって意識が遠のきそうになるのを、俺は必死で耐える。未来への希望や夢といったキラキラした言葉がスピーカー越しに耳を素通りしていくだけの時間が、永遠のように感じられた。

 来賓の祝辞、在校生代表の言葉と続き、ようやく閉式の辞が告げられた頃には、体育館全体に疲労感が漂っていた。


「……ふぅ」


 退場の手順に従ってぞろぞろと体育館を後にし、渡り廊下を通って1年B組の教室へと戻る。

 これで逃避時間は終了だ。

 席につき、黒板の前に立つ担任と目が合う。


「よし、全員席についたな。長々とつまらん話を聞かされて疲れただろうが、ここからが本番だ。約束通り、一人ずつ順番に自己紹介をしてもらうぞ」


 教室の空気が、緊張と少しの浮ついた高揚感でピリッと跳ね上がる。

 俺は深く息を吐き出し、胸の奥で重く渦巻く嫌悪感を押し殺しながら、順番が巡ってくるのをじっと待った。


「っと、その前にだ。人の名前を聞く前にまず自分から名乗るのが筋ってもんだよな。俺の自己紹介がまだだった」


 教壇に立った先生はチョークを手に取ると、黒板に大きくダイナミックな文字で『高橋 宏明』と書き走らせた。


「担当は現代文で、名前は高橋宏明。この1年B組の担任を務めることになった。部活は陸上部の顧問をやってる。趣味はキャンプと筋トレ……まあ、見ての通り至って普通のおっさんだ」


 自虐混じりに肩をすくめて見せると、クラスのあちこちからクスクスと小さな笑い声が漏れた。初対面の緊張を解きほぐすようなフランクな語り口に、教室の雰囲気が少しだけ柔らかくなる。


「厳しい校則を押し付けるつもりはないが、人に迷惑をかけることと嘘をつくことだけは許さん。……まあ、固い話はここまでにしておこう。この一年間、よろしくな」


 パチパチと教室に温かい拍手が広がり、高橋先生は満足そうに頷いた。


「よし、じゃあ次はみんなの番だ。出席番号一番から順番に、名前と出身中学、一言抱負でもなんでも言っていってくれ」


 そう言って、高橋先生は教卓の上の名簿に目を落とした。

一番の女子生徒が少し緊張した面持ちで立ち上がり、自己紹介を始める。それを皮切りに、順番に生徒たちが立っては自分の名前や好きな食べ物、入ろうと思っている部活などを語っていった。

 一人終わるたびにパチパチと軽い拍手が起き、時に小さな笑いが生まれる。和やかな雰囲気で進んでいく教室の隅で、俺一人だけが手元の机をじっと見つめていた。自分の番が近づいてくるにつれて、嫌な汗がじわりと滲んでくる。

(名前と出身中学だけ言って、さっさと座ろう……)

 心の中で何度もシミュレーションを重ねていると、俺の前の席の男——佐藤翔太が、椅子の脚をガタッと鳴らして威勢よく立ち上がった。


「はい! 次は俺ですね!」


 翔太は教壇の高橋先生に片手を軽く掲げると、くるりと教室全体を振り返った。先ほど俺に話しかけてきた時以上の、眩しいほどの破顔だ。


「佐藤翔太です! 出身は南中学! 中学ではサッカーやってて、高校でもサッカー部に入るつもりです! 好きなものは白飯と部活後のプロテイン! 中学のときは『クラスの賑やかし担当』って言われてたんで、この1年B組もみんなで最高に楽しくしていきたいと思ってます! 男子も女子も気軽に『翔太』って呼んでください! よろしくー!」


 ハキハキとした大きな声と、突き抜けた明るさ。

 クラス全体から「おおー!」「よろしくー!」と大きな拍手と歓声が沸き起こり、教室の空気が一気に盛り上がった。一瞬でクラスの中心人物の座を射止めるような、天性の陽キャ感。


「よし、元気があってよろしい。佐藤、期待してるぞー」


 高橋先生も嬉しそうに頷き、名簿にチェックを入れる。


「じゃあ次、清水——」


 どっと沸いた教室の余韻が残る中、俺の名前が呼ばれた。

(次は俺か……嫌だな。本当に嫌だ……)

 心の中でそう呟きながら、俺は鉛のように重い体をゆっくりと持ち上げた。

 翔太が作ってくれた和やかな空気が、俺が立ち上がったことでどこか冷ややかな静寂へと変わっていくような錯覚を覚える。

 大嫌いな苗字を口にしなければいけない苦痛と、クラスメイトたちの視線が一斉に自分へ集まるプレッシャー。胃のあたりがズキズキと痛み出すのを必死で耐えながら、俺は手元の机の一点だけを見つめて口を開いた。


「……清水奏太です」


 できる限り低く、短く、ボソボソとした声。


「……出身中学は、岐阜県の市立中学です。親の仕事の都合で、この春から岡山に引っ越してきました。……よろしくお願いします」


 必要最低限の言葉だけを淡々と吐き出し、深々とお辞儀をする間もなく逃げるように席へと腰を下ろした。

 岐阜からわざわざ岡山の高校へやってきたという情報に、周りの生徒たちが「遠くから来たんだな」「引っ越し?」と、ほんの少しだけ顔を見合わせてざわつく。


「おう、清水は岐阜からか。慣れない土地で大変だろうが、何かあったら遠慮なく言えよ」


 高橋先生がフォローするように優しく頷いてくれたが、俺はただ小さく頭を下げることしかできなかった。

(よし……終わった。これで俺の仕事は全部終わりだ)

 無事に自分の名前を名乗り終え、胸を撫で下ろす。これで明日からは、存在感を消して静かに過ごせるはずだった。


「じゃあ次ー、清水陽葵」


高橋先生が名簿の次の欄を読み上げたその瞬間、俺の思考はピタリと止まった。



「……は?」



 高橋先生が次の名前を呼んだ瞬間、俺の口から思わず小さな声が漏れた。

 清水なんてそこそこ見かける苗字だ。だから、この広い学校に同じ苗字の奴が一人くらいいてもおかしくはない……もしかしたら、なんて頭の片隅でよぎったことはあった。

 だが、まさか同じクラスに、しかも自分のすぐ後ろの順番に本当にいるなんて、夢にも思っていなかった。


「はいっ!」


 鈴を転がしたような、透き通った声が教室に響き渡る。

 俺の数歩後ろで、ガタッと勢いよく椅子が引かれる音がした。

 思わず振り返ると、そこには春の陽射しをそのまま絵に描いたような女の子が立っていた。

 ふわりと揺れる肩までの髪に、パッチリとした大きな瞳。眩しいほどの笑顔を浮かべたその美少女は、クラス中の視線を一瞬で奪い去っていく。


「清水陽葵です! 出身は地元の岡山市内です! 趣味は音楽を聴くことと、可愛いカフェ巡りです! 人と話すのが大好きなので、男子も女子もどんどん話しかけてくれたら嬉しいです! 一年間、よろしくお願いします!」


 パチパチパチッ! と、男子生徒たちを中心に今日一番の大きな拍手が沸き起こった。

 翔太の時とはまた違う、華やかで、教室の温度が一段上がったような高揚感。

 だが、拍手が鳴り止むか鳴り止まないかのタイミングで、クラスの男子がニヤニヤしながら声を上げた。


「なぁなぁ先生! さっきの清水と、今の清水で『W清水』じゃん!」

「ほんとだ! 苗字被ってる!」「しかも岐阜から来た暗い奴と、超明るい美少女の清水ペアかよ!」「運命じゃん運命〜!」


 ドッと教室が大きな笑いに包まれる。

 いじり半分の冷やかしと、クラス特有の悪ノリ。

(やめろ……頼むからやめてくれ……)

 俺は俯き、必死で拳を握りしめた。大嫌いな苗字で注目を集め、弄られる苦痛に胃が押し潰されそうになる。


 だが——さっき一番に「清水って呼ぶわ!」と言って俺に拒絶された前の席の佐藤翔太だけは、その弄りの輪に加わらなかった。

 後ろを振り返ることも、面白がって声を上げることもせず、ただ前を向いたまま静かに座っている。初対面で俺に冷たくあしらわれた気まずさからか、それとも俺が苗字を嫌がっていたのを覚えていて気を遣ってくれたのかはわからない。


「こら、お前ら調子に乗るなー。清水が二人いて紛らわしいのは確かだから、呼ぶ時は下の名前で呼ぶとか工夫しろよ」


 高橋先生がパンパンと手を叩いて教室の喧騒を宥める。


「はいはーい! じゃあみんな、わたしのことは『陽葵』って呼んでね!」


 陽葵はまったく気に留めた様子もなく、むしろ悪ノリに乗っかるようにちゃめっ気たっぷりに笑ってみせた。

(嘘だろ……なんでこんな目立つ奴と同じ苗字なんだ……)

 頭を抱えたくなった。


目立たず、静かに、誰とも関わらずに過ごすはずだった俺の高校生活。

その計画は、登校初日のわずか三十分で、この『もう一人の清水』によって見事に崩れ去ったのだった。

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