プロローグ
俺は、自分の苗字が大嫌いだ。
リビングのダイニングテーブルには、今日更新されたばかりの厚みのある封筒が置かれている。
中身を確認するまでもない。一万円札が二十枚。俺がこの家で「生きていくため」の費用だ。
「奏太、ごめんね。今月もパパと海外出張だから、ご飯は適当に買って食べてね」
机に添えられた母親のメモ書きには、丸っこい可愛らしい文字でそう書かれていた。語尾に描かれたハートマークが、やけに白々しく見える。
父さんと母親が離婚したのは、僕が小学校に上がる前だった。
その後、母親が連れてきた「新しい父親」は、羽振りのいい実業家だった。母さんはその男に心底ゾッコンで、男の気を引くことだけに人生のすべてを捧げている。俺という存在は、彼女たちの熱狂的な恋愛ごっこの邪魔にならないよう、潤沢なお金で隅っこに追いやられていただけだ。
苗字が変わった日のことを、今でも覚えている。
親の勝手な都合で突然塗り替えられた、新しい苗字。
『清水』
清らかで、透き通るような美しい響き。
けれど僕にとってその苗字は、愛の欠片もない家で「金で買われた家族」の証であり、俺を縛りつける冷たい記号でしかなかった。
いくらお金があっても、誰も帰ってこない暗い部屋は温かくならない。
豪勢な弁当を買って食べても、口の中に広がるのはいつも同じ無機質な味だけだった。
「……もう、いいや」
高校入学を機に、俺は地元を遠く離れることにした。
幸いにも、あの人たちは「お金」だけは惜しみなく差し出してきた。学費と一人暮らしの初期費用、そして当面の生活費を請求すると、母親はろくに俺の顔も見ずに快諾した。自分の恋愛に邪魔な息子が遠くへ行ってくれるなら、安い買いものだと思ったのだろう。
こうして俺は、誰の干渉も受けない、誰も自分を知らない遠くの街へ逃げてきた。
大嫌いな苗字を抱えたまま、ただなんとなく息を吸って、なんとなく生きていく。
そんな灰色の高校生活が始まるのだと、この時の俺は本気でそう思っていたんだ。
——あの春、彼女に出会うまでは。




