第8話:古株の特権と、もやし40キロの監獄
有給を取得する3人は、あっという間に決まった。選ばれたのは、調理員たちの中でも特に発言権の強い古株の3人だ。
この厨房の調理年数は、以下のようになっていた。
・チーフ:10年
・古株3人:20年
・中堅3人:10年
・やや新人:1年半
・野崎:3週間くらい
調理員歴20年の古株たちが、こういう美味しい休みを絶対に真っ先に取っていく。一応、形だけは他のみんなにも「休みたい人いる?」と聞いてはいるのだが、もちろん新人の野崎に「休むかい?」なんて言葉が掛けられるはずもなかった。はじめから休むつもりなんてないけれど、その空気感がたまらなく嫌だった。
(あぁ、嫌だな……。明日はチーフを入れてたったの6人か……)
想像しただけで胃がキリキリと痛む。人数が減る分、メニュー自体は楽なものに設定されているのかもしれない。けれど、そんなことよりも、いつもの忙しい厨房の方が何倍もマシだった。チーフと同じ空間に長く居続けなければいけないという事実だけで、気が重すぎた。
実家に帰ると、母親が心配そうな視線を投げかけてくる。
母親「どうしたの?」
野崎「うーん。明日は子学校の分しか給食がないからメニューが楽らしくて、3人お休みするんだって。その代わり、お昼休憩がいつもより長いみたいだから退屈だなぁと思って」
母親「そっか。大丈夫?」
野崎「……うん! 大丈夫!」
母親の目をごまかすのは本当に難しい。ほんの些細な表情の硬さや、声のトーンの変化を、母は敏感に察知しているようだった。
次の日のことを考えると嫌すぎて、その夜はほとんど眠れなかった。
結局、ひどい寝不足のまま出勤の日を迎える。
子学校の給食しか作らないため、敷地内には自分の学校の生徒が全くおらず、校舎内は恐ろしいほど静まり返っていた。給食室へと続くあの無機質な廊下が、いつもよりやけに長く、暗く感じられた。
重い扉を開けて休憩室に入り、「おはようございます!」と元気を出して挨拶をする。調理員の中では野崎が一番乗りだった。
チーフはデスクに座ってパソコンをいじっており、野崎の挨拶を完全に無視した。
しばらくして、次の先輩調理員が出勤してきて「おはようございます」と言うと、チーフは顔を上げて「おはよう」と優しく返す。
(……もうこれ、大人のやるイジメだろ)
いい歳をした大人が、新人の挨拶すら返さないなんて。恥ずかしくないのだろうか。チーフの耳元で、耳を引っ掴んで大声で「おはようございます!!」と叫んでやりたい衝動を必死に抑え込んだ。
*
いよいよ調理が開始される。
最初の野菜の下処理作業を進めていると、本日の強敵「長ネギ」が登場した。
春の長ネギには、通称『ネギ坊主』と呼ばれる非常に厄介な芽が出現する。長ネギの白い筒の中に、もう一個別の硬い芽が潜んでいるような状態だ。こいつの何がタチが悪いかというと、外見からはどこに潜んでいるかが全く分からない点にある。一本一本、縦に包丁を入れて割ってみないと発見できないのだ。
いつもなら下処理の工程には5人ほどの人数が割かれているのに、3人有給を取ったせいで、今日はチーフを除くとわずか2人しかいない。
目の前には60本近くの長ネギ。そして、その後ろには下処理を待つ他の野菜たちが山のように積まれている。正直、完全に人手が足りていなかった。
(メニューが楽って、どの口が言ったんだよ……。全然終わらねえわ!)
さらにここでも、マニュアルの厄介な規則が野崎を苦しめる。
「もやしは一番汚染されている食材のため、必ず最後に洗うこと」
その量、なんと40キロ近く。水を溜めた水槽のようなシンクを3個通して、最終的に大きなザルへと盛り付けていく作業だ。もちろん、泥や変色などの汚れを厳しくチェックしながら。
なんと、この過酷なもやし洗いを、野崎はたった1人で押し付けられることになった。
2人で作業していたはずなのに、もう1人の先輩が別の「裁断」の工程に急に連れて行かれてしまったからだ。
想像してみてほしい。水を並々と溜めた巨大な水槽に、40キロものもやしを放流した光景を。
もやしは水の中でウヨウヨと四方八方に散らばっていく。それを、すべて自分の両手だけで掬い上げ、隣のシンクへと移し替えなければならないのだ。効率よくザルなどを使って一気に掬うことは絶対に許されない。「汚れや異物を発見できなくなるから」という理由で、必ず手で直接掬うよう定められているからだ。
それを、シンクからシンクへ、3回も繰り返す。汚れを一瞬たりとも見落とさないように目を凝らしながら。
べらぼうに時間がかかるに決まっている。
案の定、もやしの下処理に時間を大幅に取られたせいで、厨房全体のその後のスケジュールがドミノ倒しのように遅延していった。
*
周りの冷ややかな視線を浴びながら、なんとかギリギリのところで子学校へ給食を送り届けることができた。
その後の長いお昼休憩中、チーフはあからさまに不機嫌なオーラを撒き散らし、休憩室の空気は凍りついていた。
午後の洗浄作業などが一段落した頃、当然のように、チーフから誰もいない休憩室へと呼び出された。
チーフ「野崎さん、調理作業始めて2週間経ったけど……どう?」
野崎「どう……とは……?」
チーフ「うーん、言うべきか迷ったんだけどさぁ。やっぱり作業が遅いんだよね。野崎さんの仕事が遅いと、みんなの迷惑になるから」
野崎「すみません……。『丁寧にやって』と言われていたので、丁寧さを意識するあまり、速度がまだ追いついていなくて……」
「迷惑」という言葉をぶつけられるのは、これで一体何度目だろう。
まだ本格的に調理に携わって、たったの2週間しか経っていないのだ。それなのに、未経験の私に対して求めるハードルが高すぎる。自分なりに、限界までめちゃくちゃ努力しているというのに。
チーフ「あとさぁ、あなた私に何も質問してこないよね? 野崎さんってなんか不安なんだよね。何を考えているか全然分からないし」
チーフは心底嫌そうに鼻で笑った。
(――何も聞いてこないってさぁ!!)
質問したってまともに教えてくれないし、冷たく突き放すか、それどころか挨拶すら無視するくせに。
よくもそんな白々しい台詞が吐けたものだと、野崎の心の中の怒りは、いよいよ抑えきれないところまで膨れ上がっていた。




