第6話:コンプレックスへの嘲笑と、初任給への夢
チーフのお説教は、逃げ場のない休憩室でなおも続いた。
チーフ「それとさぁ。野崎さんって話してる途中で目を逸らすよね? それ、人に対して失礼じゃない?」
心臓がドクンと跳ねる。一番触れられたくない、心の奥底に隠していた痛みを引きずり出された感覚だった。
野崎「すみません……。私、本当に軽度の斜視がありまして……。人の目をずっと見続けるのが苦手なんです。失礼にならないようには、自分なりに頑張っているんですけど……」
チーフ「あー、そんな感じするわーw ぽいぽいww なるほどねーw」
チーフは、いやらしい歪んだ笑顔を浮かべながら、あからさまに野崎の身体的な特徴を馬鹿にして笑った。
泣きそうだった。
悔しかった。
苦しかった。
いつもいつも目が離れてしまうわけじゃない。ずっと一点を見つめ続けていると、少しだけ片方の目が外側に離れてしまうのだ。それは野崎にとって、幼い頃からの最大のコンプレックスだった。
(分かってたよ。気持ち悪いって思われてるかもしれないことくらい……。私だって嫌なんだよ。大嫌いなんだよ、この目!)
だけど、人の顔を見ずに話すのは失礼にあたるからと、自分なりに必死に痛みを堪えて相手の目を見る努力をしていたのだ。それを「そんな感じするわw」と、土足で踏みにじって嘲笑うチーフの神経が信じられなかった。
泣き出しそうなのを必死に堪えている野崎を前に、チーフの攻撃はさらに加熱していく。
チーフ「まぁ、その目はいいけどさぁ。自分で会話を作りなよ。あなたがみんなの輪を乱してるの、分かる?」
野崎「すみません……努力します……」
チーフ「本当に努力するのかなぁ〜w 前に言ったよね? みんなの仲が良くないと給食が美味しくならないって。――ねえ、給食、美味しい?」
野崎「……美味しいと思って食べてます」
チーフ「美味しいんだーw 私はね、4月が過ぎてから給食の味が変わった(落ちた)と思ってるよ。――誰のせいかなぁ?」
野崎「……」
チーフ「校長先生は検食とかで『美味しい』って言ってくれてるけどさ、あれ、お世辞って知ってる?」
野崎「そうなんですね」
チーフ「『そうなんですね』じゃないんだよ!! 輪の中に入れって言ってんの。分かる? 明日からちゃんと見てるからね」
野崎「……はい……」
心も、身体も、もうとっくに限界を迎えていた。
*
タイミングを見計らったかのように施設の清掃作業が終わり、他の調理員たちが休憩室に戻ってくる。
……そう、みんなが戻ってくると、チーフは一切野崎を責めなくなるのだ。
(何度もボイスレコーダーを仕掛けようと思った。なのに、いつも急に呼び出してくるから録音なんて無理……!)
周りには決して自分の悪事を露呈させない、狡猾なトカゲのような女だった。
清掃が終わると、調理服から私服に着替える時間になる。
もちろん、新人の野崎はいつも一番最後に着替えなければならない。おばさんたちが着替えている間、野崎は全員分の「お茶汲み」に追われる。
そして、ようやく野崎が着替え始める番になると、おばさんたちは自分たちだけでワイワイとお茶を飲み、お菓子を貪り始めるのだ。
当然、野崎がその輪に入る余地などない。
飲むことも、食べることも許されないまま、着替え終わった野崎を待っているのは、みんなが使い終わったマグカップを洗い、拭き、棚に戻すという最後のパシリ業務だった。
(私は、この給食室の奴隷なのだろうか……)
虚しさで指先が震える中、帰り際にはしっかりと「お茶・お菓子代」の500円が徴収された。
……解せぬ。本当に、何一つとして解せなかった。
*
家に帰ると、さすがにいつものように元気を装うことができなかった。
暗い顔をしていた私を見て、両親が心配そうに顔を覗き込んできた。
母親「元気ないけど、どうした?」
父親「何かあったのか?」
本当は、全部ぶちまけてしまいたかった。
チーフに遅刻魔にされたことも、名前を書くなと言われたことも、身体のコンプレックスを笑われたことも、全部、全部――。
野崎「……ううん、大丈夫だよ」
嘘つきだ、私は。大丈夫なわけがない。
本当はね、本当はね、毎日死にたいくらい辛いんだ。
とっても苦しくて、今すぐ大声で泣き叫んで、お母さんに抱きしめてほしい。
(でも……私がここで泣いたりしたら、みんなに余計な心配をかけちゃうよね)
まだ、頑張れる。もう少しだけ、頑張らなきゃ。
せっかく正社員として就職できたのに、こんなにすぐ根を上げて辞めるわけにはいかない。
それに、野崎には絶対に叶えたいささやかな夢があった。
『初任給を貰ったら、家族みんなにお礼がしたい』
高い高級なお店でご馳走することはできないかもしれない。それでも、これまで育ててくれた感謝の気持ちを、自分の初任給で伝えたかったのだ。
(初任給を貰うためにも、もっと頑張らなきゃいけないよね。家族のためなら、私はどんな我慢だって努力だって、いくらでもできるよ)
2人の兄も、野崎の様子がおかしいことに薄々気づいているようだった。
「おい、ゲームしようぜ!」と明るく声をかけてくれて、その夜は3人で仲良くゲームに没頭した。
不思議だった。大好きな家族がそばにいてくれるだけで、昼間の地獄のような出来事が嘘みたいに、少しだけ元気になれる気がした。
(大好きな家族に囲まれて、私は本当に幸せだなぁ……)
そう思えるからこそ、夜、自分の部屋でベッドに入ると、堰を切ったように大泣きしてしまうのだった。今日職場で味わった、あの生々しい悲しみと悔しさが、呪いのように頭から離れてくれない。
この頃から、毎晩のように寝つきが悪くなっていった。
ようやく眠りにつけても、見るのは決まって、夢の中でまでチーフたちに頭を下げて謝り続けている最悪の悪夢ばかり。
睡眠すら奪われ、野崎の精神は確実に、少しずつ、鋭利な刃物で削り取られるようにボロボロになっていった。
どんなに夜の闇の中で「朝よ、来ないでくれ」と願っても、残酷に朝日は昇る。
野崎は鏡の前で、ひび割れそうな胡散臭い笑顔を必死に顔に貼り付けた。
「いってきます」と声を絞り出し、今日もあの監獄へと出勤していく。




