第45話:ピン子、まさかの再来と私の「終了のお知らせ」
時間なんて本当に1分1秒すら残されていなかった。
配膳台にセットしている余裕すらなかったため、私たち調理員全員がそれぞれ食缶や天板を抱え、各クラスの教室へと直接給食を届けることになった。
焼き上がったばかりの魚は文字通りアッツアツの極限状態。普段なら生徒たちが火傷しないように少し冷ましてから配食するのだが、そんな猶予はどこにもない。焼きたての熱すぎる食缶を抱えた調理員さんたちは、指先に火傷を負いながら必死に配食を続けていた。
学校の校舎は4階建て。
4階が1年生、3階が2年生、2階が3年生と職員室という構造になっていた。
そして、階段を駆け上がらなければならない「4階(1年生)への直行便」を任されたのは、私と、私の次に若い調理員さんの2人だった。
これが、文字通り死ぬほどしんどかった……。
熱気と蒸気でただでさえ暑すぎる給食の食缶を、腕がちぎれそうになりながら抱え、階段を全速力でダッシュする。
オーブン前での温度バトルとマヨネーズ騒動ですでに身体はヘロヘロ、限界を迎えていたけれど、この4階までの全力階段ダッシュが、1日の中で一番体力を削り取られた瞬間だった。
ゼェゼェと激しい息を吐きながら、汗で顔も身体もドロドロの状態で給食室に戻ると、そこにはすでに私服に着替えを済ませ、一人のんびりと温かいお茶をすすっているピン子さんの姿があった。
ピン子「ちょっとちょっとー! 私、今日はこんなにガッツリ手伝う予定じゃなかったんだからねー? 感謝してよー? もう!」
女チーフ「あはは……本当に、ありがとうございました……。すみませんでした……」
ピン子「今日、ぜーんぜん『視察』が出来なかったから、また機会があったら来るからねー! じゃあねん♪」
ピン子さんはそれだけ言い残すと、嵐のように颯爽と去っていった。
女チーフ「野崎さん、本当にごめんね……。ピン子さんをそっちの持ち場に押し付けちゃって。でも、野崎さんが文句も言わずに受け持ってくれたから本当に助かったよ」
野崎「すみませんチーフ……。アクシデントが多すぎて、皆さんにもたくさん迷惑をかけちゃって……」
女チーフ「いいのいいの! 野崎さんのせいじゃないって、みんなちゃんと分かってるから!! 普段から丁寧な仕事をしてくれてる野崎さんなんだから、今日のことは完全に……ね?(笑) ピン子さんをそっちに配置しちゃった私の責任でもあるし。何より、時間内に間に合ったんだから全然大丈夫!」
自分の中では、「100%ピン子さんのお喋りと計量ミスのせいで遅れた」という確信があったけれど、それでも他の調理員さんたちに負担を強いてしまったことが申し訳なくて、私がしょんぼりしていると、現場のみんなが優しく声をかけて慰めてくれた。
その温かさに触れた瞬間、それまでの激しい疲れが全て報われるような気持ちになった。
◇
その後、新しい人は入ってこないものの、1週間ほどは一人欠員の状態でもトラブルのない平和な時間を過ごしていた。
けれど――あの泉ピン子は、恐ろしいほどの「有言実行」の女だった。
ある日の朝、みんなでいつものようにのんびりと仕込み作業をしていた時、給食室の扉がガラッと開き、突然ピン子が襲来した。
女チーフ「えぇっ!? ピン子さん、おはようございます。今日、ウチに視察の予定入ってましたっけ……?」
ピン子「違う学校に行こうと思って家を出たんだけどね〜、その学校よりこっちの学校の方が今日のメニューが大変そうだったから、こっちに変更してあげたのよん! 嬉しいでしょお?」
野崎(ヒェッ……!!!)
嬉しくない。1ミリも嬉しくない。
ピン子さんが調理服に着替えるために更衣室へ向かっているわずかな間、残された私たちは手を猛スピードで動かしながら、小声で緊急作戦会議を開いた。
――今回は、誰が「生贄」になるか。
今日来るなんて誰も知らなかったから、当然、施設内の掃除だって完璧に行き届いていない可能性がある。
女チーフ「今日のメニューは揚げ物だし、そんなに作業自体は忙しくないんだけど……。でも、ピン子さんをどこかの持ち場にお願いして作業に集中させないと、視察としてあちこち細かい指摘をされる時間が増えちゃう。どこに配置しよう……」
ちなみに、今日の私の担当は「コロッケを揚げる人」だった。
心の中で、私は小さなガッツポーズ(バンザイ)を決めた。
コロッケの調理は、冷凍のコロッケを大きい網に並べ、そのまま巨大な揚げ釜に投入して揚げるだけなので、ぶっちゃけ一人で十分に回せる。今回は絶対に、ピン子さんのお守り担当は私じゃない。そう確信していた。
しかし、調理服に着替え終えたピン子さんが調理室に足を踏み入れた瞬間、その鋭い視線がまっすぐに私を捉えた。
ピン子「あら、野崎さん! 今日も私が手伝ってあげるわよ〜♪」
私、終了のお知らせ――。
どうやら、前回の過酷な環境の中で、私が必死に繰り出したちょっとした相槌や、話を適当に合わせたのが、彼女にとってすこぶる心地よかったらしい。完全に気に入られてしまっていた。
私自身、入社してまだ1年半くらいで、すべてのマニュアルを100%完璧にこなせているかと言われると、正直そこまで強い自信はなかった。
それなのに、事務所の目の上のたんこぶであるピン子さんが、私のすぐ真横にぴったりと張り付いてくるのだ。「絶対に失敗できない」「間違った動きを見せたら即アウトだ」と、心臓が爆発しそうなくらい一気に緊張が跳ね上がった。
案の定、ピン子さんは調理に関係のない私生活の話が多すぎた。
「ウチの長男が沖縄で結婚してさ〜」とか、「そのお嫁さんがどうしても気に入らなくて〜」とか、ノンストップで喋りかけてくる。
私は揚げるためのコロッケの個数を必死に数えながら網に移しているのに、真横でマシントークを展開されるせいで、頭の中の数字がこんがらがって全然数えられない。
ふと顔を上げると、遠くの調理室の陰から、他の調理員さんと目が合った。
(可哀想に……頑張れ……)という、同情に満ち溢れた切ない表情をしている。
チーフまでもが、遠くから申し訳なさそうに私に向かって手を合わせて拝んでいた。
……なんて日だ!!!
ピン子の嫁への愚痴のシャワーを浴びながら、私はコロッケの数を何度も数え直すという、孤独で過酷な戦いに身を投じることになった。




