第43話:ピン子の愚痴と、届かない75度の壁
せっせと生の魚を巨大なタライに移し、下味をつけていく。
ここまでは順調。ここから先の「アルミカップに魚を並べる作業」に入るベストなタイミングで、私はついにピン子さんを自分の持ち場へと呼び寄せた。
野崎「ピン子さん! すみません、この下味をつけた魚をアルミカップに1枚ずつ載せていってもらってもいいですか? ある程度並んだら、私が後ろからマヨネーズをかけていくので……!」
ピン子「あらぁ。私のお手伝いは高いわよぉ? ……んふ、う、そ! 私って、普段はこんな下々の作業をする女じゃないのよー? と・く・べ・つ!」
野崎「あはは……。すみません、よろしくお願いします……」
……一々、一言一言のクセが強いんじゃあ!!!
心の中で激しいツッコミを入れながらも、私は必死だった。
オーブンで焼くメニューというのは、給食調理の中でも一際「時間との勝負」になる。
現場のオーブンは、1枚の天板に載せられる魚が40個程度。そして、一度にオーブン内に入れられるのは最大で6天板まで。
つまり、1回に焼ける限界の数は約240枚なのだ。
じっくり火が通って焼き上がるまでの時間は、1回につき大体20分。
全校生徒と教職員を合わせた1050人分の魚をすべて焼き切るには、最低でも「5回」はオーブンをフル回転させて焼かなければならない計算になる。
つまり、ただオーブンに入れている「焼く時間」だけで【100分】は確定で消費されるのだ。
実際には、焼き具合の目視確認や、重い天板の上下の入れ替え作業、焼き上がったものの取り出しなどがあるため、もっともっと膨大な時間がかかる。
オーブンが回っている間に、私たちは次の天板に向けて、手を休めることなくどんどんアルミカップに魚を詰め、マヨネーズをかけ続けなければならない。
最初から最後まで、常に限界のタイムアタック。いかに1秒も無駄にせず作業できるかが全ての命綱だった。
ピン子「あーん。手袋してても、この魚冷たいわねぇ。身体が芯から冷えちゃいそう」
冷凍の魚を冷蔵庫で事前に自然解凍させているため、中心が半冷凍のままアルミカップに詰めることになる。触れば指先が痛いくらい冷たいのは、私もよく分かっている。
だけど――。
魚に触るたびに「冷たい冷たい」と文句を言われても、こっちだってどうしようもないのだ!! 私は黙々と手を動かしているというのに!!
ピン子「ねぇ、野崎さんはこの学校何年目なの〜?」
野崎「あ、今年で1年経ちました」
ピン子「なぁに、じゃあこの学校が初めての勤務なの?」
野崎「あー……いえ。実は前の学校で色々あって、こちらの学校に異動させてもらって来たんです」
ピン子「なぁに? 前の学校でなにかあったわけぇー?」
このクソ忙しい絶体絶命のタイムアタック中に、私の過去を根掘り葉掘り聞いてくるピン子さん。
私は必死に手を動かし、アルミカップに魚を猛スピードで詰めながら、なんとか当たり障りのない受け答えを続けていた。
すると、前の学校のクソチーフの名前を出した瞬間、ピン子さんの目の色が変わった。
ピン子「あー! あの〇〇チーフねぇ!! あたし大嫌いだわ、あの人。本当にやな女なのよねー。性格が捻じ曲がってるので有名よ、あそこは。しっかし貴方、よくあの人の下で辞めなかったわねぇ」
野崎「……そんなに有名なチーフだったんですね。私は給食の仕事自体が好きなので、どうしても辞めたくなくて、異動してでも頑張りたかったんです」
ピン子「やだ!! 久しぶりに骨のある良い子に出会ったわ!! 貴方、結婚してるの?」
前のクソチーフの話で猛烈に同情したのか、急に態度が軟化して優しくなったピン子さん。
だけど――とにかく喋る、喋る、喋る。
口が動く代わりに手が完全に疎かになっており、私が2個のアルミカップに魚を詰め終える間に、彼女が1個詰めていればマシな方という壊滅的なペースだった。
そうこうしているうちに、ようやく最初の6天板分(第1陣)が出来上がり、オーブンでの本格的な焼き作業がスタートした。
オーブンが稼働している間も、私はピン子さんのお喋りをBGMに、必死に次の魚をアルミカップに詰め続けた。
学校給食のルールでは、提供するすべてのメニューにおいて「中心温度の確認」が絶対義務となっている。
特に揚げ物や焼き物といった加熱調理は、食材の中心温度が【75℃以上(1分間以上加熱)】になっていないと、絶対に生徒たちに提供することができない。
そしてここで、恐れていた緊急事態が発生した。
中心が半冷凍状態の魚の上からマヨネーズをたっぷりと落として焼いたため、なんと、中の魚に火が通る前に、表面のマヨネーズだけが先に恐ろしい勢いで焦げ始めてしまったのだ。
慌ててオーブンから天板を引き出し、中心温度計を刺してみるが――魚の温度が、全然上がらない。
「58度……62度……」
全然、合格ラインの75℃に届かないのだ。
これ以上オーブンに入れ続けたら、中の魚が焼ける前に表面のマヨネーズが完全に黒焦げになって炭化して終わってしまう。
さらに最悪なことに、ウチの学校のオーブンは年季の入った古いタイプだったため、庫内の「焼きムラ」が尋常じゃなく大きかった。
一番上の段は火力が強くてよく焼けるのに、真ん中の段は熱が回らずぜんっぜん焼けない。
天板の位置を上へ下へと入れ替えたり、向きを変えたりと試行錯誤を繰り返すが、焦げを恐れて低温でじっくり焼いていると、今度は1回あたりの時間がかかりすぎて、全体の提供時間に絶対に間に合わなくなる。
かと言って、温度を上げて高温で焼けば、爆速でマヨネーズが黒焦げになる。
完全に詰んだ……オワタ……!!
野崎「チーフ……! マヨネーズが先に焦げちゃって、魚の中心温度がどうしても75℃まで上がりません!! どうしたらいいですか……っ!?」
女チーフ「えぇっ!? 嘘、どうしよう……。魚、もっと事前にしっかり解凍させておけば良かったかな……!」
私たちのパニックを横目に、視察のピン子さんが後ろから厳しい声を張り上げた。
ピン子「ちょっと! 魚は75℃絶対にいかないと提供ダメだからね!! 複数個しっかり温度チェックしてよ!?」
ピン子さん、口で言うのは簡単だけどね!!
今、時間内に温度を75度まで引き上げるのも、残りの大量の魚をアルミカップに詰めるのも、物理的に絶望的な状況なの!!! 分かってるなら少しは喋るのやめて手を動かして!!! お黙りになって!!!
女チーフ「と、とにかく、なんとかして温度をいかせないと……! マヨネーズがこれ以上焦げない程度の絶妙な低温にして、時間を変えてやりましょう……!」
時計の針は無情にも進んでいく。
この時、私の脳裏には「今日、配食時間までの提供、本当に無理かもしれない……」という最悪の結末が、はっきりと過っていた。




