第41話:女版・松岡修造、爆誕
金曜日も大残業だったというのに、明けた月曜日もしっかりと大残業だった。
この業界、普通に回っていれば残業なんて滅多にないはずなのに……!
正直なところ、いくら「マニュアルを厳守しろ」と言われても、実際の現場にはグレーゾーンというか、暗黙の了解のような部分がある。
例えば、マニュアルには『食材を触っている使い捨て手袋のまま、食缶や器具の取っ手に触れてはいけない』という厳しい規則がある。
けれど、そんなことを律儀に守って一工程ごとに手袋を替えていたら、1日に一体何枚の手袋をドブに捨てることになるの?という話だし、何よりその都度発生するタイムロスが半端ではない。だから、現場ではある程度そのまま通しで作業することがどうしても多くなる。
そうした、現場の判断で「少しずつ浮かせてきた数秒の積み重ね」によって、私たちは人手不足という大穴を必死に帳消しにしていたのだ。
だけど、事務所の視察が来るとなれば話は別だ。100%マニュアル通りの完璧なピクトグラムのような行動を取らなくてはいけない。
当然、一挙手一投足に慎重さを求められるため全体の動きは鈍くなるし、いちいち手順を踏むから余計な時間が爆発的にかかる。
女チーフ「明日……事務所から視察の方が来ますけど、皆さん、本当に、よろしくお願いします……!」
サブチーフ「マニュアル通りの行動を心掛けて頑張りましょう。いつもよりも丁寧に、かつ迅速に……頑張りましょう……」
あの元自衛隊で、ギプスをはめながら2リットルのお茶を運んできた最強のサブチーフが、「いつもの元気はどこへ行ったんだ」というくらい信じられないほどテンションを下げていた。
あのサブチーフにここまで絶望的な顔をさせる視察の人って、一体どんな閻魔様みたいな奴なんだろう……。
◇
次の日の朝。
目覚めた瞬間から、頭の中はめちゃくちゃ憂鬱だった。
絶対に、確実に忙しくて地獄絵図になることが分かっているから、本当に学校へ行きたくなかった。
重い足取りでようやく休憩室にたどり着き、ドアを開けると――チーフの隣に、すでに見知らぬ誰かがちょこんと座っていた。
え……まだ朝の7時40分だよ??
調理開始は8時30分だよ?? なんで、もう事務所の人間がいるの??
頭の中が「???」でいっぱいになりながら部屋へ一歩踏み入れた、その瞬間だった。
???「おっはようございまーーーす!!! 良い朝ですね!!!! 私、本日視察に参りました〇〇です!!! 皆さんと調理出来るのを楽しみにやって参りました!!! いやー!!! 楽しみですねーーー!!!」
不意打ちで鼓膜を突き破らんばかりの超絶ハイテンションが炸裂した。
うわぁ……女版・松岡修造や……。
「もっと…熱くなれよぉ!」とか「諦めんなよお前!」とかいう幻聴が今にも聞こえてきそうだった。
姿は小柄でボーイッシュな女性。なのに、一回喋り始めたら言葉のマシンガンが止まらない。修造の親戚か何かですか?と問い詰めたくなるくらい、内なる炎がメラメラと熱く燃え上がっていた。
私、根っからの根暗だから……こういうタイプ、一番苦手かもしれない……。
その後、他の調理員さんが出勤してくるたびに、彼女のクソデカボイスによる元気いっぱいな挨拶の儀式が繰り返された。
ちょっと待って、この会社の事務所の人たち、ヤクザ顔の次が応援団長ってキャラ濃すぎない?
全員が出勤し終え、朝のミーティングが始まると、もはやチーフの挨拶よりも先に「女版修造」が前に躍り出た。
修造「おはようございます!!!! 本日〇〇学校の視察担当です!!!! 皆さん、緊張していませんか!!?? だーいじょうぶですよぉ!!! 視察という名のちょっとした『人員補充』だと思って下さい!!! 一生懸命手伝いますね!!! 楽しみだなぁ!!!」
チーフの笑顔は完全に引き攣っており、調理員一同、引き気味の苦笑いを浮かべるしかなかった。
人手不足だし、今日のシチューがめちゃくちゃ忙しいのはみんな分かっている。だけど、給食業界のルールで「8時30分ぴったり」にならないと実際の調理作業は開始できない。
(少しでも早く始めさせてくれたら、余裕を持って時間内に配食が間に合うのに……。これってちょっとおかしなルールだよなぁ)と、当時の私は理不尽さを感じていた。
そして8時30分、運命の調理開始。
私たちはシチューの地獄工程に向けて、野菜の下処理を猛烈に急いだ。
手切りしなければならない大量の野菜をザザッと作業台に出すと、チーフと修造の2人がコンビを組んで裁断を開始した。
修造「包丁、まな板異常ありません!!! 裁断開始します!!!」
凄い。これが本当の「腹から声を出す」ってことなんだ、と体感するほど、調理室の端から端までビンビンに響き渡る大声。
イメージ的には、完全に体育祭の応援団長か、あるいは部活動の鬼顧問のような喋り方だった。
修造「いやぁ!!! 久しぶりの調理作業楽しいなぁ!!! この時間に追われて急かされている感じ!!! 生きてるって感じしますねぇ!!! くぅーーー!!! 皆さん!!! 頑張るぞーーーー!!!」
すまねぇ、修造さん……。
金曜日のパニックから月曜日の残業を経て、すでに心身ともにボロボロな私たちには、その太陽のようなテンションに合わせられる元気は1ミリも残っていないんだ……。
言動も行動も、とにかく暑苦しくて視界のカロリーが高い人だった。
――けれど、この女版修造、めちゃくちゃ仕事ができる有能な人だった。
ただ大声を張り上げているだけではなく、現場の動きを完璧に把握しており、作業が遅れてピリついている人のところへ、信じられない俊敏さで瞬時に助けに入ってくるのだ。
「そこ、代わります!!!」
「次これやりますね!!!」
嵐のように動き回る彼女の圧倒的なマンパワーのおかげで、マニュアル厳守という足かせがありながらも、私たちはなんとか時間内に、無事に子供たちへシチューを提供することができたのだった。
息を切らしながら配食を見送る私たちの横で、修造さんは「よしっ!」と爽やかに汗を拭っていた。




