# 第4話:仕組まれた絆創膏の罠と、消えた笑顔
野崎「すみません。ゴムベラなんて、今日初めて見ました。触ってもないです」
一歩も引かずに事実を告げると、チーフはバツが悪そうに視線を泳がせ、強引に話を締めくくった。
チーフ「……とにかく! みんな気をつけてね!」
野崎が理不尽に責められている間、他の調理員たちは誰一人として助けてくれない。みんな下を向いて、嵐が過ぎ去るのを待っている。
きっと、私はこの閉鎖的な厨房の『生贄』なのだ。私が標的になっている限り、自分たちに火の粉は飛んでこないから。
重い足取りで家に帰ると、母親が心配そうに声をかけてくれた。
母親「仕事どう? 大丈夫?」
野崎「うん。チーフはちょっと辛口だけど、頑張るよ。大丈夫」
――大丈夫なわけない。毎日、本当に辛い。
夜、自分の部屋で1人になると、抑えていた涙がボロボロと溢れ出して止まらなくなる。
(もう辞めたい……明日行きたくない……)
だけど、そう考えた次の瞬間には、就職祝いのバッグをくれた2人の兄の顔や、両親の優しい笑顔、そして近所の寿司屋の大将が「就職おめでとう!」と花火付きのプレートでお祝いしてくれた時の光景が頭をよぎる。
みんなの期待と温かい気持ちを裏切るのが申し訳なくて、「辞めたい」なんて口が裂けても言えなかった。
当時の野崎の心は、完全に病んでいたと思う。
現実逃避するように、劇団四季のライオンキングの劇中歌『ハクナ・マタタ』をYouTubeで永遠にリピートしていた。
“悩まずに〜生きる〜ことさ〜”という歌詞が、耳の奥で虚しく響く。
感情を殺せば、なんとかなる。
朝なんて、一生来なければいいのに――毎晩、本気でそう願っていた。
*
仕事に少しずつ慣れ始めた、4月20日頃のこと。
調理員に欠員が出て、派遣の調理員さんがヘルプにやってきた。そしてその翌日、悲劇が起きる。
給食室のシンクの下から、誰かが落とした「使用済みの絆創膏」が見つかったのだ。
給食の世界では、怪我をした際は必ずチーフに報告し、会社指定の絆創膏を貼った上でゴム手袋を着用する決まりになっている。さらに、異物混入を防ぐための徹底的な声出しが義務付けられていた。
作業を始める前には、
「包丁異常ないです! ゴム手袋異常ありません!」
作業の終わりには、
「包丁まな板異常なしです! ゴム手袋異常なしです!」
と、厨房内に響き渡る大声で報告しなければならない。
実は数日前、野崎は食器を片付ける際、カゴの鋭利な金属部分で指を大きく切ってしまい、絆創膏を貼っていた。そして偶然にも、あの派遣の調理員さんも指に絆創膏を貼っていたのだ。
ただし、野崎の傷は大きかったので『Lサイズ』。派遣さんのものは『Sサイズ』だった。
翌日の朝、チーフがすかさず獲物を見つけたハイエナのように、全員の前で声を張り上げた。
チーフ「給食室のシンクの下から、絆創膏が出てきました。これ、大問題よね? 異物混入になるよね!? ――野崎さん、あなたの絆創膏は?」
キッと恐ろしい目で睨みつけられる。
野崎「まだついてます」
野崎は、しっかりと絆創膏が張り付いている自分の手をチーフにかざした。
チーフ「今ついてるやつじゃなくてさぁ!! 『昨日』のはどうしたのって聞いてんの!」
野崎「昨日のやつが、まだそのままついたままです」
野崎はウルトラマンが光線を出すようなポーズのまま、両手を高く突き上げてアピールした。
小指の傷口をチーフの目の前に突き出し、「ココ! ココを見てください!」と無言の圧をかける。
チーフ「……チッ。嘘の可能性もあるよね?」
野崎「証明はできませんね。でも、明らかにサイズが違いますよ。私のはLサイズで、そこに落ちているのはSサイズですよね? 昨日来ていた派遣さんも、絆創膏を貼っていましたよ」
野崎が一切怯まず、真顔で理路整然と言い返すと、チーフは顔を真っ赤にしてフンッと鼻を鳴らした。
チーフ「とにかく!! 絆創膏なんて一番異物混入に繋がりやすいんだから、みんなも気を付けてよ!」
(……疑ったんなら謝れよ、この痴れ者が)
冤罪を認めるわけがないジャマイカ、と心の中で毒づく。だが、この日を境に、チーフからの野崎に対する当たりはさらに狂暴さを増していった。
家に帰っても、野崎の顔からみるみる笑顔が消えていくのを、家族も心配そうに見つめていた。
*
数日後の休憩室。チーフの悪口の矛先は、身内だけにとどまらなかった。
チーフ「マネージャーってさぁ、ホント仕事できないよねぇw あの人が厨房に来ても足手まといだからさ、下処理でリンゴの芯をとらせるくらいしか使い道ないわw」
調理員「あはは、分かる〜w」
調理員たちの年齢は40〜50代。対する会社のマネージャーは30代後半の男性だ。
いくら自分たちより年下だからといって、組織としての役職が上の人間をここまで徹底的にバカにする発言は、聞いていてあまりにも酷いものだった。
また別のお昼休憩中には、チーフがこんなことを言い出した。
チーフ「あ〜あ、今までは私がこの職場で最年少だったのに、野崎さんにその座を取られちゃったぁ〜」
調理員「チーフはまだまだ若いから大丈夫でしょ〜w」
42歳で最年少を気取っていたのか、このお局は。
そりゃあ、20歳の私が新しく入ってきたのが、よっぽど面白くなかったに違いない。くだらない嫉妬心に呆れ果てていると、チーフが手元に集金袋を取り出した。
チーフ「あ、野崎さん。みんなで帰りにお菓子食べたりお茶飲んだりするから、月に500円回収してるの。後で払ってね」
――お菓子? お茶?
この半月の間、野崎は休憩室でお菓子なんて一枚も口にしていないし、お茶も一杯だって手をつけていない。
それどころか、新人だからとお茶汲みを強制され、先輩たちのマイマグカップの持ち主を必死に覚えるパシリにされていたのだ。自分用にと持参させられたマグカップは、一度も使われることなく虚しく棚に置かれたままだ。
たかが500円。されど、この地獄の監獄に毟り取られる500円は、血の涙が出るほど忌々しい出費だった。




