第35話:新しいチーフ
4月、ついに新しいチーフがやってくる。
私の心臓は、朝から防犯ブザーでも鳴り響いているかのようにバクバクと暴れていた。
「女性のチーフ」という、その単語だけで、あの最初の1ヶ月間のトラウマがフラッシュバックする。
また、理不尽に虐められるんだろうか。
せっかくこの1年間、みんなと楽しく頑張ってこれたのに。またあの地獄に逆戻りするのかもしれないと思うと、不安と恐怖で、この学校に来て初めて「仕事に行きたくない」と本気で足がすくんだ。
チーフという役職は、給食室の解錠作業があるため、一般の調理員よりも早く出勤しなければならない。
つまり、学校のドアをくぐれば、100%の確率で新しいチーフがもうそこにいる。
休憩室のドアノブに手をかけ、私は肺の空気をすべて吐き出すように深く深呼吸をした。
口から心臓が飛び出しそうなこの感覚は、前の学校を飛び出した、1年前の5月以来だった。
意を決して、ドアを開ける。
野崎「おはようございます……!!」
室内には、まだチーフ以外誰もいなかった。私が調理員の中では一番乗りだった。
女チーフ「あ、おはようございますー! チーフの〇〇です。よろしくお願いしますね!」
野崎「野崎と言います。今日から、よろしくお願いします!」
……拍子抜けするほど、優しそうな顔をしたチーフだった。
どこかホッとした私に、新しい女チーフは「あ!」と何かに気づいたように顔を輝かせた。
女チーフ「あ、野崎さん……? あぁ! 〇〇チーフ(前のチーフ)から聞いてるよ! 『凄く頑張り屋さんだから、しっかり見守ってやってほしい』って、すっごく頼まれてたの! 〇〇チーフ、あなたのこと本当に心配しててさぁ。昨日も私に電話してきたんだよ? 笑」
野崎「チーフ……っ」
一瞬で、胸の奥がカッと熱くなった。
あのお父さんのようなチーフは、違う学校へ異動してしまった最後の最後まで、私のことを気にかけて、新しいチーフへの根回しまでして守ろうとしてくれていたのだ。
チーフの不器用な優しさが温かくて、私のガチガチに強張っていた心は、一瞬で綺麗に解きほぐされていった。
それから全員が揃ったところで、朝のミーティングが始まった。
女チーフ「今日からここのチーフを任せられました、〇〇です! 皆さんと美味しい給食が作れるように頑張ります! 何か分からないことがあったら何でも聞いてください! 私もこの学校のやり方について、皆さんから沢山教えてもらうと思います。今日から一緒に頑張りましょう!」
全員「よろしくお願いします!」
女チーフ「で、いきなり大変な連絡なんですが……。実は新人さんの数が足りなくて、ウチは1人欠員した状態の『7人』でスタートするようです!」
その言葉に、給食室は一瞬で騒然となった。
なぜならウチの学校は、同業者の間でも有名なほど「めちゃくちゃ忙しい学校」だったからだ。
その激務の原因は、他でもない。
あの北川景子に激似の、美しすぎる栄養士の先生だった。
あの先生、見た目は天使のように美しいのに、調理への「こだわり」がとにかく異常に強かった。
例えば、他の学校なら手軽に【乾燥パセリ】を使用するところを、ウチの先生は絶対に【生パセリ】を使うと譲らない。
乾燥パセリなら、完成した料理にパラパラと直入れして終わるだけの作業だ。
しかし、生パセリとなると工程が爆発的に増える。
膨大な量のパセリの葉をすべて手作業で茎から毟り取り、潰しすぎないように絶妙な加減でミキサーにかけ、布でしっかりと水気を絞る。さらに料理に投入する際も、葉同士が繋がっていないか、ダマになって固まっていないかを一粒一粒確認しながら散らしていくのだ。
このような、現場泣かせの「余計なこだわり」がメニューの至る所に散りばめられていた。
当然、洗い物も工程も爆発的に増えるため、他の通常作業がどんどん後回しになり、すべての工程がドミノ倒しのように遅れていく。
こだわりが強いお陰で、出来上がる給食は震えるほど美味しい。それは間違いない。
だけど、正直言って人手が足りなすぎるのだ。
ただでさえ新しいチーフに変わって現場の体制が手探りなところに、マイナス1人の欠員。
――それは、完全なる絶望の始まりだった。
4月の記憶は、文字通り「忙しすぎて記憶が飛んでいる」ほどしんどかった。
毎日、子供たちが待つ給食の配給時間ギリギリのデッドヒート。
その戦場のような状態を知っているはずなのに、北川景子(栄養士の先生)は一切の妥協を許さない。失礼、美しき栄養士はどこまでも頑固だった。
他の学校は、ほとんど機械を使って野菜をカットしているというのに、ウチの先生は頑なに「手切り」を所望する。
キャベツも人参も、手で切る。これだけで、どれだけの時間と人手が奪われるか。
ウチの学校は定員の8人が揃っていてもカツカツなのに、なんなら9人いたって人手が足りないレベルのブラック現場だったのだ。
噂によると、他の学校の調理員さんは、午前の作業が終わると休憩室でお茶を飲む余裕すらあるらしい。
私たちが髪を振り乱し、がむしゃらに刃物を動かしている間、他の学校ではお茶をすすっている。……これで同じ給料だという事実に、4月中は何度も枕を高くして絶望した。
しかし、5月頭。ついに救世主の報せが舞い込む。
女チーフ「皆さん! ウチに、新しく新人さんが入るようです!」
「猫の手も借りたい」を通り越して「怪獣の手でもいいから欲しい」状態だった我が給食室は、文字通り大歓喜に沸いた。
新人に仕事を教える手間なんて、もう誰も考えていなかった。とにかく、動く「人間の手」が欲しかったのだ。
そして数日後、ついに新しい新人さんが襲来した。
けれど、休憩室に現れたその姿を見た瞬間、私たちは全員、言葉を失って2度見した。
こいつぁ、たまげた。
やってきたのは、40代半ば頃の女性。
なんと、上下ヨレヨレの、ボロボロのジャージを着て現れたのだ。
初日は校長先生への挨拶があるから、ちゃんとした小綺麗な格好をしてくるようにと、会社から厳しく言われているはずなのに……!
初手からルール完全無視の強烈なキャラクターの登場に、給食室に激震が走った。
てぇへんだ!! 今年の5月、何かが起きる予感しかしない……!




