第2話:「お試し」の洗礼と、理不尽な罠
この会社には有給休暇のほかに「リフレッシュ休暇」という制度がある。
有給は半日(0.5日分)単位で使えるが、リフレッシュ休暇は1日丸ごとの休みにしか使えない。そのため、もしここで午後休(半日休)を取るためにリフレッシュ休暇を使ってしまうと、0.5日分が丸々無駄になってしまう計算だった。
チーフ「野崎さんも帰っていいよ? リフレあるでしょ?」
笑顔で話を振ってきたチーフに、野崎は少し考えてから答えた。
野崎「あ……私はリフレッシュ休暇、今回は取っておきます……」
チーフ「あ、そう? じゃあ帰る人は帰っちゃって!」
チーフの言葉に、他の調理員さん3人は嬉しそうに帰宅していった。
結局、広い休憩室にはチーフと野崎の2人きり。気まずい沈黙の中でお昼ご飯を食べ終えた、その時だった。
チーフ「さっきさぁ。『帰っていいよ』って言ったっしょ?」
野崎「はい」
チーフ「あれ、野崎さんのこと試してたんだよねぇ。これで本当に帰ったら、もう終わりだなって」
野崎「あ……あはは……」
――試すって何? 終わりってどういうこと……?
なぜこの人は、出会ったばかりの私に対してこんなにも攻撃的なのだろう。冷や汗が背中を伝う。
チーフ「野崎さんって何歳?」
野崎「二十歳です」
チーフ「絶対子持ちでしょ」
野崎「え……いないです……結婚もまだです……」
チーフ「え、いないの!? 絶対いると思った〜! だっていないと、こんな仕事その若さでしないでしょ?」
ドッと下品に笑うチーフを前に、野崎は愛想笑いすら消えかけていた。
野崎「あ、そうなんですね……」
チーフ「彼氏は? いないの?」
野崎「います」
チーフ「結婚は? しないの?」
野崎「まだ考えてないです……」
なぜ初対面の相手に、ここまでプライベートをズケズケと踏み荒らされなければならないのか。
何より「こんな仕事」という言い方が引っかかった。まるで底辺の仕事だと見下しているようなニュアンスに聞こえて、胸の奥がチリチリと波立つ。
その日の帰り道、重い足取りで実家に帰宅すると、予想もしないサプライズが待っていた。
2人の兄から「就職祝いだ!」と、お洒落なバッグをプレゼントされたのだ。さらに両親からも、就職祝いのご馳走と、これから先々の冠婚葬祭でも使えるような、少し良いブランドの黒いバッグを贈られた。
「頑張るんだよ」「応援してるからね」
家族の温かい言葉に触れた瞬間、昼間の張り詰めていた糸が切れ、ボロボロと涙が溢れてきた。
(……よし。どんなに嫌な職場でも、この人たちのために絶対に頑張ろう)
野崎はバッグを強く抱きしめ、心に誓った。
*
次の日も、その次の日も、チーフからの地味な嫌味は続いた。
3日間の清掃期間が終わり、月曜日。いよいよ本格的な給食調理が始まった。
実家暮らしの野崎は、それまであまり本格的に包丁を握る機会がなかった。それでも、人並みには使えるつもりだった。
しかし、学校給食の現場は想像以上にシビアだった。
厨房の仕事には「A」から「I」までの明確な役職がある。
A:チーフ(固定)
B:当番(メイン調理)
C:揚げ物担当
D:下処理リーダー
E:調味料の計量
F:野菜を機械にかける
G:野菜を茹でる
H:外回り(配膳台を各階へエレベーターで運ぶ業務など)
I:フリー(欠員補助や何でも屋)
これらを毎日、BからC、CからD……といった具合にぐるぐると回していくのだ。
だが、新人の野崎はまず、業務を覚えるための「ステップ」と呼ばれる研修作業から入ることになった。
最初の1週間は、先輩の動きを見ながら「H(外回り)」の動きを付きっきりで学ぶ。次の週は「G(野菜茹で)」を学ぶ。
最初のお題となった「外回り」は、食器を配膳台に積み込んだり、食具やトレーをセットしたりと、とにかく覚えることが山積みだった。
(忘れないうちにメモを取りたい……!)
そう思っても、調理室内へのペンやメモ帳の持ち込みは一切禁止されている。万が一の異物混入を防ぐためだ。野崎は必死に頭の中に業務を叩き込んだ。
1日目から3日目までは、先輩の調理員さんがマンツーマンで丁寧に教えてくれた。
4日目は、時々先輩が見に来てくれる程度で、ほぼ1人での実践。
そして、運命の5日目。
この研修が始まる前、チーフから冷たい声で釘を刺されていた。
チーフ『いい? 5日目は完全に1人でやってもらうから。誰にも仕事内容を聞いちゃダメだからね? 「誰も助けてくれない、聞けない」って思わないと、必死に覚えないっしょ?』
(絶対にミスしてやるもんか……!)
チーフの言葉を思い出しながら、野崎は必死に動き回った。
4日目の段階でほぼ完璧に流れを掴んでいたため、5日目の本番は見事なほどスムーズに、完璧にやり遂げることができた。
大きな配膳台を1個ずつエレベーターに乗せて上げ、各階で受け取り、それぞれのクラスの前に設置していく。
ふぅ、と息を吐いて全ての設置を終えたその時。
廊下の真ん中に、腕を組んだチーフが仁王立ちしているのが見えた。
チーフ「あのさぁ。なんで全部1人でやってるわけ?」
開口一番、チーフは不機嫌極まりない顔で野崎を睨みつけた。
チーフ「なんで誰にも聞かないの? ミスはないみたいだけどさぁ。普通、新人が全部1人でやろうと思う? 先輩を舐めてるの?」
――は?
野崎の頭の中が真っ白になった。
「1人でやれ」と言ったのは、他でもないチーフあなただ。
きっと、新人の私がテンパってミスを連発し、泣きついてくるのを待っていたのだろう。それを完璧にこなされてしまったのが、よっぽど気に食わなかったらしい。
(ミスがないなら文句ないだろ、クソ上司が……!)
笑顔の仮面の下で、野崎の心の中の導火線に、静かに火がついた。




