第18話:圧倒的な味方と、新人の守護霊
学校の重いガラス扉を押し開け、玄関から一歩外に出た瞬間――。
なぜだか、ポツリと涙が1粒だけ頬を伝い落ちた。
後ろに他の調理員が続いていないかを素早く確認し、バレないように服の袖口でグッと拭う。
(なんなんだろう、今の涙。本当に無意識だった……)
悲しかったわけじゃない。むしろ、その時の野崎のテンションは最高潮に跳ね上がっていたのだ。
(うおぉぉおおお! やっとあのクソ職場とオサラバだぁぁあああ! この!! 校門を一歩またげば!! 私は完全なる自由でーーーーす!!)
心の中ではそれくらい大騒ぎして歓喜していたのに、体は正直に、この1ヶ月間の緊張の糸が切れたことを察知して涙を流していた。
*
普段、学校まではバスを使って通勤していたのだけれど、この日だけは父親が車で迎えにきてくれることになっていた。
道路の向こう側、あの信号を渡った先にお父さんの車がいる。
おかしなものだ。朝、家を出てからまだ10時間も経っていないはずなのに、一刻も早く家族の顔が見たくて、待ち遠しくて仕方がなかった。
(それにしても、ここの歩行者信号、長すぎない? もしかして壊れてる?)
焦れる気持ちを抑えきれず、私は押しボタン式の信号を何度も何度も無駄に連打した。それでも変わらないライトに落ち着きをなくし、その場で地団駄を踏むように足踏みを繰り返す。
客観的に見たら、当時の野崎は「めちゃくちゃトイレを我慢していて漏れそうな人」にしか見えなかったに違いない。
パッと歩行者信号が青に変わった瞬間、私は全力でダッシュして横断歩道を駆け抜けた。
助手席のドアを開けて車内に滑り込むと、運転席の父親だけでなく、後部座席には母親も一緒に乗っていた。
二人の顔を見た瞬間、また視界がじわっと涙で滲んだ。
朝からずっとチーフのいない厨房で気を張って、マネージャーに直談判をして、ボロボロになった私の前に現れた「圧倒的な味方」。その存在の傍にたどり着いたという事実だけで、計り知れない安堵感が押し寄せてきたのだ。
父親・母親「「お疲れ様」」
二人が同時にかけてくれた優しいその一言が、堪えていた涙のダムを完全に決壊させた。ポロポロなんて可愛いものじゃない、大粒の涙が次から次へと溢れ出して止まらなくなる。
母親が後部座席から身を乗り出し、私の小さな体をそっと抱きしめてくれた。
母親「アンタは本当によく頑張ったよ。普通、あんな酷い目に遭った場所に、一日休んだからって戻れないよ。アイツ(チーフ)がいないからって、現場に行く辛さは変わらなかったはずなのに。次のステップに進むために、今日一日ちゃんと戦ってきたんだね。偉かったよ。よく頑張った。本当に、本当によく頑張ったんだよ」
無理だった。そんなことを言われたら、もう号泣するしかなかった。
鼻水も涙も堰を切ったように溢れ出し、私は母親の肩口に顔を埋めて、子供みたいに声を上げてバカみたいに泣きじゃくった。
気がつけば、母親の服の肩まわりが私の涙と鼻水でベッチョベチョになっていた。後でちょっとカピカピに固まっていた気がする。
確か、その時母親が着ていたのはお気に入りのお出かけ服だったはずだ。お母さん、本当にごめんね。
運転席の父親は、バックミラー越しに私を見つめながら、男らしく鼻を鳴らした。
父親「よし!! 今日はお前の大好きな寿司を取ってあるからな!! 家に帰ったら遠慮しないでたくさん食え!! あと、コンビニでデザートも買ってくか? 何でも欲しいもの買ってやるから、今日で嫌なことは全部忘れろ!!」
野崎「じゃあ……っ、ゴールデンウィーク中に……お家に引きこもってやるための……ゲームでも、買ってもらおうかしら……(ズビッ)」
母親「ちょっと、泣きながら調子に乗るんじゃないよ」
父親「いいぞ!! 何でも買ってやる!! ゲームでも何でも好きなことして、連休中は楽しいことだけ考えろ!!」
この時、お父さんに何を買ってもらったんだっけ。
確か、任天堂の『スプラトゥーン』だったような気がする……。人間というのは不思議なもので、あのチーフにされた辛い記憶はあんなに鮮明に思い出せるくせに、こういう幸せな買ってもらった物の記憶はうっかり忘れやすかったりする。
でも、ゲームを買いに寄ったお店の店員さんが、私を一目見て「ギョッ……」とした顔をしたことだけは今でも覚えている。
それもそのはず、当時の私の顔は、泣きすぎて目がパンパンに腫れ上がり、涙と鼻水でドロドロの、お世辞にも直視できないほど凄まじい惨状だったのだから。
*
家に帰り、お寿司を囲みながら、今日学校の休憩室でマネージャーと交わした会話の内容を、一から十まで全て両親に説明した。
母親「なるほどね……。じゃあ、連休が明けて会社から連絡が来るまでは、次の異動先がどこになるかも分からないし、あのチーフがどういう処分になるかもまだ不透明な状態なんだね」
父親「とにかく、ゴールデンウィークの間は仕事のことは一切忘れなさい。お父さんがどこか楽しいところへ連れてってやるから。楽しいことだけを頭に入れておきな」
野崎「忘れたいって気持ちは山々なんだけどさ、やっぱり連絡が来るまでは心のどこかでドキドキしちゃうよ。もしかしたら、会社の上層部の話し合いの結果、異動じゃなくて『お前が辞めろ』って辞めさせられる可能性だってゼロじゃないしさ……。その場合、私、一瞬にしてプー太郎になっちゃうよ?」
私が不安げに呟くと、父親は真剣な顔をしてピシャリと言い放った。
父親「もしお前を辞めさせたりしたら、俺は会社(事務所)なり学校なり、とりあえず一言挨拶しに行ってやるからな。もちろん、暴力とかそういうバカな真似は絶対にしない。だけどな、自分の大切な娘をここまで傷つけられたことだけは、親として絶対に許せないんだよ。万が一、お前がプー太郎になったとしても、次の仕事が決まるまで俺がいくらでも養ってやるから安心しなさい」
私の父親は、本当に、死ぬほど娘に甘い。
母親「ドキドキしちゃうのは、こればかりは仕方のないことだよ。でもね、昨日次男が言ってくれた通り、その給食の仕事だけがこの世のすべてじゃないんだから。大丈夫。アンタはあの地獄みたいな酷い環境の中でも、逃げずに1ヶ月間も立派に頑張ってきたんだからさ。きっと次は、良い職場や良い人たちに出会えるはずだよ。……ほら、天国で死んだじいちゃんだって、きっとお前のことを見守ってくれているはずだしね」
野崎「えー、じいちゃんが見守ってくれていたなら、なんで最初からこんな酷い現場に私を配属させちゃったのさ……」
私が思わず不満を漏らすと、お母さんは大真面目な顔をして、とんでもないフォローを繰り出してきた。
母親「それは仕方ないわよ。じいちゃん……守護霊としては、まだ『新人』だから……」
野崎「守護霊の新人って何だよ!!」
そのお母さんの突拍子もない天然発言のおかげで、我が家のリビングにはドッと温かい笑い声が響き渡った。
私の守護霊になったばかりのじいちゃんが、あのチーフという巨大な悪霊(?)の力に負けて初戦でやられてしまったのだとしたら、それはもう仕方がない。
私は笑顔の家族に囲まれながら、久しぶりに心の底から美味しいと感じるご飯を口に運んだ。
明日から始まるゴールデンウィーク。私の、本当の意味での「戦い休み」が幕を開けた。




