第17話:さよなら、私の始まりの場所
「なんなのこれ、走馬灯? 私、もうすぐ死ぬの?」
そう自嘲してしまうくらい、この給食室で過ごしたわずか1ヶ月のあらゆる情景が、頭の中で目まぐるしく浮かんでは消えていった。
入社初日、初めて経験する大量調理に胸をワクワクさせていた私。
学校給食がこんなにも手の込んだ、気の遠くなるような安全工程で作られているからこそあんなに美味しいんだと、心の底から感動していた私。
学生の時には決して知ることのなかった、「社会人になるってことは、理不尽な我慢の連続なんだ」という現実を身をもって学んだ私。
(全部、全部……ここに置いていこう)
それは、これまでの未熟な過去の自分を捨てる、という感覚に近かったのかもしれない。
とにかく、この給食室で植え付けられた最悪な嫌な記憶だけじゃない。ここで自分が一生懸命に学んだものも、感じた新鮮な喜びも、すべてを一度この場所に捨てていきたかった。忘れたかった。最初からなかったことにしたかった。
*
午後のすべての作業が終わり、野崎は最後の着替えのために休憩室へと戻った。
いつもなら、私服に着替えた後にボイラー室の奥にある洗濯機へ向かい、その日に使った白衣や帽子などの制服を放り込んで、洗濯を回して干してから帰るのが一連のルーティンだった。
けれど、私はこの日、制服を洗濯機には入れず、そのまま自分のカバンへと静かに押し込んだ。
だって、その洗濯物が綺麗に干し上がる連休明けの日に――私はもう、この学校にはいないのだから。
私が洗濯物を出していないことに、明日からも誰も気づきはしないだろう。なぜなら、その「毎日の洗濯物係」という雑用さえも、この1ヶ月間ずっと新人の私一人に押し付けられていたからだ。
連休が明けて、私が突然いなくなったら、今まで私が陰で当たり前のように処理していたお茶汲み、休憩室の掃除、トイレ掃除、そして大量の洗濯物といった雑務の分担で、残されたおばさんたちはさぞかし大変な思いをするだろう。
よく考えたら、こういう面倒な雑用すべてを新人にだけ押し付け続けるのって、組織として普通におかしいのだけれど。
チーフ以外の調理員たちも、結局は自分が楽をできるから見て見ぬふりをして、何も言わなかったのだ。
調理作業がすべて終わって、みんながのんびりしている時間も、私だけがずっと汗を流して動き回っていた。
でも、今日だけは笑顔で洗濯だってやってやる。お茶汲みだって、いくらでも任せてほしい。どうせ、今日がこの場所での最後のご奉公なのだから。
お茶汲みのついでに、入社時に「持ってきなさい」と強制的に持ってこさせられていた自分専用のマグカップを、棚の奥からそっと回収した。
マネージャーは「ロッカーの荷物は僕が後から異動先に運びます」と言ってくれたけれど、制服や安全靴のような会社の備品だけが運ばれて、私の個人的な私物は面倒くさがられて捨てられてしまう可能性だってある。
結局、このマグカップは1ヶ月の間、ただの一度も使われることはなかった。
休憩時間、私だけが一杯のお茶すら飲めずにポツンと座っていることに、この職場の誰も、ただの一人も疑問に思わなかったのだから。
カバンに荷物を詰めていると、サブチーフが穏やかな笑顔で声をかけてきた。
サブチーフ「明日からいよいよゴールデンウィークだから、野崎さんもすごく嬉しそうだね!」
野崎「はい!! 本当に、めちゃくちゃ楽しみです!!」
調理員「どこか遠くへ行く予定でもあるの?」
野崎「いえ、特に予定はないです!!」
調理員②「若いうちはねぇ、どこに行かなくても『お休み』ってだけで無条件に嬉しいものよね〜」
調理員「そうそう、いくらでも泥のように寝られるものね。羨ましいわ〜。私なんて、お休みの日でも悲しいかな5時にはパッと目が覚めちゃうのよ」
調理員②「あはは、分かる〜! 私も全く同じだわ〜w」
野崎「うふふ、そうなんですね」
やっぱり、チーフがいない今日の厨房は、驚くほどよく会話の輪に入れてもらえる。
この職場で、こうして調理員のおばさんたちと他愛もない話をして声を上げて笑ったのなんて、これが初めてじゃないかと思えるほどだった。
サブチーフ「でも、せっかく仕事を少しずつ覚え始めたところなのに、長いお休みを挟んじゃうと、連休明けに頭からやり方が抜けちゃいそうでちょっと心配よね……。大丈夫そう?」
野崎「……はい! 大丈夫です!」
調理員「さすが若者ね〜。吸収が早くて羨ましいわ」
(みんな、ごめんね。私は休みが明けても、もう二度とここには来ないんだよ。あなたたちとお話をするのも、今日が本当に最後なんだ)
もし、あのチーフさえいなかったら、私はこのおばさんたちのことを心の底から好きになれていたかもしれない。
けれど、結局この人たちも、チーフの顔色を伺って自分を守ることで精一杯の、保身の人間なのだ。私がどれだけ理不尽に目の前で切り刻まれていても、誰一人として私を庇ってはくれなかった。
本当に、あのチーフさえ、あの女さえいなければ、ここでもっとたくさんの楽しいお話ができたはずなのに。
そんな感傷に浸っていると、一人の調理員がふと思い出したように私に尋ねた。
調理員「そういえば、野崎さんって地元の小学校はどこだったの?」
野崎「あ、私は〇〇小学校です」
調理員「あらぁ! 本当に!? そうなの!? 私、ちょうど10年前、その〇〇小学校の給食室で給食を作っていたわよ!」
野崎「え……っ。そうなんですか!? じゃあ、私……子供の頃に、〇〇さんが作ってくれた給食を毎日食べて育ったんですね」
調理員「やだぁ、本当に!? なんか鳥肌が立つというか、すごく感慨深いものがあるわぁ……。10年前に小学生だった子と、今こうして同じ厨房で一緒に働いているなんてねぇ。――よし、これからは先輩後輩として、一緒に美味しい給食をたくさん作っていきましょ!」
その温かい言葉は、本来なら涙が出るほど嬉しいはずのものだった。
けれど、今の私の胸には、冷たい現実だけが横たわっていた。
野崎「……。――はい!」
(ごめんなさい。私には、ここでの未来は……1ミリも残されていないんだよ。「これから」なんて、もうどこにも無いの)
「美味しい給食」。それは、あのチーフが自分の保身とプライドのために毎日免罪符のように唱えていた、大嫌いな口癖だった。
私は、あの歪んだチーフが支配するこの給食室にいる限り、一生「本当の意味で美味しい給食」なんて作れやしない。
私が、あなたたちの言う、子供たちを本当の笑顔にするための「美味しい給食」を自分の手で作るために――私は、この場所を捨てて、次の学校へ異動するのだから。
時計の針が、退勤の時間を告げた。
サブチーフ「それでは、皆さんお疲れ様でした! ゴールデンウィーク明けも、また心機一転頑張りましょう!」
調理員たち「は〜い、お疲れ様でした〜!」
周りが威勢よく声を上げる中、野崎だけは、その終わりの号令に対して決して返事をしなかった。
休憩室を出て、上履きからスニーカーに履き替え、正面玄関へと向かう。
重いガラス扉を押し開けた瞬間、夕方の心地よい風が私の頬を撫でた。その時、胸の奥から湧き上がってきたのは、恐怖でも寂しさでもなく、震えるほどの不敵な、謎の高揚感だった。
(さよなら。さよなら、私の地獄)
私は一度も後ろを振り返ることなく、一歩一歩、確かな足取りで校門へと歩を進めた。
私、この忌々しい学校と、今この瞬間をもって一生サヨナラするんだ。




