第16話:記憶の澱(おり)と、1ヶ月のクソ野郎
そうして、何食わぬ顔で施設の清掃を続けながらも、ノートには書ききれなかった、けれど今でも鮮明に思い出せる理不尽な記憶の数々が、次から次へと脳裏に溢れ出して止まらなかった。
思い返せば、あの1ヶ月間、私は毎日あいつのサンドバッグにされていたのだ。
*
チーフ『野菜の裁断をする時は、周りに声掛けをしてから始めてね』
野崎『どのような声掛けですか?』
チーフ『そんなの、周りを聞いていたら分かるでしょ!?』
(……私は今までずっと外回りの洗浄ばっかりさせられていたんだから、中の様子やどんな掛け声が飛び交ってるかなんて知るわけないだろ)
また別の日の、裁断中のこと。
チーフ『ねぇ、野崎さんって本当にバツイチじゃないの? 子どももいないの?』
野崎『違います……。結婚したこともないですし、子どももいないです』
チーフ『いやー、嘘だと思うなー。絶対に子どもいるって、ハハハw』
(いないって言っているだろうが、うるせえ!!! 仮にバツイチだったら何なんだ? 子どもがいたら何か問題でもあるのか? お前だって子どもがいるだろうが!!)
調理中の、あの突発的な言いがかりもそうだ。
チーフ『野崎さん。これ、金ベラで混ぜてみて』
野崎『はい……』
チーフ『ちょっと、混ぜ方が違うでしょ!? もっと底を擦るようにしないと焦げちゃうじゃん!!』
(急にヘラを渡してきて、たった3秒混ぜただけで焦げるって言うなら、それは渡す前のお前の火加減と混ぜ方の責任だろ)
チーフ『野崎さん。ちょっとあの人の動きを見てくれる? どこが悪いと思う?』
野崎『……分かりません』
チーフ『えー!? 分からないの!? ゴム手袋をしながら作業してるよね!? あれ、本来はダメだから!! マニュアルよく見てくれる?』
(ダメなことをしているなら、そのベテラン調理員に直接言えよ!! なんで目撃しただけの私にダメ出しをしてくるんだよ!!)
だから、マニュアルについてこちらから確認した時だってそうだった。
野崎『チーフ、ここのマニュアルの工程なんですけど、この学校では省略しても大丈夫なんでしょうか?』
チーフ『は!? マニュアルに省略していいものなんてあるわけないじゃん!! なんでやってないの!?』
(やってないのは私じゃなくて、お前らベテラン陣だろ!! なぜ現状のやり方を質問した私に対してキレるんだ? 頭が沸いているのか?)
給食を生徒に出す前、栄養士の先生が検食(味見)をしに厨房へやってきた時のこと。
栄養士『あら、新しい新人さん、一生懸命頑張っているわね!』
チーフ『いやぁ、それがちょっと覚えが悪くて……。作業も遅れ気味なので、いつもみんなに申し訳ないんですよ〜』
野崎『……ウッス』
(なんでわざわざ先生が褒めてくれているのに、お前がしゃしゃり出て私の評価を下げるの?? 作業が遅いって言うなら、お前の人員配置と作業配分が狂っているからだろ)
チーフ『ちょっと、あのオーブン閉めてきてくれる?』
野崎『はい。……あ、熱っつ!!』
チーフ『ミトンをしないと熱いに決まってるじゃん、ウケるw』
野崎『……』
(じゃあ最初からミトンを渡せや!! 予熱や残熱でそこまで熱くなっているなんて知るわけないだろ、クソが!! ……この時に負った火傷は、大きな水膨れになった)
ある日、先輩調理員が気遣ってくれた時のこと。
調理員『じゃあ、まずは私がやっている作業を、後ろからじっと見ててね』
野崎『はい。(後ろから手順を眺めて、必死に覚えようとしている最中)』
チーフ『ちょっと野崎さん!! 何突っ立ってんの!? 調理員さんの迷惑になるでしょ!?』
調理員『……あ、いや、大丈夫ですよぉ〜……』
(おい!! 先輩ももっとちゃんと庇えよ!! アンタが「見とけ」って言ったから立ってたんだろうが!!)
チーフ『ちょっと、この味見してみて』
味見用のカップに入れられた汁物を渡される。
野崎『はい』
私はマスクを少し下げて、味見をした。すぐにマスクを元の位置に戻して、
野崎『あの、味見をしま……s』
チーフ『はい、マスクを触ったらすぐ手洗い!!!』
野崎『はい……』
(――なのに、そのわずか5分後。他のベテラン調理員が、水を飲むために自分のマスクをベタベタ触った時は完全に黙認。それどころか、チーフ自身もその後、味見をしたり水を飲んだりした後に手を洗っていなかった。……ふざけるな★)
チーフ『ガス釜、点火しといて』
野崎『やり方が、まだ分からなくて……』
チーフ『はぁ……。なんでそんなことも知らないの?』
(まだ一度も習っていませーん!! なんならガス釜なんて人生で「初めまして」でーす!!)
チーフ『荷物届いたから、受け取っておいて』
野崎『はい』
業者『サインお願いしまーす!』
野崎『はい。(自分の苗字をサインする)』
チーフ『ちょっと、なんで私の名前を書かないの!?』
(知!ら!ね!え!よ! 書いてほしいなら最初から言っとけ!!)
極めつけは、私専用に支給された新しいエプロンだった。
まだ名前を書かせてもらっていなかったため、便宜上、ポケットの裏に小さく「〇」とだけ書かれていた。
ある朝、出勤してエプロンをつけようと思ったら、私のハンガーにかかっていない。厨房を探したら、なんとチーフの私物スペースに私の新品のエプロンがかかっていて、私のところには、前に辞めた人が残していったヨレヨレの小汚いエプロンが代わりにかけられていた。
普通に、人として信じられないくらい腹が立ったので、無言で自分の新品のエプロンを引っ掴んで取り返しておいた。
*
施設の床をデッキブラシで擦りながら、野崎は心の中でフッと冷たい笑みを漏らした。
こうして、たった1ヶ月の間にされてきた仕打ちを一つずつ冷静に思い出してみたら……。
あのチーフという女は、想像を遥かに超える、救いようのない本物の「クソ野郎」だった。
こんな奴のために、自分の心を病ませて、大好きな家族の前で涙を流して、あやうく大好きな給食作りの夢まで捨てさせられるところだったのだ。
(本当、辞める前にマネージャーに全部ぶちまけることができて良かった……。私は絶対に、あんな奴に負けない)
脱獄の準備はすべて整った。
野崎は強くブラシを握りしめ、明日から始まるゴールデンウィーク、そしてその先にある新しい未来へと、完全に前を向いていた。




