第13話:チーフのいない給食室と、最後の賭け
野崎「もしもし、お疲れ様です。〇〇中学校の野崎です。本日、体調不良のためお休みをいただきたくてご連絡いたしました……」
事務員「あ、新人さんですね。本当はチーフに直接連絡を入れていただきたいのですが……」
野崎「すみません……。実はチーフの連絡先を、私、まだいただいていなくて……」
事務員「あぁ、そうなのね。では、こちらから〇〇中学校の給食室専用スマホに連絡を入れておきますね。お大事にしてください」
(……今思えば、この時に「じゃあ今番号を教えるから、自分でチーフに連絡してね」と言われていたら、私の精神はそこで終わっていただろうな……)
事務員さんが詮索せず、優しく対応してくれたことが、この時の野崎にとって唯一の救いだった。
とはいえ、この日は一日中、自宅で生きた心地がしなかった。
携帯を見つめるたびに、チーフから怒りの鬼電がかかってくるんじゃないかとソワソワして体が震えた。相手は私の電話番号はもちろん、住所だって履歴書で知っているのだ。最悪、家に怒鳴り込んでくる可能性だってゼロではない。
けれど幸いなことに、チーフ側からは何一つ連絡がないまま、翌日の決戦の朝を迎えた。
*
いつも通り、調理員の中で一番乗りに出勤する。
厨房に入ると、予告通りチーフの姿はなく、代わりにサブチーフが立っていた。(チーフが休みの日は、サブチーフが早出をしなければならない決まりなのだ)
野崎「おはようございます。昨日は突発でお休みしてしまい、本当にすみませんでした……」
サブチーフ「あ、おはよう! 体調はもう大丈夫? 無理しないでね」
野崎「ありがとうございます……!」
サブチーフは、根は決して悪い人ではない。ただ、絶対的な権力を持つチーフには、絶対に逆らえないだけなのだ。
チーフが目の前で私を執拗に叱責している時は、ただただ申し訳なさそうな顔をして下を向いているだけ。だけど、こうしてチーフの目が届かない場所では、私に優しい言葉をかけてくれる。
驚いたのは、調理が始まってからの厨房の空気だった。
チーフがいない一日というのは、言葉を失うほどに快適だった。おばさんたちはみんな、普通に私に話しかけてくれるし、仕事の手順だって丁寧に教えてくれる。
(……なんだ。やっぱり、あのチーフが諸悪の根源だったんだ)
それはお昼休憩に入っても同じだった。
「ウチの子、〇〇が好きなんだけど、野崎さんはどう?」
「今、〇〇が出てるドラマ観てる?」
おばさんたちが、ごく普通に私を会話の輪に入れてくれる。
嬉しい。張り詰めていた心のトゲが抜けていくようで、本当に嬉しかった。
でもね――それならどうして、チーフがいる時も同じようにしてくれなかったのだろう。
みんながこうして普通に話を振ってくれるから、私だって自分からたくさんお喋りができたし、今までチーフに聞けずに困っていた業務の質問だって、ちゃんとすることができたのに。
皮肉なことに、チーフ不在のこの快適な環境が、野崎の決意をより一層硬くさせた。
(みんな、今日で私は最後なんだよ)
チーフがいなかったら、私は間違いなく、ここでずっと頑張れた。
新人の私が急に現場から消えれば、ただでさえ人手が足りないこの給食室のみんなが困ることくらい、分かっている。
けれど、もう揺らがなかった。
あの女がいる限り、この給食室の異常な体質が変わることは絶対にない。
チーフが新人を潰している間、みんなは自分の身を守るためにずっと見て見ぬふりをし続けるのだ。あいつがいない時だけ優しくされたって、私の傷ついた心はもう元には戻らない。
野崎は、サブチーフの隣にそっと歩み寄った。
野崎「すみません、どなたかマネージャーの個人の連絡先を知っている方はいますか?」
サブチーフ「あ、私知ってるよ。どうしたの?」
野崎「あの……実はまだ、会社から保険証をいただいていなくて……」
咄嗟に出た嘘だった。
サブチーフ「あらぁ! それは大変じゃない。不便でしょ?」
野崎「はい、病院に行ったりするのに少し困っていまして。いつ頃手元に届くのか、一度マネージャーに直接お聞きしたくて……」
サブチーフ「そうなんだ! じゃあ、これが番号ね」
メモ帳に書かれた番号を急いで頭に叩き込み、野崎は給食室の外へと飛び出した。誰もいない廊下の物陰で、震える手でマネージャーの携帯へと発信する。
コール音が数回鳴り、カチャリと繋がった。
野崎「もしもし、お疲れ様です。突然すみません、〇〇中学校の野崎ですが……」
マネージャー「あぁ! 野崎さん! どうしました?」
野崎「あの……大変申し訳ないのですが、今日、こちらに直接来ていただくことはできませんか……? どうしても、マネージャーに聞いていただきたいお話があるんです」
マネージャー「えっ……?」
野崎「ただ、他の調理員さんたちには絶対にバレたくなくて……。現場には『保険証の件で電話した』と嘘をついて番号を聞き出したので、もし厨房に入られる際は、話を合わせていただくことはできますか……?」
受話器の向こうで、マネージャーが事態の深刻さを察したように息を呑むのが分かった。
マネージャー「……あぁ、分かりました。それなら『新人さんへの定期面談』という建前で、今日そちらに向かいますね。午後の清掃が終わる頃には、学校に到着できると思います」
野崎「すみません……お忙しいところ申し訳ありません。よろしくお願いいたします」
通話を切ると、冷たい汗が背中を伝った。
これで、もう後戻りはできない。
(マネージャーが来たら、あのノートに書いた地獄のすべてを、一つ残らずぶちまけてやる――)
私が本当はまだ、ここで給食を作りたいと思っていること。だけど、この学校の、あのチーフの元では、どれだけ頑張ってもこれ以上は無理だということ。その全てを突きつける。
それで「そこまで言うなら新人のお前はいらない」と会社に切られるなら、未練なく潔く辞めてやろう。
もし、違う学校への異動を認めてくれるというなら、今すぐにでもここから救い出してもらおう。
午後の作業中も、迫り来る決戦の時間を前に、野崎の心臓はバクバクと破裂しそうなほど激しく脈打ち続けていた。




